第十一節 光と影の境界

 どれほど眠っていたのだろう。ふと目が覚めると、周囲はうっすらと明るくなっていた。目元を擦って見れば、すでに陽は昇っているようだ。隣の部屋、正房の床が明るく照らされているのが見える。

 長椅子に視線を向けると、東巌子はまだ眠っているようだった。寝ている間に何度か寝返りでも打ったのか、辛悟の服の裾は放していた。その代わりに東巌子の衣服は乱れ、開いた襟元からは透けるような白い肌が覗いている。辛悟はそれを見なかったことにした。

「……うん?」

 部屋を出て、辛悟は首を傾げた。院子には昨夜の酒宴の跡がそのままに残されている。しかし、何かが足りないように思えた。一度周囲をぐるりと見回して、そしてようやくそれに気づいた。いなくなった一人と、壁に大書してあるその文字に。

 辛悟はそれを真正面に見据えて、呆然と立ち尽くした。その意味が理解できなかったために。正確には、理解しても受け入れるのを拒んだために。――だって、今さらそんな道理はないだろう。李白は奇想天外で常識の通じない奴だが、だからこそ随行するに足ると思いここまでついてきたのだ。あれについて行くことで己の行くべき道が見えてくるかも知れない、そんな期待を抱いてここまで来たのに。それがどうだ、あっさりと置いてけぼりである。もちろん李白について回ったのは辛悟の勝手ではあるが、予告もなしにいきなりいなくなるとはあんまりだ。

「彼は、行ってしまったのね」

 その声に振り向けば、東巌子が部屋の境目に立っていた。衣服は乱れたままだが目はしっかりと開いている。李白の残した壁書きを一瞥し、ふっと笑って肩を竦める。

「行けばいいわ、あなたも」

 そっけない言葉だが、その目元は哀しげに伏せられている。

「行くとは、どこへ? あいつの行き先を俺は知らない」

「どこかは私も知らない。でも私のいない、どこかへ。あなたも行ってしまうのでしょう?」

 そう言って東巌子は視線を落とす。辛悟もつられてそちらを見た。東巌子のつま先には二人を分かつかのような光と影の境界線があった。

「私は今、肌を覆っていない。だからこの影から出ることはできない。私はそういう身体だから、あなたが去ることを止められない。行くなら行って、どうぞ」

「それでまた追い回すつもりか? 俺は自分の行動を制限されるのがとにかく嫌いでね。これ以上追い回されるなんて真っ平御免だ。」

 辛悟がそう返すと、東巌子は顔を背ける。背を向けて、奥へと引っ込もうとする。その肩を辛悟は掴み止めた。はっとして振り返る東巌子。

「――だから、共に行こう。第一、俺たちは共に剣を揮い共に酒を呑み交わしたのだ。俺たちはもう義兄弟。どうして残していくものか」

 東巌子は少しだけ驚いた顔をして辛悟を見つめた。しかしすぐにまた笑みに変わる。喜びか、あるいは何事かを企むように。

「良いわ、一緒に行きましょう。……ありがとう」

 最後はほとんど、消え入る声で。


(了)

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