第三節 変装

 少年少女と入れ替わりに、今度は若者と老人とが占いの幟の下へとやってきた。若者は台をとんとんと叩き、

「ご老体、一つお尋ねしたいのだが。都安堰とあんえんへはどの道を行けば良いだろうか」

 すると張看星は何やらビクリと肩を震わせ、恐る恐るといった態で振り向いた。問いかけた若者と視線を合わせ、しばし硬直する。若者は初めなぜこの占い師が見つめてくるのかわからないでいたが、ふとした瞬間に驚愕の色を浮かべた。口を開こうとした瞬間、先に声を発したのは張看星の方だった。

「都安堰はあっちじゃ! そら行け、逃げてしまう前に!」

「都安堰は逃げねーよ!? いやそれよりも、お前はまさか、李白じゃないか!」

「いかにもわしは蜀の李太白……」

 言いながら身を翻して逃げようとするのへ、若者の背後に控えていた老人がさっと飛び出し行く手を阻んだ。二方は占い台と壁に阻まれ、残る二方は若者と老人に包囲されてしまった。

 この占い師、張看星とは偽名であり、その正体はまさしく李白であった。そして若者は辛悟、老人は東巌子である。三人が居合わせたのはまったくの偶然であった。辛悟と東巌子が蘇頲宅に留まっている間、生来一つ所にじっとしていられない性質たちの李白は一人でふらふらとまた放浪に出てしまったのだ。その行き先など誰も知らない。ましてやこの日、辛悟と東巌子が蜀州を訪れるなど李白が予め知ることなどないのだ。

「まったく、わしらはつくづく腐れ縁で繋がっておるようじゃな。こんな片田舎でばったり出くわそうとは」

「ほほう、まるで迷惑であるかのようじゃな?」

 くつくつと表情はそのままに笑声を漏らす東巌子。やれやれ、と肩を竦める辛悟。

「その様子を見ると、大方酒代をっちまったんで、適当に稼ごうとしたんだろう。わざわざそんな変装までしやがって」

 言いながら辛悟は伸ばした腕でむんずと李白の顎髭を引っ張る。アイテテテ! と叫ぶ李白とは裏腹に、その髭は簡単に引き抜けて辛悟の手に残った。李白の顎はすっかりつるつるだ。占い師の老人は跡形もなく消えている。

「東兄にちょいと教わった変装術をわしなりに改良してみたのじゃ。どうじゃ、見事なものじゃろう? もう少し工夫を凝らせば老若男女問わず化けられようて」

「――そのやり方、詳しく訊かせてもらおうか」

 東巌子の声音はやたらと低い。李白も思わず「お、おう」とふざける暇もなく返答していた。ここで否やを口にしようものならたちまちなますに斬られていたのだろう。なんとなく、そんな確信があった。

「それにしてもよくもまあ、こんな小道具まで。一体どこから拾ってきたんだ?」

 辛悟が傍らの幟を揺らす。すると李白は「あー、それはー」とどこかあさっての方向をみやりながら足の位置を動かした。東巌子はそれを見逃さなかった。さっと杖を繰り出し李白の向こう脛を打ち据える。ピゲーッ! と叫んで李白が飛び跳ねたのへ、さらに素早く杖を突き込み、占い台の敷布を巻き上げた。

 何事かと思って体を傾げた辛悟は、あっと声を上げた。なんと台の下に男が一人、下着姿でぐるぐる巻きにされて横たわっているではないか! 突然差し込んだ光に顔を顰めているが、意識はあるようだ。猿轡を噛まされた口でウーウー唸っている。

「兄弟に紹介しよう。こちらは占師、張看星殿じゃ」

「追い剥ぎじゃねーか!」

「いやまだ剥いだだけじゃこれは追い剥ぎとは言わぬ。ただの剥ぎじゃ。このまま逃げて追われても剥いだのが先じゃから剥ぎ追いと呼ぶべきじゃ」

「なんの違いだよ!」

 シュッと銀光がはしり、男の猿轡と戒めが解かれた。東巌子の仕込み杖の一閃だ。はらりと戒めが解けたのに男は一瞬唖然として声も出ない。その隙に東巌子は踵を返していきなり軽功を駆使して走り出した。そこでようやく男も声を取り戻す。

「あ、泥棒! 泥棒だっ!」

「人聞きの悪いことを喚くでないわ!」

 李白はさっと腕を振ると、何をどうやったのか身にまとっていた衣装を一瞬で剥ぎ取り、男に覆い被せるように投げた。李白は下にいつものように紅の袍を着込んでいたのだ。男が服に埋もれて口籠った一瞬、李白もまた飛び出している。

「まったく泥棒などと呼ばれるとは、辛悟もなんとまあ落ちぶれたものよ」

「また俺かよふざけんじゃねーぞ李白!」

 結局いつも通りに出遅れたのは辛悟だ。李白の背中を追って地を蹴る。だがここで思いもしなかったことが起こった。なんと男は服を頭から被せられて何も見えないまま、辛悟の両足に遮二無二組み付いてきたのだ。

「ま、待ってくれ! 今、李白と言ったのか? 李太白と言ったのじゃなかったのか?」

 放せ、と言いかけた辛悟は男の意外な問いかけに虚を突かれた。普通はこんな場合、「お前は誰だ」などと問うべきところではなかろうか。もちろん、李白がわざと辛悟の名を呼びかけて行ったので問う必要もなかったと言える。だがそれにしても次いで出てくる問いがこれとはなんとも解せない話だ。李白のあざなは太白、ゆえに李太白。確かに最前、李白は自らその氏字うじあざなを自ら口にした。しかしそれがどうしたというのだ?

(自分を酷い目に遭わせたのはあいつであって俺ではないと、こいつは理解しているのか? ならばすべての罪はあいつに負ってもらおうじゃないか。俺は元より無関係なんだからな!)

「そうだ。あんたをこんな目に遭わせたあいつは、姓を李、名を白、字を太白と言うのだ。役所に訴え出るならそう伝えろ。俺はまったくの無関係、ただ運悪くここに居合わせただけなんだからな!」

「役所? 役所だなんて、とんでもない! 俺はついに見つけたんだ。李太白、李太白! 生まれは何年だ?」

「な、なんだと?」

 どうにも様子が変だ。辛悟は訝りつつ、しかし無理に男を引き剥がすわけにも行かない。

「生まれ年なんて訊いてどうする? あいつは確か、庚子こうしの年の生まれだが」

「庚子の年? 聖暦三年、そして男だ……陽の金だ。間違いない! 金徳の士だ、ついに見つけたぞ! 見つけたんだ!」

 ハハハハハ! 自身が下着姿であることも忘れ、衆目を気にもせず張看星は哄笑した。なにがそんなに可笑しいのか辛悟にはまったく理解できない。ただ、この男が狂っていることだけは理解できた。

(元より頭がおかしかったのか。こんな奴に関わることはない。面倒は李白が引き受けてくれるだろう)

 ちょうど張看星は諸手を天に衝き上げ拝礼するかのようである。両足の戒めが消えた辛悟はその一瞬を逃さず飛び出した。あっと張看星が叫んだときにはもう十余丈先を行っている。

「ま、待ってくれ! ようやく見つけたんだ。太白の化身、あの男のところへ連れて行ってくれ!」

 張看星は叫びながら追いかけようとしたが、服が今度は足に絡まり盛大に転倒した。その隙に辛悟の背中はもうゴマ粒ほどにまで小さくなっている。待ってくれ、待ってくれと笑い泣きながら張看星は叫び続ける。道行く誰もが、それを遠巻きに見ていた。

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