第三節 中天幇会

 胸元へ掌を繰り出すと同時に体側面へと回り込み、もう一方の腕で肘を打ち込む。そのまま掌打の手で相手の腕を掴み、距離を詰めたまま肘を支点に裏拳を顔面部分に打ち込む。カァン、と乾いた音が山間に響いた。

 辛悟はまたさっと正面へ回り込むと、素早く両掌による横打ちと下腹部への打撃を放つ。その瞬間、メキッと妙な音が生じる。辛悟は気にせずさらに三連掌打を繰り出した。

 相手は丸太だった。それを地面に深々と突き立て、さらに腕と足に見立てた横木を差し込んでいる。これで体捌きと攻め手の連環とを同時に修練するのである。どれだけ打っても逃げずにひたすら技を受け止めてくれる優秀な組手相手だった。……だが、そんな木人でも悲鳴は上げる。先ほどから掌打を受けるたび、ミシミシと嫌な音が漏れていた。

 掌が加速する。辛悟は一気呵成に「悟」の字を描いた。最後の一画を横薙ぎに放った瞬間、とうとう木人は真二つに折れてしまった。どぉん、と砂埃を上げて横倒しに倒れる。辛悟はそれを見届けてから、ようやくふぅと息を吐いた。それから両手を掲げて握りと開きを繰り返す。

「上々、かな」

 折れた丸太を蹴飛ばし、脇に除ける。

 岷山に籠ってもう一年になるか。辛悟はふと昔を思い出した。

 その者は自らを「天吏獄卒てんりごくそつ」と称した。天に代わって悪を討つ、任侠の徒と崇められていた。だが辛悟はその天吏獄卒によって瀕死の重傷を負わされたのだ。全身の骨を砕かれ、経絡が断裂した。その傷を癒すためにここまで逃れてきた。三月の間は毎日生死の境をさまよい、半年は寝たきりの生活を強いられたものだ。義兄弟の東巌子がその無限の内功「両儀功」を分け与えてくれなければ死んでいただろう。

 今では骨も繋がり、その両儀功によって内力も著しく向上した。塞翁が馬とはこのことか。

(しかし、天吏獄卒と再び相見あいまみえるにはまだ足りない。今しばらくの鍛錬が必要だ)

 天吏獄卒との再会を望むのは、決して意趣返しのためではない。ただ一つ、問いたいことがあるためだ。そのためにもこの辛氏大篆掌法しんしだいてんしょうほうを究める必要があったのだ。――しかし、まだ足りない。

 ガサッ。不意に背後で茂みが揺れた。考え込んでいたために周囲に対する注意が逸れていた。辛悟がはっとして振り向けば、ちょうど茂みからそれが転がり出たところであった。

 男だ。歳のころは三十代後半から四十か。その服は泥沼の中を泳いできたのかと思えるほど泥にまみれ、またあちらこちらが木の枝に引っ掛けたのか破れてしまっている。しかしよくよく見れば下地は薄緑に襟には銀糸の刺繍、元は仕立ての良い品であったと伺える。

 辛悟はさっと身構えた。男の手に長柄武器と思われる細長い包みがあったからだ。

「あ、あんた」

 男は口を開いたが、焦ったせいですぐに言葉に詰まってしまう。何度か呼吸を繰り返して落ち着こうとするのを、辛悟は身構えつつも待ってやった。こやつ、何者か?

 ふう、と息を吐き男は抱拳礼を示す。

「失礼した。私は中天幇会ちゅうてんほうかい錦威きんいと申す。貴殿は岷山に住まう高潔の道士様とお見受けするが、さては青蓮居士殿ではありませんか?」

 辛悟はピクリと眉を動かした。

(中天幇会だと? 閬中ろうちゅうの者がなぜこんな場所に?)

 閬中は三国志に有名な張飛ゆかりの地。そこを拠点に活動しているのが中天幇会だ。さして勢力があるわけでもないが、辛悟も名だけは知っていた。しかしそれがなぜこんな岷山の奥地に、泥だらけで現れたのだ? しかも男は自らを羅姓と名乗った。辛悟の覚え違いでなければ、それは現幇主の志武しぶと同じ姓だ。

 心中の疑念を隠しつつ、辛悟は頭を振って男の問いに答えた。

「私は李白ではありません。奴に会いたいなら案内して差し上げてもよろしいが」

 李白が鳥を肩に乗せたまま人前を出歩き、自らを仙人と称しては供物をせしめて回っているとの話は聞いていた。それでどこぞの太守から推薦を持ち掛けられ、にべもなく蹴ったことも。今や岷山には俗世との交わりを絶った名士が隠れ住むと噂になっているようだった。

 辛悟は知らず構えを解いていた。なんだ、この男はそんな事実無根の与太話を信じて李白に会いに来たのか、と。

 だが、実際のところは違った。羅錦威は大仰に頭を下げる。

「いえ、それには及びませぬ。ただ貴殿の武功には感服つかまつった。掌力で大木を圧し折るなど並みの武芸者にはできますまい」

 辛悟の眉がとうとう隠し切れぬ感情によってぐっと中心に寄る。あの程度のことは一流の武芸者であればできて当たり前だ。辛悟自身、誇れるものとは思っていない。だが羅錦威の様子から見て、彼が本心から感服しているのは間違いなさそうだ。それはつまり、彼自身の武功が二流三流のものであるということだ。

「過分なるお言葉には感謝いたしますが、私は未だ修練中の身。この場はこれにてお暇いただきたく思うのですが」

 遠回しに「邪魔だから消えろ」と伝える。が、羅錦威は「いえ、そうではなく」と食い下がる。

「遠回りな言い方をしてしまい申し訳ない。単刀直入に申しましょう。貴殿のような高手つかいてに、どうかこの一振りを受け取っていただきたい」

 そう言って手にした長包みを両手で差し出す。いよいよ辛悟の顔には疑惑の色が満ちる。差し出されたそれを、受け取らぬまま包みを解く。中から現れたのはほこすいのような明緑色の塗装が施された柄は所々が剥げているが、袋部分の金色と刃だけはギラリと曇りのない鏡のように光を反射する。その刃にはぐねぐねと蛇のような波紋が浮かんでいた。

「これは、まさか! 中天幇会の宝、張飛矛ちょうひぼうではないか!」

 中天幇会に所属する者はその拠点を閬中とするだけに、張飛が用いたとする矛の武器を良く扱った。そして幇主はその張飛の遺品と伝わる「張飛矛」を代々受け継いできたのだ。

 しかし、その幇会の宝がなぜここにある?

「これは中天幇会幇主の証となるもの。幇主のみが持つことを許され、受け取れば幇主の座に就かねばならない。そんな宝を、この卑しい身で受け取れるわけがない」

 当然の返答だ。受け取るわけにはいかない。幇主の証がそう簡単に他人へ譲られるものであってよいはずがない。ここにあるべきものではない。

 すると羅錦威は目に見えてがっくりと肩を落とし、それどころか嗚咽を漏らし始めた。――泣いている! 大の男が、初対面の相手を前にぐずぐずと泣き出したのだ。

「おい、おい! 一体どうした? 何事だ?」

 これには辛悟も驚くと同時に焦った。何かまずいことでも言っただろうか? しかし、無茶を言ってきたのは羅錦威の方だ。幇主の証を譲るだなどと。

 すると羅錦威は突如天を仰いだかと思うと、わっと声の限りに慟哭した。

「中天幇会は、もはやこの世のどこにも存在しない! あるのはただ、この証だけだ! 再興の望みはこれしかないのに!」

「なんだと?」

 辛悟の驚くまいことか。小規模とはいえ、中天幇会は名の知られた組織だ。そう易々と江湖から消えることはないはずだ。それが存在しないだと?

「羅殿、落ち着いて。どうか事の次第をゆっくりと話してはいただけないか」

 いつもの辛悟ならば、見知らぬ他人がどんな奇行に走っていようが横目ですら見ずに放っていただろう。そんなのはここ数年誰かのせいで慣れてしまった。だが今回ばかりは事情が異なる。相手は推定中天幇会幇主の縁者で、なぜだか知らないが幇主の証を持っている。そして、中天幇会はすでにこの世に無いと。

 何か胸騒ぎがした。江湖を揺るがす何かの前触れを、辛悟は知らず感じ取っていたのかもしれない。

 そして羅錦威は語り始めた。

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