第十節 仙女の守護

 無人となった謁見の間から抜け出し、羅珠と章逸は外へと駆け出した。先ほど聞いた採掘場の暴動とやらはかなりの規模になっているらしく、何人もの男たちが駆けて行くのを見かけた。二人はそれを物陰に潜んでやり過ごし、逆方向へと向かった。そうしてようやく、小さな出入り口から外へと抜け出したのだ。

 出た場所は背の高い木々に囲まれた樹海であったが、大地は鋭く傾斜しており視界は開けていた。どうやら峻険な山の中腹にいるらしい。そういえば先ほどの宗主たちの会話に「峨眉がび」と聞いた気がする。となれば、ここは蜀の名峰峨眉山に違いあるまい。

 二人は道なき山中を駆け下りた。立ち止まればいつ追っ手に捕まるかわからない。緑林の中にちらりと見えた建造物の姿を目指して一目散に駆けた。章逸の歩幅は広く羅珠はそれに必死で追いすがった。外に出られたとはいえここで一人にされてはたまらない。何度も息が切れて目の前が真っ暗になりかけながらその背中を追った。やがて件の建造物にたどり着き、黄色い壁を木々の合間に見た。どうやらここは寺らしい。

「ここまで来れば……きっと安心だ。あいつらは坑道の騒ぎを収めるのに躍起になっているころさ」

 速度を緩め、息を整えながら章逸。羅珠の足が一瞬止まる。章逸のその一言にふと引っかかるものがあったからだ。

(薄暗い坑道を進むのに、章逸は石牢の前にあった燭台をそのままにした。悲鳴を上げられるかも知れないのにわざわざ監視役を斬り殺した。あれはもしかして……もしかして……)

 羅珠たちが牢を出た後、残された少年少女たちは目を覚ましてすぐに気づくだろう。監視役が殺され、牢が開け放たれていることに。もしも燭台を持ち去れば暗闇の中で監視役が死んでいることに気づくことはない。もしも監視役を殺さなければ、牢が開いていたとしても彼らは逃走など考えないだろう。だが何も妨げるものがないと知ったなら、あの地獄を抜け出す千載一遇の機会が訪れたと悟ったならば、誰もがなけなしの勇気を振り絞る――章逸はそこまで見越していたのでは? 自身の逃走をさらに大規模な脱走によって包み隠そうとしたのでは? さもなければここまで誰にも追われずに逃げ切ることなどできないだろう。

 これは、調虎離山ちょうこりさんだ。人目を引く騒ぎを起こし、その一方で手薄となった敵の意表を突く兵法の一つだ。

(もしも章逸と親しくしていなければ、私もあの場に取り残され、利用されていたのかしら)

 そう考えると恐ろしくなった。自らが犯した罪と、章逸の残酷さに。残してきた者たちとは決して仲が悪かったわけではない。交わす言葉は少なかったといえ、同じ苦しみの中で生き抜いてきた同胞だ。それを自らが生き抜くための捨て駒にした。羅珠は後ろめたい感情を抱かずにいられなかった。かといってその足を止めることもない。ここで引き返しても何の意味もないとわかっていたし、やはり自分が一番可愛かった。

 寺の敷地は静まり返り、誰もいないように思えた。総出で托鉢にでも出たわけではあるまい。よくよく見てみると建物のいくつかは未完成のまま風雨に晒されている。未完成のまま打ち捨てられた廃寺なのだ。

 唐朝は老子の末裔を称していたため、元々は道教を重んじていた。しかし先の皇帝武則天は仏教を重んじ、各地に仏寺の造営を行なった。そして峨眉山は普賢菩薩の霊場として名高い。おそらくこの地にも寺を増築しようとしたが、途中で中宗に帝位が移ったために工事を中止したのだろう。だから何者の姿もないのだ。

 境内を横切っていると何やら楽器の音が聞こえてきた。軽やかな旋律、風が囁くような。琴の音だ。

「あっちだ。行ってみよう」

 章逸の示すままに音のする方角へと向かう。寺院にあって琴の音を聞くとは妙なことだが、その時の羅珠らにはそんなことはどうでもよかった。山を降りているころから天候に変化が現れ、彼女らの頭上を暗雲が覆っていたのだ。日差しを遮る黒い影が自らを追っているように感じられ、どこでも良いから逃げ込みたくなっていた。

 たどり着いたのは峨眉の峰々を眺望する断崖、その端に建てられたちんであった。傍には松が植えられその上に枝を伸ばしている。亭の中には人影が一つあり、その人物が琴の奏者であるようだった。

「もうすぐ雨が降るわ。そんなところに立っていないで、こちらへいらっしゃいな」

 女だ。琴を爪弾いているのは女だった。寺は女人禁制ではなかったのだろうか。しかしよくよく考えてみればここは一度たりとて仏寺として機能したことはないのだから、女がいても不思議ではないのかも知れない。それに確かに暗雲はすでにいつ雨を降らせてもおかしくないほどに濃くなっている。羅珠と章逸は一瞬顔を見合わせたものの、結局は誘われるままに亭へ入った。

 女は視線をくれることなく琴の演奏を続ける。羅珠たちは女の向かいに腰かけ、演奏の邪魔をしないようにと静かにその音色に聞き入った。間近でじっくりと聞いてみればその音色は中々のもの。羅珠は一時期範琳によって楽器を仕込まれたためにその巧拙がよくわかる。女の演奏は実に巧妙であり心に染み入った。やがてパラパラと雨音も混じり始めたがそれでも女は演奏を続ける。これがまた雨音さえも曲に取り込もうかという風情。羅珠はいつしか瞼を閉じて女の演奏に聞き入っていた。

 どれほどの時間が経ったのか、不意に肩を押された。まるで突き飛ばすかのような乱暴な力だ。押したのはすぐ隣に腰かけていた章逸に違いない。演奏に集中していた羅珠はむっとしたが、章逸を見て驚いた。その表情が恐怖に歪んでいる。

「み、見ろ……!」

 章逸が指さす先に視線を転じ、羅珠は心臓が止まるかと思った。

 亭から三十歩ほどの距離。雨の中にずぶ濡れのまま立ち尽くす人影が一つ。雨粒が伝い落ちるままにしているその顔は忘れもしない。

 風児がそこにいた。炯々けいけいとした双眸をじっとこちらへ向けている。

「あいつだ……どうしてここに!」

 章逸の手が震え、握り締められた剣がカタカタと鳴る。羅珠は立ち上がろうとしたが腰に力が入らなかった。風児の恐ろしさはよく知っている。この目の前であの少年は中天幇会の手練れ数人を瞬く間に斬り殺し、母の首を掻き切ったのだ。それも一切の表情を変えることなく。さながら慣れ親しんだ作業であるかのように。

 逃げなければ。頭はそうすべきだと言っている。しかし体が動かない。章逸と羅珠は互いに縋りつくようにしがみ付きあい、風児と相対していた。しかし風児もまたそこから一歩も動こうとしなかった。

「どうしても何も、「権謀術数」は小娘ながら知恵は回る。調虎離山などお見通しよ」

 羅珠も章逸も体に電撃が走ったようだった。章逸はぱっと弾かれたように立ち上がり剣の柄を女に向ける。

「お前、あいつらの仲間なのか!」

 くす――女が笑った。ピィンと弦を一つ弾いて演奏を中断する。そしてそれまで伏せていた顔をゆっくりと上げた。瞬間、羅珠は唐突に雲間が現れたのかと思った。

 美しい容貌であった。羅珠は未だかつてこれほど美しい女性を見たことがなかった。あまりの美しさに後光すら射すように感じてしまったのだ。目元はきりりと美しく、薄紅色の唇は薄く艶やかだ。肌は透き通るように白く、濡れ羽色の髪と実に対照的だ。服は道姑どうこの衣装だが体にピタリと張り付くようで、起伏のある体の輪郭線を妖艶なまでに際立たせていた。

(仙女様だ)

 羅珠は直感的にそう思った。この女性は仙女に違いない。そうでなければこのような美しさを持つ女性がこの世に存在するわけがない。女である羅珠がそのようであるのだから、章逸に至っては呆然として腕の力が抜けてしまっていた。突きつけていたはずの剣はいつの間にやらだらりと降りてしまっている。

「確かに宗主とは知り合いよ。でも仲間なんかじゃないわ。あんな狂人どもに付き合っている暇なんてないもの」

 くすり、唇の端を持ち上げて微笑む。羅珠は咄嗟に視線を逸らした。あの目は、ダメだ。見つめているだけでこちらの心を覗かれているような、この胸の大事な部分に踏み込まれてしまうかのような、そんな不安を感じたのだ。

 女は細く白い腕を伸べて風児を示す。

「あの子――風児が近寄ってこないのは、私に関わるなと鬼子母神きしもしんに言われているからなのよ。私はあの人たちに嫌われているの」

 食べ物の好き嫌いを話すような気軽さで言う。羅珠は女の指先と風児とを数度見比べた。風児は雨足の強弱に関わらずその場から動こうとしない。本当にこちらへ近寄るつもりがないようだ。

 ビィン。女の手が再び琴を爪弾き始めた。

「あれが怖いのならここに留まると良いわ。あたしがここにいる限り、この屋根の下では何人たりとも一切の武器を振るうことを許さないから」

 羅珠と章逸はまた顔を見合わせる。それはつまり、この亭の内側にいる限りは二人の安全を保障してくれるということだ。羅珠はもう一度女の姿を上から下まで見下ろした。その衣装や装飾に武器となりそうなものは見当たらない。もしも風児が襲い掛かってきたとして本当に防ぐことができるのだろうか。しかし選択肢は他にないのだ。ここで亭を飛び出して逃げ出しても風児に殺されるだけだろう。であればこの正体不明の女を信じて頼るしかない。

「その代わり、聴き役に徹してもらうけれどね」

 女の手が雨音に染み入るように音を奏でる。亭の外からこちらを凝視する風児の目など気にもせず。

「あなたは何者なの?」

 羅珠の口からは自然とその言葉が転び出ていた。女はもはや手元に視線を落としたまま短く答える。

「わたしは嫦娥じょうがよ」

 ああ、やはり仙女様だったんだ。

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