第七節 濡れ衣
振り向いた、その先に。黄土色の袍を纏い、腰帯を二尾のように垂らし、杖を片手に、編み笠を目深に被り、背中に七絃琴を背負った東巌子の姿がそこに在った。しかし、その立ち居姿は今までと異なっていた。様子が今までと、違う。
「小人
すっと腕を掲げて杖の先端をこちらに向ける。それで辛悟は悟った。東巌子が何を言わんとしているか。
はぁあ? 李白が顔面をこれでもかと歪めて飛び出し反論する。
「貴様は目が見えんのか? ここには二人いるのじゃぞ」
「それは今どうでも良いだろ」
つまらない人物は人目のないところではどんな悪事でも働くものだ――要するに、二人とも凡人と罵られた挙句、この強盗の所業を行った犯人と勘違いされたわけである。辛悟としては別に自分が偉大な人物であるなどとは思っていないが、強盗と間違われるのは御免だ。対して、李白には前者の挑発こそ効果的だった。
「ようやく口を開いたかと思えば、ごたごたとバカを抜かすでないわ! 文句があるならば言え、義侠を語ってわしらを討つと言うならば、この辛悟が相手になるぞ!」
「……は?」
問い詰める間もなかった。李白は即座に街道の反対側へ向かって駆け出し、そして東巌子は一足で間合いを詰めてきたからだ。
(マジかよ!?)
下段の一閃を紙一重で仰け反り回避する。返す手で今度は振り下ろしの一閃。辛悟はさっと左腕を掲げてこれを事前に受け止める。加速がつくよりも先に受けることで相手の攻めを遮るのだ。さらに右の手刀を自身の左腕から杖身へと走らせる。攻めの末端を逆に辿れば必ず相手にたどり着くのは道理である。
しかし東巌子も愚かではない。即座に杖を引き後退する。手首を返して杖を掴もうとした辛悟の手は空しく宙を掴んだ。
(まあ、この程度はできるよな)
一歩退いた東巌子だが、すぐさままた間合いを詰めて杖を揮う。横薙ぎの一閃をすんでのところで屈んでやり過ごし、そのまま胴へ向けて掌打を送る。バシンッ! 東巌子の繰り出した掌がこれを受ける。互いの掌力が拮抗し、両者同時に後方へと飛ぶ。着地と同時に構えを取る。東巌子は両足膝を軽く曲げて揃えつつ、左半身を前にして掌で顔を隠すように立ち、右手の杖を後方下段に構える。対して辛悟は左足を半歩引いて体を正面に開きつつ、右掌を頭上に掲げ左手をその肩の辺りに添えて立つ。
「ほう。その構え、
「知りたいか? あんたには関係の無いことだ」
言い終わる前に踏み出す。掲げた右掌を真下に打ち下ろす。ついと横に移動した東巌子の頬を掠めるように掌風が吹いた。ドカッ! 目標を失った内力はそのまま地面を穿つ。
辛氏大篆掌法はその名の通り、辛家に伝わる書道を下地とした武芸である。かつて辛悟の祖父、辛大老は官僚であったが、ある時無法者により辱めを受けた事がある。その経験から己の身を守る術としてこの武芸を編み出した。その型は宙に大書するかの如く行い、筆の運びと同じく緩急剛柔自在である。
第一画は躱されたが、すぐさま第二画を左手で書く。東巌子の掲げた左手の防御が弾かれる。ここで体を一回転、右掌を斜めに打ち下ろす。間髪入れずに今度は逆方向からの左掌。東巌子は杖を掲げて受けるが掌力に押されて後退する。だがここで、辛悟は左手の一撃に力を込めなかった。右手と同程度の掌力を乗せるものと思っていた東巌子の腕が、その力の差にやや浮き上がる。空いた胴に、辛悟はさらに三回の掌打を送った。横に二画、次いで縦に一画――「辛」字の型である。
だがしかし、いつまでも受け手に回っている東巌子でもなかった。さらに半歩を後退して間合いを逃れると、さっと地を蹴って小さく跳躍、そのまま体を捻って杖を一閃させる。ほぼ一回転した杖先は加速がついている。辛悟は最後の縦一画を中断してさっと腕を引いた。紙一重で杖先が掠め過ぎる。
「むっ!?」
痛みを覚えて辛悟が右腕を押さえると、べっとりとその手に血が付いた。今の一閃で腕を斬られたのだ。――斬られた?
(バカな! たかが杖の一閃で、どうしてこうも鋭利な切り傷を付けられるんだ?)
何かがある。それは間違いない。だが考えている余裕もない。今度は東巌子が攻める番だ。追撃の突きが迫る!
「ちっ……!」
舌打ち、首を傾けてこれを回避する。さらに身を翻しながらの連続三連閃。左右交互に襲い掛かるのを辛悟はまた事前に受け止めることで防御する。だが次の瞬間、東巌子の体は深く沈む。地面すれすれの超低姿勢から足を狙うつもりなのだ。辛氏大篆掌法の弱点は、すなわち手の届かぬ足元なのである。
「――ざけんなっ!」
跳躍。そのまま右膝を東巌子の顔面に叩き込む。
「自分の弱点如き、とうに把握済みだ!」
吹き飛ぶ東巌子。その腕がまた杖を揮う。ヒュン、届かぬ距離を掠め過ぎる。しかし、辛悟の足は斬られていた。
(まただ! また、間合いの外から斬られたぞ。一体どんな妖術を使っていやがるんだ?)
傷は浅いが痛みが酷い。東巌子は自ら飛んだために血の一滴も流していない。手傷を負ったのは辛悟だけだ。
(焦るな。何もこいつを倒し切らなければならないわけじゃない。斬撃の正体は気になるところだが、ここは逃亡の策を見出すべきだ)
痛みを押して構える。東巌子もまた先ほどと同じ構えを取っている。五歩の距離、しかし今度はどちらも動こうとしない。互いの力量はおおよそ計り終えた。実際のところ、武芸の巧拙に関して言えば両者互角である。ただ東巌子の用いる謎の斬撃がそこにわずかな差を生み出しているに過ぎない。あの斬撃を何とか繰り出せぬようにすれば辛悟にもまだ活路はあり、一方で東巌子もその技を破られれば優勢を失いかねない。互いにそれがわかっているからこそ、なかなか踏み出せずにいるのである。
ジリ……ジリ……。距離を保ちながら位置をずらす。一部の隙も見せようとはしない。ほんのわずかな油断が勝負を揺るがす。この均衡を崩すのは……二人のどちらでもなかった。
「うおぉぉぉっ、止まれ、止まれっ! いや止まるな
「――!?」
二人とも思わず同時に視線を向けた。街道の先から、栗毛の馬が首に李白をくっつけて猛然と駆けて来る。瞬く間に睨み合う二人の横をすり抜ける。突然の事に東巌子は構えを解いている。――行くならば今しかない。辛悟は地を蹴り、馬の背に飛び乗った。直後東巌子が飛びかかって来たが、銅銭を暗器代わりに投げつけて退ける。その一瞬の間隙を縫って駆け抜けた。後はそのまま、わき目も振らずに走った。
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