第七節 謁見の間

 扉が開き、現れたのは一人の男、そしてそれに付き従う侍女らしき女。どちらも若く、二十歳前後に見えた。二人は慣れた足取りで橋を渡り、ちんに入る。

「あのような者と宗主様が直接お会いする必要などありません。私にお任せくださればよろしいのに」

 女は手にしていた銚子を卓に置きつつ、不満そうな口調で漏らした。男はそれに苦笑しつつ中央の椅子に腰掛ける。

「武林のご先輩がわざわざ訪ねてくださったのだ。本来ならばこちらから赴くべきところ、失礼な真似はできないよ」

 女は唇を曲げたがそれ以上は何も言わない。パン、と手を叩いて合図した。

 ややあって再び扉が開き、男が一人現れた。こちらはきょろきょろと周囲を見渡し、池と光との自然的調和の姿にやはり感嘆の声を漏らしている。どうやらあの男はここへ来るのが初めてらしい。亭に入ると正面の若者を怪訝な表情で見つめ、しかし思い出したように膝を突き頭を下げる。

壬龍じんりゅう鏢局ひょうきょく頭首じん克秀こくしゅう、宗主様にお目通りいたします」

 羅珠ははっとして青ざめた。

「大変、ここは出口なんかじゃない。それどころか、敵の懐に飛び込んでしまったのよ」

「なんだって?」

ひざまづいたあの男は客人よ。礼を受けたのが宗主……宗主というのは、つまり親玉よ。ここはやつらの謁見の間なのだわ」

 章逸も事の次第を理解し、びくりと肩を強張らせた。二人はそれ以上言葉を交わさずに息を殺して身を潜めた。

 羅珠は困惑していた。

(あの人が……宗主? そんな、あんな人が……)

 自分たちを虐げた悪の首魁たるその男は、あまりにも若く、華奢で、そして節度を弁えた好人物にしか見えなかった。あれが本当に悪鬼羅刹の集団を束ねる首魁なのであろうか。それに、客人は壬龍鏢局を名乗った。壬龍鏢局は江湖に名の知れた組織だ。それがなぜこんなところに?

「壬鏢頭、そう畏まらずに。さあ、こちらへ」

 宗主は壬克秀の腕を取って立ち上がらせる。壬克秀はぱっと飛び起きたように見えた。羅珠は見抜けなかったが、宗主は内力を込めて壬克秀の腕を取り、その力量を試したのだ。壬克秀は即座に応じようとしたが力量が及ばず、宗主に持ち上げられるようにして立ち上がることとなったのだ。

 力量差を見せつけられた壬克秀は唖然としていたが、すぐに喜色を浮かべて座に着いた。先ほどまではこの男が本当に宗主なのかと疑っていたのを、ただ腕を取られただけで態度を改めたのだ。それだけ宗主の腕前は明白だった。

「噂通り、宗主様の武芸は計り知れない。この壬克秀、感服いたしました」

「ご謙遜を。壬龍鏢局ともなればこの近隣で知らぬ者はおりません。本来ならばこちらからご挨拶に赴くべきでした」

 壬克秀は「とんでもない」と頭を振る。

玄冥幇会げんめいほうかいは今や飛ぶ鳥を落とす勢い、我ら壬龍鏢局の名を遥かに凌ぐまでとなっております。鏢局の商いがどのようなものか、宗主様はご存じのはずです」

 鏢局は依頼を受けて旅客や荷物を運び、強盗や盗難から守る。しかしながらその実態は各地の頭目に金品を送り、交通の便宜を予め図ってもらうことにあった。今回壬克秀がこの地を訪れたのは、近頃江湖に名を上げ始めた「玄冥幇会」と誼を結んでおこうという目的があったのだ。実際、今回の来訪には十数台の荷馬車に金銀財宝を積んで礼物としている。

 宗主は微笑を浮かべながら頷く。

「鏢局の商いについては私も浅学ながら存じております。しかし我々は金銀財宝が欲しいわけではありません。望むものはただ一つ。それ以外には何も要らない。あの礼物はすべてお返しします」

 壬克秀は驚きを隠し切れずに目を見開いた。まさか礼物を突き返されるとは思っていなかったのだ。しばし口をあんぐりと開けて言葉も出ない。ややあってからようやく言葉を絞り出した。

「そ、宗主様が望む、ただ、ただ一つの品とは、いったい何なのですか……?」

「難しいことではありません。その手にある白龍杖、それを使って一つ試していただきたいことがあるのです」

 そのような展開は予想していなかったのだろう、壬克秀の手は知らず腰帯に挿した白銀の杖に伸びていた。その頭には龍の首。これこそが宗主の言った白龍杖に違いない。

「これは壬龍鏢局の宝。一体何をお望みなのですか」

 壬克秀は宗主が白龍杖を求めていることを知っていた。だからこそ先手を打つために金銀財宝を曳いてやってきたのだ。しかし宗主はそれらに目もくれず白龍杖の名を出した。壬克秀の中では葛藤があった。白龍杖は壬龍鏢局総鏢頭の証、おいそれと他人に渡せるものではない。しかし宗主の力量が己を遥かに上回っていることはすでに思い知っている。ここで抗ったところでまったく無意味だ。

 宗主はすっと腕を掲げ、橋の向こう側、岸辺にある一つの巨岩を指差した。

「あれが見えますか。あの黒岩が。白龍杖を以てしてあの岩を打ち砕くことが可能かどうか、私はそれが知りたい」

「……それだけ?」

 壬克秀はぽかんとして呆けてしまった。白龍杖が江湖に知られるのは名前だけではない。その一撃は刀剣をへし折り鋼鉄の鎧を打ち砕く。いわんや岩をや。もちろん江湖にはそれを虚名と侮る輩はいるが、それが虚名でないことを壬克秀は承知している。まさか宗主ともあろう者がそんなことを実証したいのかと内心呆れもした。

(袁夫人なんて狂人をけしかけてくるものだからどんな執着を見せるかと思えば、ただの興味本位だったのか? これは難題になる前にさっさと白龍杖の威力を見せつけて引き上げるが良さそうだな)

「宗主様のお望みとあれば喜んで。ただつまらぬこととて失笑なさいますな!」

 壬克秀は身を翻し、ひらりと軽功で橋を飛び越える。三足で件の岩まで迫るや、気合と共に白龍杖を振り下ろす!

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