第六節 罪の告白

 程瑛が唇を噛み、ぐっと顔を伏せて目を閉じて、何やら沈痛な面持ちで立っている。一体どうしたのかと東巌子が首を傾げようとした瞬間、突如目を開いたかと思うとばっと地に伏せ叩頭した。

「織女様、お許しください! すべて私が悪いのです。私が勝手にしたことなのです。兄さんは何も悪くない。だから、だから……どうか呪うならこの私を! 死んで償えるならこの命も差し上げます。兄さんを恨まないで、許してやってくださいませ」

 程瑛、と呼びかけようとした言葉は喉元で止まってしまった。東巌子は何を言われたのやらてんで見当もつかない。ややあってから、ようやく「何のこと?」と問いかける。程瑛はひれ伏したまま、嗚咽交じりに答えた。

「織女様がこちらへお越しになられた三日後、とある殿方が訪ねていらっしゃったのです。その方は織女様より少し年上で、人を探していると申しておりました。見知らぬ老人か若い娘が来てはいないか、と」

 東巌子の驚くまいことか。その殿方とやらが誰なのか、たちどころに理解した。

(辛悟だわ!)

「その方の尋ね人はたいそう肌が白く、白絹のような髪をしていると。私はすぐに織女様を探しているのだと気づきました。気づいて――そのような方は知らないと、追い返してしまったのでございます」

「そんな、どうしてっ!?」

 思わず東巌子の言葉は大きくなり、程瑛はぶるりと体を震わせた。紡ぐ言葉もいよいよ震えが酷くなる。

「兄さんはあの日までとても落ち込んでおられました。理由はご存知の通り、羽衣に魅せられたから。それが織女様が参られてからはあの喜びよう、まるで子供のようにはしゃいでいたのを覚えていらっしゃいますでしょう? ……私は、兄さんにあのままでいてほしかった。もしも……もしも、織女様がまたすぐに去ってしまわれては、また落ち込んで痩せ細ってしまうのではと、私は不安になったのです。織女様を手放したくなかったのです。それであの方を、織女様の牽牛けんぎゅうを欺いたのです」

 そこまで語ると、程瑛はがばっと身を起こして東巌子の座す車椅子に寄り縋った。

「すべては兄さんの……いいえ、私一人の業のためでございます。織女様、どうかお間違えにならないで。この罪科はこの程瑛めが負うべきものなのです。罪を償うためならばなんだって致します。だから、だから、兄さんをこれ以上追い詰めないで!」

 そのままおいおいと泣き出す。しかし東巌子にはその泣き声はおろか、程瑛の話のほとんどが耳に入っていなかった。

 すぐに迎えに来てくれると思っていた。必ず探し出してくれるものと信じていた。それなのに、辛悟はいつまで経っても現れなかった。十日、二十日、ひと月が経っても現れなかった。そんなはずはないと自分を言い聞かせていた。成都の城市は広いから、きっと探すのに手間取っているのだと。だが三月、半年が経っても現れない。東巌子はもはやそのことを考えなくなっていた。認めるのが怖かったのだ。――自分は辛悟に捨てられたのだと、そう思考することすら恐れていた。しかし、真実は違っていたのだ。

(辛悟は私を見つけていた! それも、たった三日で!)

 東巌子は天を仰いだ。その両眼から涙が零れ落ちる。喜びと、そして悲しみが一遍に押し寄せる。辛悟に見捨てられたのではなかったという喜びと、もう二度とは会えないという悲しみとだ。

 成都がいかに広いといえど、すべてを訪ね歩くのに費やすのはせいぜい数月。半年が経った今となっては、もはやこの地にはいまい。そうなってしまっては、この広い天下、再び出会える日はあるのだろうか。

 ――ふつふつと、怒りが沸いてきた。今傍らに泣き崩れている女は、己の欲得のために東巌子を辛悟から引き離した。あの郭翰という男のご機嫌取りのために、この身は勝手に売られてしまったのだ。許せるものだろうか? 東巌子の腕は知らず知らずに振り上げられ、今にも程瑛の頭蓋を打ち砕かんとその掌に内力が集結しつつあった。

「……」

「織女様?」

 東巌子が何も言わないので、程瑛が恐る恐る顔を上げる。振り上げた腕に一瞬だけ視線を向け、東巌子の形相にはっとして恐怖の色を浮かべるが、すぐに目を閉じて一歩も動かぬ。――打ち殺すならば打ち殺せということか。

「一つ、聞いてもいいかしら」

 東巌子の声は心ならずも詰問口調となった。なんなりと、と程瑛。

「あなたは郭翰のことをどう思っているの? 好いているの? それとも嫌いなの?」

 程瑛は驚きのあまり弾かれたように立ち上がる。口を開くが言葉は出ない。しばらくの間視線をさまよわせた後、頬を染めて俯いた。

「兄さんは……兄さんとは、小さいころから一緒でした。一緒にいるのが当たり前で、その……夫婦めおとにっ、なりたいだとか、そんなつもりはなくて……」

 話している間にも耳まで真っ赤になった。東巌子は表情も変えずにじっと続く言葉を待つ。程瑛は観念したように、

「私は兄さんと一緒にいるのが好きなのです。兄さんが他の女性とお付き合いしたり、夫婦になることに否やはありません。ただ、幼馴染として、友人の一人として、ずっとずっと一緒にいてほしいのです。変わらぬ兄さんでいてほしいのです。……あんな兄さんは二度と見たくない。どこかへ行ってしまうようで、とてもとても怖いのです」

 ――ああ、と東巌子は息を吐く。振り上げていた腕も力を無くしてだらりと垂れた。

(私だって人のことは言えないわ。二人を追いかけるために無茶苦茶をやったもの)

 東巌子にとっては物心ついた時から世界には自分と師父だけ、師父亡き後の世界は自分一人だけのものだった。小銭を稼ぐために山を降りることはあっても、他人との交流はない。そこへ思いもかけない来訪だ。山中の庵で二人と過ごした数日で、東巌子は無自覚の中にあった寂寞の思いを自覚させられてしまった。

 二つの思いが同時にあった。彼らと今後も共にありたいと思う気持ち。そして、いつかまたやって来る別離を恐れる気持ちと。そのどちらにも踏ん切りをつけられず、寄るも辛く離れるも辛く、結果的に彼らを追い回すことになってしまった。彼らの姿が見えないからというだけで無関係な人々を十数人気絶させたこともある。今にして思えば酷い所業だ。

 それに比べれば、程瑛のしたことなど取るに足らぬ。誰かと共にありたいと願う心は誰しも同じ、そのために迷うこともあるだろう。自らを棚に上げて他人を許せぬとは道理ではない。

(解穴さえ完成すれば私は自ら辛悟を探しに行ける。でも、人の心はそうもいかない。郭翰には気をしっかり持ってもらって、程瑛を安心させてもらわなければ)

「――あの日、花を踏んだのは私なの」

 東巌子の唐突な言葉に程瑛は「え?」と呆気に取られる。東巌子は頬に流れた涙を拭いつつ、一方の手を院子の角に向ける。そこには程瑛が世話をする花畑が。

「あなたが隠しごとを明かしてくれたから、私も一つ本当のことを言うわ。私がここへ来た夜、あの花畑を踏みつけてしまったのは、私。郭翰ではないの」

 ややあって、程瑛はああと漏らして頷いた。

「そんなこと、別にどうということはありません」

「では、これで貸し借りなしね」

 ぱちくりと瞬く程瑛。しばしの沈黙の後、その意を悟って頭を垂れる。囁くかのような声量で礼を述べた。東巌子はパンと手の平を打ち合わせる。

「そうとなったら、次は郭翰の呪いを解いてあげないといけないわね。でもその前に――」

 東巌子は露わになった両腕を掲げて苦笑いを浮かべた。

「まずは服を着替えないと」

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