第五節 碁会所の惨劇
元々思い付きで漂泊の身となった辛悟には十分な所持金がない。先の飯店ではほぼ手つかずで残してきた料理と酒、そして迷惑料も含めて置いてきたのだが、これがかなりの痛手となってしまった。李白は一銭も持っていないと言いながらも方々で酒屋に入るものだからさらにたちが悪い。これでは素寒貧になるのも時間の問題と、手持ちを手っ取り早く増やすため二人は揃って賭場へと足を運んだ。
幸い初めて入った賭場では辛悟の囲碁の実力を知る者はおらず、最初のうちは稼ぎ放題だった。若輩と思っていた相手が意外にやるので、賭場の誰もが興味津々の様子で辛悟の側に詰めかけ対局の様子を観戦し始める。この日三人を既に下していた辛悟の次の相手は中々手強く、両者とも碁盤を穴が開くほど睨みつけては一進一退の攻防を続けている。しかし徐々に辛悟が優勢に立ち始め、じわりじわりと攻め込んでゆく。対戦相手は歯を食い縛って沈思黙考し、二人を取り囲んだやじ馬たちも息を呑んで勝負の行く末を見守っていた。
ただ一人を除いては。
「おいおい、辛悟よ。ここでそんな攻め方をする奴があるか。ここはほれ、こちらへ回り込むべきじゃろうが」
「おめーは少し黙ってろ李白!」
碁石を打つ腕をわざと大きく振り上げ、横から要らぬ口出しをする李白の顎を打ち上げる。ぴげっ、と呻いて李白は後ろにひっくり返った。どうせならばそのまま眠っていてほしいところだ。
「おい、そいつは一体お前の何なのだ。二人がかりと言うなら掛け金は倍だぞ」
対局相手の男が口を挟む。三十代程で顎鬚を長く生やし、書生の
「助っ人を頼みたいのならそうと早く言えば良い。掛け金が二倍になろうが三倍になろうが、気にするものか。自分の懐と相談して決めるが良いさ」
「貴様、年長に向かってその口の利き方はなんだ! 後になって泣きべそをかいても知らんぞ」
楊は肩を怒らせつつ碁石を打ち込む。勝負を申し込んだ楊は黒石だ。辛悟は間髪入れずに白石を打つ。うぐっと呻く楊。対局そのものは互角に流れているが、一手を繰り出すのに要する時間は圧倒的に辛悟の方が短い。楊が脂汗を額に浮かべながら熟考している間、辛悟は悠々と茶を啜るのである。
そこへふと、割り込む音があった。いつから奏でられていたのか、気づいた時には既に存在していた。そよぐ風のように、滴る雨粒のように、自然に溶け込んだ琴の音が。
それに気付いて辛悟はふと顔を上げた。はて、一体誰が弾いているのだろうか。余裕綽々の戯れにしばし耳を傾けた辛悟であったが、ふとその眉間にしわが寄る。一つはその曲調に聞き覚えがあるが故に。もう一つはその曲が孕む名状し難い音色に。
その曲は清風が流れ夜露が葉を揺らすような風情を漂わせていたが、良家の子息としての教育を受けてきた辛悟にとっては異なる音色に聞こえたのである。すなわち、死臭を孕んだ墓所の柳が奏でるさざめき、土中から啜り泣く亡者の嘆きのようであったのだ。
(こんな場所で、一体誰がこんな曲を。陰鬱過ぎて気が滅入ってしまうではないか)
辛悟はやじ馬に囲まれているため奏者の姿は見えない。本当は今すぐにでも演奏を止めさせてこの場から追い出してやりたかったが、今は大事な対局の最中だ。席を立とうものならば戦局如何に関わらず勝負を投げ出すのかとの誹りを受けよう。
「おい、爺さんよ。誰の断りを得てここで稼ぎを得ようとしているんだ、えぇ?」
やじ馬の向こう側で誰かがそう言うのが聞こえた。どうやらこの賭場を縄張りにしているやくざ者が奏者に喰ってかかったようだ。乞食であろうが芸人であろうが、稼ぎを得るにはみかじめ料が必要だ。やれやれ、世の中平穏無事に過ごすにはやはり金か、などと達観したことを心中呟いてみる辛悟。ところがその瞬間、一際耳に刺さる音がビィンと鳴った。次いでどさりと砂袋が落ちるような音。
(……今のは?)
一瞬の事だが、今の音は辛悟も聞いた。鳴らし損じた琴の音のようであったが、実のところ内力が込められていたのだ。一流の内功を持つ者は、実体のない音にさえも内力を込めて発揮することができる。その音を聞いた者は精神を揺さぶられてしまうのだ。この奇怪な音色の奏者はそれをやったのだ。後に続いた砂袋のような音は、やくざ者が地面に転がったものに違いない。
ビィン。また内力の籠った音が飛ぶ。そしてまたも、どさっ、と誰かが倒れる。今度は近い。辛悟が視線を巡らせると、ちょうどやじ馬たちの最後列にいた一人の頭がふっと消えゆくところであった。
(なんて輩だ! 絡んで来たやくざ者はともかく、ただ対局を観戦しているだけの者を襲うとは!)
辛悟は驚愕しつつも、即座に気息を整え内功を巡らせる。直後、またビィンと精神を揺さぶる音が響く。どさどさっと二、三人が一度に昏倒させられる。一音一音が奏でられるたび、やじ馬たちはその場に倒れ込んでいった。この事態に気づいた者もいたが、直後の音にやられて誰一人悲鳴すら上げられない。遂には壁のように取り囲んでいたやじ馬は一人残らず床に伸び、残ったのは辛悟と楊の二人だけだ。あれだけざわついていた賭場が今では墓地のような静けさで、周囲には死人のように大勢が倒れている。何とも
(誰だ、こんなことをする狂人は!)
やじ馬が倒れたことで視界は開けている。辛悟は怒り心頭で頭を回し、そして見つけた。賭場の隅に胡坐をかいて、足に乗せた七絃琴を爪弾くその姿を。
「――東巌子!」
思わず声に発していた。その瞬間、編み笠の下にある紅い双眸と視線が交わる。そして笑んだ。顔面の筋肉を一切動かさない、歪な笑みを見せたのだ。
「くぅ……こうなれば、こうだっ!」
武芸者に見えない楊がここまで東巌子の曲に気を失わなかったのは、単に眼前の対局に集中し過ぎて周りの音が一切聞こえなくなっていただけに過ぎない。ビシッと黒石を盤上に叩きつけるや、ぐらりと体が傾ぐ。気が緩んだ瞬間に東巌子の狂曲が襲い掛かったのだ。もしも彼までも倒れたならば勝負にならない。ここまで繰り広げてきた攻防が全て無駄になってしまう!
辛悟は白石を摘まんで即座に打ち返すや、潰した黒目をザッと払い除けた。飛ばされた黒石は一直線に東巌子に襲い掛かる。そして同時に怒りも露わに叫んだ。
「何のつもりだ、東巌子! 勝負の邪魔をするんじゃない!」
瞬間、琴の音は瞬時に掻き消えた。さながら雨雲が裂けて陽光が差し込んだかのような爽快感だ。そして同時にばらばらと賭場の壁に当たった碁石が散らばる。
東巌子はまたも、忽然と姿を消したのだ。
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