第三十一節 水底に沈め

 びくり、と閻厖はその丸い肥満体を震わせた。狼の遠吠えがそう遠くない場所から聞こえたためだ。一緒にざあざあと水の流れる音も聞こえる。先ほどは二姐と思われる、しかし恐怖に満ちた絶叫を聞いた気がした。一体この先で何が起こっているのだろう? そう考えると、今度は自然に体が震えた。

 正直引き返したい気持ちに駆られながらも、そんなことをしては義兄弟の義理に反すると思えばそうも言っていられない。滝に流れ落ちる小川を飛び越え、汗ばんだ両手で八稜錘を握り直し、霧の深い竹林に足を踏み込んでいく。一歩、二歩、三歩。

「――そーんなちんたら歩いておるようでは、亀にすら追いつけぬぞ」

「ひいぃっ!」

 不意の声に驚き、背後の竹を揺らす。はっと視線を向けると、地面が一部だけ不自然に盛り上がっていた。疑うべくもなく、そこに人が隠れているのは明らかだった。

「そ、そこに誰か」

「ぐわーぁぁぁぁぁぁぁ!」

「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」

 両手を掲げて起き上がった何者かに肝を潰した閻厖は、どてどてと足音を響かせながら逃げまどう。その様は到底武芸者とは思えない体たらく、軽功の技を忘れてしまったかのような無様であった。それもそのはず、彼は他の義兄弟たちに比べて最も臆病であったのだ。こんな見知らぬ山中で二姐の悲鳴や狼の遠吠えを聞いて心細くなっていたところを脅かされ、平静でいられるはずがない。

「ひえぇぇぇぇ、来るな、来るなぁぁぁぁっ!」

「そぉぉぉれ、我は地獄の獄卒ぞ。貴様という悪人を地獄へ連れにやって来たぞ!」

「助けてくれ、助けてくれ! 俺はいつだって兄貴たちに言われたとおりにやって来ただけだ。俺は悪くない!」

「当然よ、彼奴らは既に我が討ち取った! しかしその手先である貴様もまた同罪! 地獄に堕ちるべき悪に違いはない!」

 閻厖は顔面蒼白になり、あっちへどてどて、こっちへばたばた、追われるまま逃げ続けた。やがて竹林を抜け、桃園へと踏み入る。青白い月明かりに照らされた桃の花もまた風光明媚であったが、閻厖にそれらを観賞する余裕はない。来るな来るなと、良い歳をして半泣きになりながら駆け抜ける。

 追いかける方の李白は、その様が面白くてたまらない。よし、もっと脅かしてやろうと閻厖のすぐ背後にまで接近する。

「それっ! あと少しで手が届く。ほんの三寸の距離だ。デブ助め、いい加減に観念しろ!」

 ――瞬間、李白は脳天に凄まじい衝撃を受けて吹っ飛んだ。閻厖がその手に持っていた八稜錘を、この時初めて背面越しに振り抜いたのだ。

「誰がデブ助だと、あぁん!?」

 更には先ほどまでの恐慌はどこへやら、目は血走り額に青筋を浮かべた憤怒の形相である。

「俺をっ! デブだとかっ! ぬかしたクソヤローはっ! 例え親だろうが生かしておかねぇ!」

 李白は当然知る由もなかったが、絶対に触れてはいけないあまりにも単純すぎる逆鱗に触れたのだ。この男に対して体格を侮る言葉はご法度なのである。一度そのような言葉を耳にすれば怒り心頭に発し、誰にも止められない。

「それでは全人類が敵となるぞ……」

 顔の半分を流血で真っ赤に染めながら、李白はふらふらと立ち上がる。頭蓋が砕けたような音を聞いたのは、きっと気のせいに違いないと思い込むことにした。――だってそんな事になっていたら、生きていられるはずないじゃん? と自らを納得させる。

「俺の体が、肉団子みてーだとか言いやがったなぁぁぁぁぁ!?」

「言っとらんわい、すっとぼけ」

 八稜錘が唸りを上げて襲いかかる。李白は何とかそれをやり過ごしたが、次いで下から振り上げられたもう一方の八稜錘に顔面を打ち据えられた。ゴチャッ、と鼻が潰れる音。そのまま鮮血を噴きながら仰け反るように吹っ飛ぶ。閻厖の異名は「大力鉄虎」、その膂力は凄まじい。

「おごっぽろあぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 後頭部から地面に激突。そのままごろごろと転がり続ける。待て逃げる気かと、閻厖もそれを追う。

「逃げるぅぅぅ? 貴様は脳髄まで脂肪まみれのようじゃなぁ?」

 ぴたりと李白が後転を止める。閻厖にその声は届いたのかどうか。一直線に向かってくる彼に対して、李白はぷうっと血を吐きつけた。閻厖の視界が真っ赤に染まる。

「小賢しい!」

 閻厖は構わず、両手の八稜錘を大上段から振り下ろす。しかしそこに李白はいない。閻厖の両足の合間に頭を突っ込み、その膝裏を掴み取っていた。

「貴様は、鬱陶しい!」

 そしてそのまま、仰け反るようにして自分ごと背後へ倒れ込む。閻厖自身の八稜錘を振り下ろした勢いと、李白の抱き抱えにより閻厖の巨体は前方につんのめる形となった。そしてそこに地面はなく、あの青蓮の池があった。

 水柱を噴き上げて二人諸共に水中に没する。騒音の後の静寂。水面には大きな波紋が一つ。月が静かに、花々へ等しく光を注いでいた。

「――んっばぁぁぁっ!」

 ややあって、水面から李白が騒々しく顔を出した。いそいそと岸まで泳ぎ、ぜいぜいと息を荒げながら這い登る。しかし閻厖はいつまで経っても姿を現さない。息を落ち着かせた李白は、ようやく一言、吐き捨てるように呟いた。

「ふん、醜い体よ。せめて優鉢羅の糧となれ」

 月光の届かぬ水底で、水草を掴む手が力なく解けた。

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