第六節 襲われた鏢局
その後もたびたび東巌子は二人の前に姿を現しては、遠巻きに七絃琴の音色を奏でた。ある時は泊まった宿の庭で。またある時は河渡しの船の上で。またある時は街道の曲がり角で。またある時は酒屋の前で。行く先々に姿を現してはいつの間にやら消えている。
もちろん、何度かこちらから近づいて一体何の用件があるのかと問い質そうとしたこともあった。しかしそのために一歩踏み出せば、東巌子は瞬きする間にどこへともなく消え去ってしまうのだ。
――これは偶然ではない。偶然であるはずがない。常に付かず離れず、一定の距離を保ったままただひたすらに琴の音を聞かせて来る。東巌子は何らかの思惑の下に、二人をつけ回しているのだ。
「奴は隠者なのではなく、野盗の類じゃ。わしらに狙いを定め、追い回し、気を狂わせて消耗しきったところを一掻きにする腹積もりなのじゃ」
李白の雑な推測に、この時ばかりは辛悟も頷くしかなかった。あれだけの内功を有した者がわざわざそんな回りくどい事をするとは考えづらいが、一応の筋は通った見解だ。それに――と辛悟はあの山中の破れ庵の光景を思い出す。
(ただ一人で隠棲しているはずなのに、食器が当たり前のように二人分あった。椅子も二脚。服を洗濯している間に借りた衣類は東巌子には大きさが合わない。壁には長いこと着られていない質の良い白の外套もあった。だがあれも東巌子には大きすぎる)
人を招き入れ、油断させ、その身ぐるみを剥がして奪う。なるほどそれであればあの光景も説明が付く。
いずれにせよ、このままではいずれ精神が疲弊してしまうだろう。かと言ってただ琴を奏でるだけの老人に刃を向けて亡き者にするのは憚られる。傍から見れば東巌子が野盗であると証明するものは何もない。それに一時は曲がりなりにも歓待を受けた相手だ。そんなことはできるはずがない。
それで何とか軽功を駆使して山中を駆け抜け、ようやく撒いたかと思ったところが冒頭のあのザマであったのだ。
またどれだけの距離を走ったのか、李白は足を止めるやどっと地面に横たわる。少し遅れて辛悟もまたその場にぐったりと頽れた。
「えぇい、畜生。このわしが軽功で駆けたにも関わらず、あんな枯れ木ジジイに容易に追いつかれるとは。それもこれも、みんな辛悟のせいじゃ」
「なんだと? なぜ俺のせいになるのだ」
「貴様、自分の足元をよく見てみよ」
言われた通り辛悟は足元を見下ろすが、別段変な部分はない。振り返ってみても足跡の類は残していない。追跡を許す要因など見当たらないが……。
「その短足でどれほどの速さが出せるかね、えぇ? わしが奴を振り切ったとして、貴様が奴の追跡を許せば意味ないわ!」
「――悪滅脚!」
辛悟は疾駆の疲れもどこへやら、李白の顔面へ両足裏での蹴りをお見舞いした。ぷげっ、と漏らして地面と足との間に頭を潰される李白。
「ともあれ、またいつ追いつかれるとも限らん。できるだけ遠くへ逃げなければ」
「そうは言っても、わしはもう疲労困憊じゃ。馬でも借りねば動けぬぞ」
悔しいところだがその通りだ。山野を全力で駆け抜けたため、もはやこれ以上の脚力は残されていない。辛悟としても今の飛び蹴りで無駄な体力を消耗してしまった。喰らった側はなぜかぴんぴんしているが。
「……ん? んんっ?」
「どうした。遂にミミズの如く生きることにしたか」
李白が突如、地面に耳を擦りつけてずるずると這いずり始めたのだ。やれやれ、頭を殴られ過ぎてとうとう正気を失ったか、と息吐く辛悟。もちろんその一端を担った事実は肥溜めの中に投げ捨てている。
しかし幸か不幸か、李白は未だ人間性の欠片まで酒代に換えてはいなかった。ばっと身を起こすや、ふらふらの足取りで走り出す。
「こっちじゃ辛悟、こっちじゃ。こちらから馬の蹄の音がするぞ」
これはなんたる僥倖か。天の助けと辛悟も慌ててその後を追う。草木を掻き分けて進むことしばらく、二人は倒れ込むようにして街道に出た。そして見つけた。栗毛の馬が一頭、鞍も手綱も付けて乗り手を待つかのように佇んでいる。
二人は同時に駆け出し、そして同時に互いへ向けて拳を突き出した。人は二人、馬は一頭。跨ることのできる人間は一人だけ。であれば自然の摂理として、醜い争いが生まれるのは必定と言えた。
「李白、貴様っ。足の長いのが自慢なのだろう。お前は自分の足でついて来い」
「ボケ辛悟が、馬がおると言うたのはこのわしじゃ。わしが乗るべきじゃ」
「お前なんかが手綱を握っては馬が酒気に
「お主が跨れば馬に短足が
「どういう状況だそれはっ!」
両者取っ組み合いになりながら馬に近づこうとする。髪を引っ掴み頬を張り、足を絡ませ腰に抱き付く。くんずほぐれつしながらゴロゴロと馬の足元へと転がった。こうなると驚いたのは馬の方だ。突如足元に醜悪な物体が転がって来れば当然驚きのあまり逃げ出すものだ。
あっと二人は同時に発して、そこでようやく馬が走り去った先の街道に意識を向けた。目先の事に捕らわれて見えていなかった、あまりにも異常な光景にようやく気付いたのだ。
馬車が一台横倒しに倒れていた。幌は斬り裂かれ、荷台に載せられていたと思しき木箱の残骸が周囲に散らばっている。そしてその残骸に交じって、人間が倒れている。その誰もが首や胸に傷を受けて既に絶命していた。馬車に繋がれた馬は矢を受けて息絶えている。
「これは……なんと酷い」
見ただけでわかる。ここで今しがた強盗が行われたのだ。道行く無辜の者に矢を射かけ、皆殺しにし、積み荷を奪って行ったのだ。
この状況下で馬を取り合い争っている場合ではない。二人は即座に息のある者がいないか見て回る。が、いずれも死人であることを再確認しただけに終わった。
「こちらも駄目じゃ。既にこと切れておる。――おい辛悟、あれはなんじゃ?」
李白が指差したのは街道のわき、斜面になった草むらの先だ。視線を向けて目を凝らして見れば、確かに何かがそこに在る。急いで駆け寄ってみれば、まだ息のある人間だ。全身にかすり傷を負い、背中には矢が突き立っている。状況から見て、逃げようとしたところで矢を喰らい、そのままこの斜面を転げ落ちたのだろう。そのおかげで矢は折れた上に深々と彼の体を貫いてしまっている。街道で倒れていたのは防具を身に付け武器を手にした鏢師のようであったが、こちらは商人の形をしている。
「何があった? 誰にやられた?」
傷の具合からして助かる見込みはない。辛悟は商人の体を抱き起して丹田に気を送り、せめて呼吸を楽にしてやった。この時、辛悟は商人の顔に見覚えがあることに気づいた。
(こいつ、確かあの飯店で飯を食っていた客じゃないか?)
桃家飯店で食事を摂ったとき、少し離れた席に座っていたはずだ。李白が後にいざこざを起こした壬龍鏢局の男たちと何か話していたのを目の端に覚えている。
男は辛悟の目を見て口を開く。が、その口から出たのは僅かな言葉と一塊の血だけだ。
「ひょ、鏢……」
それきり商人の体は力を失くしてしまった。死に際になってまで鏢局の安否を気にしたのか、それとも守ってくれなかった恨み言であったのか。その真意は辛悟にはわからない。亡骸をその場に横たえ、街道に戻る。
横倒しになった荷馬車の側で、李白が何やらごそごそとやっていた。
「……何をしている?」
もはや聞くまでもないことを一応聞いてみる。
「何をじゃと? 見てわかるじゃろうが、残った金目の物を探しておるのじゃよ。このまま捨て置いても誰かの物になるんじゃ、わしが懐に入れても文句を言う輩はおらぬ」
「異論はないが、お前は本当にクズだな」
よせやい照れるじゃないか、と李白。もっと言ってやろうかとした辛悟であったが、ふと背後のそれに気付いて動きを止める。いつか、どこかで感じた気配に。
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