第四十二節 旅立ちの日
季節はまた一巡して、春がやって来た。
まだ寒さの残る中、その日は大勢の人間が大明寺に詰めかけた。まるで祭りでも行うかのような大所帯だが、幟や楽器の類は存在しない。ただがやがやと人々の話す声だけが騒がしい。
ぎぃっ、と正門が開く。それで一同は水を打ったように静まった。空真と空虚がまず扉を開き、その後に続いて鑑円と、その横に旅装束の少年が一人現れた。編み笠を被り行李を背負い、杖を手に持っている。くいと顔を上げれば、その少年は不空であった。
大明寺の門を踏み越えた不空は、そこで一度振り向いて膝を突いた。笠を取り杖を置き、鑑円に向かって叩頭する。
「方丈、今まで大変お世話になりました」
鑑円はにっこりと微笑んでそれに応える。立ち上がった不空は、次に兄弟子たち一人一人に頭を下げた。
「お世話になりました」
「良いってことよ」
「道中気を付けろよ」
不空はこれより長安を目指すのだ。かつて金剛智は大明寺を去る時に「長安を目指す」と言葉を残した。そして最近、長安に西域の高僧が到着したとの話が届いた。不空はそれが金剛智に違いないと考え、今度こそ本当に弟子入りするために大明寺を離れることに決めたのだ。
一人一人から労いの言葉を受け取りながら、不空は最後に頭に頭巾を巻いた男の前に立った。
「不空、これを持って行ってくれ」
真新しい僧衣に身を包んだその男は、剃髪した梁工である。翡蕾を失ったその翌日、彼は鑑円に弟子入りしたのだ。妻と娘のため、そして同じような不幸がこの世の誰かに降りかからないように祈りたいと望んだのである。
差し出しされた手の中身を受け取ってみれば、それは翡翠石でできた花蕾の飾りだった。
「これは……」
「俺の女房の形見、そして蕾児の形見だ。俗世から離れた今の俺にはもう必要ないが、捨てるには忍びなくてな……お前に持って行ってもらえたら幸いだ。要らんなら路銀の足しにでもしてくれ」
「そんな、とんでもない!」
不空は
多くの人に見送られながら、不空は大明寺を後にした。僧侶の旅立ちに仰々しい行列は不要である。皆その場で手を振り、不空が一人山道に消え往くのを見送った。
「まったく、こんな大事な時に李白の奴はどこに行ったんだか」
ぼそっと空虚が言葉を漏らす。折しも不空の姿が見えなくなり、皆が自然と口を閉ざした瞬間である。その言葉は予想以上に通ってしまい、空虚はぎょっと肩を強張らせた。
それは皆が思っていたことでもあった。不空と李白の仲を知らぬものはこの場にいない。だからこそ、李白がこの場にいないことは誰にとっても疑問だったのだ。当然離れ庵に迎えにも行ったが、もはやもぬけの殻。どこへ消えたのか杳として知れない。
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