四苦掌法

第一節 帰郷

 思い返せば十年前だ。この道を最後に歩いたのは。

 辛悟はまず右を見た。以前はあそこに鍛冶屋があった。今は空き家になっているところから察するに、あの気難しい老人はとうとうくたばったのだろう。向かい側の土壁にはいまだに子供たちの落書きが残っている。色褪せてはいるもののこちらは以前と変わらない。知らない顔の子供たちがその前に居座って地面に落書きをしている。

 変わらないのに変わっている。知っているのに知らない。それらが混じり合った奇妙な感覚。帰郷とはそういうものなのだろう。

 辛悟は立ち尽くしていた。ここからあとほんの少しだけ進んだところに、大きな屋敷がある。かつて辛悟が住んでいた家、二度と戻るまいと思っていた場所だ。まさか今一度訪れることになり、またこんな所で足が止まってしまうとは。

「あれ、もしかして?」

 すぐ隣を追い越した痩せぎすの男が、ふと振り返って辛悟の顔を覗き見た。

「やっぱり、若様じゃありませんか。どうしたのですか。長安で学問に励んでおられたのでは?」

「……いん兄貴か」

 ややあってから思い出した。この男は辛家に仕える下男の一人だ。昔から痩せていたが、月日が流れてより細くなっているようだ。

「そうですよ、殷でございます。大旦那様から若様のご出立を聞かされたときは皆驚いておりました。私どもは家奴かどに過ぎませんが、一言ご挨拶申し上げる暇もなかったと皆が落胆していたのです。今日再びお会いできたのは天のお導き、さあさあ一緒に帰りましょう。大旦那様もきっとお喜びになられます」

 最後の一言については、心中で「そうだろうか」と自問する。どうやら世間体を気にするあの腐れ爺は、辛悟の出奔を公には「長安で学問に励むために旅立った」ということにしているようだ。

(そもそもテメェが追い出そうとしたくせに、よくもまあいけしゃあしゃあと。あるいは最初からそのように触れ回るつもりだったのか?)

 いずれにせよ気分の良いものではない。

 殷はさっそく先導しようとして、それからちらりと辛悟の背後に視線を向けた。

「ところで、そちらのご老体は?」

 辛悟の後ろに黙して立っていたのは、黄衣に笠を被り、長い帯を二尾に垂らした老人である。辛悟が立ち尽くしている間も、殷と話している間も、表情一つ変えずに立っている。その醜怪な容貌からはどんな感情を抱いているのか皆目見当もつかない。

「俺の友人で、東巌子と言う」

 正体不明の人物を単に友人と言われても納得しかねるものがある。だが殷はあくまで下男に過ぎず、余計な詮索はしない。無関係であれば無視するし、客人であれば相応のもてなしをするだけだ。

「左様でしたか。では若旦那、東巌子様、こちらへ」

 殷はやや浮足立った様子で先に進む。辛悟はその後に続きながら、そっと背後の東巌子に語りかけた。

「……東兄、頼みがある」

「なんだ」

「俺の側にいてくれ。俺が逃げ出さないよう、捕まえていてくれ」

 ほう、と呟き、東巌子はほんの少し顔を上げた。肩越しに振り返った辛悟を赤い瞳が見据える。

「言われずとも、逃がすものか」

 ふふん、鼻で笑われた気がした。もちろん表情は変わらない。

「だが……無理はするな。心に重石を抱え込むと、容易に潰れるぞ。どれだけ屈強な者でもそうなのだ。ましてや辛悟など」

「俺が貧弱だと言いたいのか?」

 自嘲の笑みを浮かべる辛悟。気分を害したわけではない。自身がどれほど意志薄弱であるかは十分に承知している。

「お前を心配しているのだ」

「わかっている。わかっているんだよ、東兄。だがここは行かねばならない道なんだ」

 道の道とすべきは常の道にあらず。そう唱えてこの地を去ったのはいつの日か。今またこの道を歩むことになろうとは思いもしていなかったのだが。

「この道を通らなければ、俺は前に進めない」

 通りを進んでいくと大きな屋敷の前に出た。殷は門の小戸を開けて二人を招き入れる。そこから見慣れた大広間に通された。途中、すれ違った下男下女たちは一様に驚いた様子で辛悟を出迎えた。急に行方をくらませたことで皆が心配していたというのは、少なくとも彼らにとっては事実であったようだ。

「慕われる若旦那だったのだな」

 客人用の椅子に腰かけ、供された茶を啜りながら東巌子が言う。単に感想を述べたのか、あるいはからかっているのか。いまいちよくわからない。

「彼らの生活を支えているのが俺のジジイだからであって、俺自身を慕っているわけではあるまいよ」

「そうか? あの阿遥――」

 そこまで言って東巌子は口を噤んだ。

 阿遥はこの家で辛悟の世話をし、その行方を追ってここを飛び出した。それは辛悟を慕っていたからだろうとからかってやるつもりだった。しかし東巌子はあの渓谷で阿遥が辛悟に対して施した悪辣な所業をすでに知っている。阿遥は辛悟を慕うどころか、殺そうとした。それを思い出し、むやみにこの話題を口にすべきではないと判断したのだが、ほんの少し遅かった。

 辛悟は深く息を吐く。

「そうだ。それもこれも、すべてここから始まったのだ」

「ではなぜ戻ってきたか」

 その声は東巌子のものではなく、ましてや辛悟のものでもなかった。広間の正面、吉祥図を彫刻した屏風の裏から姿を現したのは、この屋敷の主たる辛大老その人である。

 辛悟は知らず、一歩後退しかけた。その背中をさっと持ち上がった東巌子の杖先が押し留める。この支えがなければ、辛悟はきっとこの広間を飛び出していただろう。

「てっきり何年も前に野垂れ死んだと思っていたものを、まさかしぶとく生きていたとはな。それも、あの蘇大人とよしみを結んでいたとは。お前もいよいよ辛家の人間としての自覚を得るようになったと思ったのだが」

 辛大老はそこで大きく息を吐き、ゆっくりとした所作で正面の椅子に腰かけた。

「それが何をぐずぐずしているのかと思えば、なぜまたここへ戻ってきた? お前が行くべきは旧家ではなく、長安であろうに」

 辛悟は思わず吐き捨てた。

「益州にいた俺に手紙を寄越したな。蘇兄に取り入り、推薦を受けて官位を賜れと。進士でなくとも官僚でさえあれば辛家に再び迎え入れてやると」

「そうだ。それで? 一体どんな位を賜った?」

「そんな恥知らずな真似ができるか!」

 辛悟にとって蘇頲は義兄弟であり、対等な関係だ。その権勢をたのみに職を乞うなど、そんな卑しい真似が辛悟にできるはずがない。それは蘇頲さえも侮辱する行為だ。

「分をわきまえずに高望みをして何になる? 辛家の権威だ何だと言って、あんたが本当に失いたくないのは何だ? それは世間に対する見栄じゃないのか?」

「白痴めが。ものの優劣が分からぬほどに愚かであったとは」

 辛大老はいかにも幻滅したと言わんばかり、大仰な素振りで頭を振った。

「貴様のような未だ何も為さざる小僧の自尊心など、野良犬が路傍に垂れた糞ほどの価値もない。それに比べ、辛家の家門はこれからの未来に受け継がれてゆく宝なのだ。失われるべきでないのは、辛家の未来だ。わしやお前の父だけではない。連綿と続いてきた辛家の系譜の先に貴様がいることを忘れるな。お前がこの家に住み、日がな一日博打に興じて過ごせていたのは、祖先の恩恵あってこそ。ならばせめて、家門を汚すにしてもマシな糞を塗れ。辛家の人間である務めを果たせ」

「悪いが俺はその考えに賛同しかねる」

「ならばやはり勘当だな」

 望むところだ――言い返そうとして、辛悟はその言葉をぐっと呑み込んだ。危うく冷静さを失うところだった。ゆっくり三回呼吸を繰り返す。

(落ち着け。そのようなことを言い争うために来たのではない)

 今ならわかる。祖父が辛悟の顔を見るたびにこき下ろすのは、こちらの言葉を封じ込め、自身の意思で意のままにできる傀儡としたいからなのだと。ここで官位が云々の話を続けてはそれこそ思う壺、本来の目的を果たせなくなってしまう。

 どうせなら、この挑発を逆手に取ってやれ。

「それもいいだろう。俺とてあんたの傀儡となって生きるなんざ真っ平ご免だ。出て行けと言うなら、ふふん、出て行ってやるさ。だがそれなら、餞別を寄越してもらおうか」

 辛大老の眼光に強い侮辱の感情が見えた。追い出される側の畜生が何を求めるのかと、その傲慢さに呆れ果てている。辛悟はそれを無視してさらに続けた。

「江湖を歩むには武芸が必要だ。俺は未だに勉学も武芸も中途半端で不安だらけ。ならばせめて、技の一つぐらい教えてくれたっていいだろう? 俺はそれだけのために、今日、ここへ来た」

「貴様にくれてやる技など一つたりともあるものか。何を求めると言うのだ」

 辛悟は静かに深呼吸。

辛氏しんし大篆だいてん掌法しょうほうの絶招、四苦掌しくしょう――」

 ふん、と辛大老が鼻を鳴らす。四苦掌は辛氏大篆掌法の最大奥義、辛家の家督を継ぐ者だけに伝授される一子相伝の技だ。これから勘当される出来損ないに渡せる道理などない。

 だが、辛悟の言葉にはまだ続きがあった。

「これを破る技が欲しい」

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