第十四節 空っぽの自分

 気づけば不空は、両膝を地面に突いて叩頭していた。

「大師様、僕を弟子にしてください!」

 自分で自分の言葉に驚愕する。自分は一体、何を言っているのだろう? 仏門に入りたいわけではない。そうであれば大明寺に弟子入りすれば良いだけのことだ。ならばなぜ、今この場で頭を下げる?

「僧になりたければ、鑑円殿に師事する方が得策と見えるが? 貧道は明朝にはいなくなる身の上なのだぞ?」

「わかっています、わかっています。でも、僕は大師様に弟子入りしたいのです。それに、仏僧になりたいわけではありません」

「――それは武芸のためか?」

 問われて返答に窮する不空。ぱっと顔を上げて、絞り出すように言った。

「何も……何もできないのは嫌なのです。大師様の使いで薬を購いに行った時、艱難かんなんに苦しむ方と出会いました。とても見ていられませんでした。でも……でも、僕には何もしてやれることがなかったのです。全く、何も、できないのです。財があるわけでもなく、医術に優れるわけでもなく、武芸も出来はしません。何一つその人のためにしてやれない、それがたまらなくもどかしいのです。そして今日はあの乱暴者たちに対して、やはり僕は何もできなかった。そんな無力な、何もない空っぽの自分のままでは嫌なのです」

「それで、貧道の武芸を学びたいと申すのか?」

 はい、と不空は短く答えた。それが全てだ。何もできない自分は、何かができるようになりたい。何だって良いのだ。何かが得られるなら、何かをできる自分になれるなら、それが何であろうと構わない。――今は武芸がそれだ。ただ、それだけだ。

「武芸ができたとて、それで万能となるわけではないのだぞ?」

「何もできないよりは遙かに良いことです」

「一朝一夕に身につくものではないぞ?」

「承知の上です」

「もしも弟子入りを拒んだならどうする?」

「片腕を落としてでも弟子になります」

 金剛智は思わず口元に笑みを浮かべた。そのかみ、雪山で面壁していた禅宗祖師達磨大師に弟子入りしようとしたとある僧が、自らの決意を示すためにその片腕を切り落としたという。その僧は慧可えかの戒名を授かり、達磨の衣鉢を継いで禅宗第二祖となった。不空はその故事を真似て言ったのだろう。

 ――つまり、自らは慧可に並ぶ偉人となり、金剛智の衣鉢を継ぐものだと宣言したも同然と取れる。もちろん不空はそこまで考えていない。金剛智もそれがわかったからこそ微笑んだのだ。

 直後、水面にボコンと大きな水泡が浮かんだ。驚いた不空が顔を上げると、次いでザバァッと李白が長い長い潜水からようやく姿を現した。口から鼻から色々と垂れ流しながら、一抱えの大きな箱を両手で頭上に掲げながら。

「見ぃぃぃつけたぁぁぁぁぁ! これか、これが紅袍賢人の武芸書じゃな!? これはもはやわしの物じゃ。返せと言われても返さぬからなあっかんベロベロばぁ~」

 喜びすぎて頭がおかしくなったのか、それとも元々か。おそらくは後者であろう李白は金剛智と不空とは反対の岸に泳ぎ着くと、頭上に掲げたそれを地面に置いた。その箱は石でできているらしく、ドスンと重い音を立てて地面にめり込んだ。李白は早速その蓋を開けようとするが、さすがに水中に沈めて隠すとなれば厳重に封がされている。指を立てても掌で押してもびくともしない。ついには口を開けてかぶりつこうとする。――端から見ると只の奇行者だ。

 その様子を見て金剛智はハハハと笑声を漏らした。

「元よりそれは貧道の物ではない。施主が欲するならば施主の物となろう。……ただ、一つ頼みを聞いてくれるかな?」

「あ~? 何じゃ、言うてみぃ。今のわしはひっじょ~に上機嫌じゃからな」

 金剛智は満足そうにうなずくと、やおら不空へと向き直った。

「不空よ、お前の熱意は良くわかったが、今はまだ弟子には出来ぬ。武芸は小施主から学ぶが良かろう。――施主もそれでよろしいか?」

「その小僧に武芸を教えろと? ははっ、武芸の修練には相手が要るからのぅ。願ったり叶ったりじゃ」

 李白は石箱に組み付きながら視線も寄越さず快諾した。

 不空の喜ぶまいことか。感激のあまり何も言わずにまたも地面に額を擦りつけた。その肩に手を掛けて、金剛智は顔を上げさせた。

「不空、貧道がそなたを弟子に取らぬ理由、分かるかね?」

「大師様が戴天山を離れるからなのでは?」

 金剛智は緩やかに頭を振った。

「お前を連れて行けば弟子に出来る。大明寺でなく、別のところに庵を結べばここに留まる事も出来る。しかし、それでも貧道はそなたを弟子にすることはない」

「仏門に入らないからですか? 入れと言われれば、僕も仏門に帰依します」

「そうではない。そうではないのだ」

 金剛智は嘆息するが、それは不空が的を射ないことを嘆いているのではなさそうだ。なぜならばその口元には微笑が浮かんでいる。

「不空よ、その名は鑑円大師から授かったものだな? その名の意味を今一度よく考えてみることだ。そなたは己を何もできない「空っぽ」と評したが、それは己の内奥を正しく見ることができておらぬからに過ぎぬ。本当はその身内に比類なきものが満ち満ちておる。――もしもそれに気付くことが出来たなら、武芸でも仏道でも、貧道はそなたを弟子として迎えよう」

 不空は一瞬、きょとんとなった。信じられなかった。自分は空っぽではない? そんな莫迦な。だって自分は、本当に何もできないのに。何も成すことができない、無意味な存在であるのに。だから「何かを成せる力」を求めたのに。それが「不空からっぽではない」とはどのような意味だろう。

 ――今は、まだわからない。

「大師様、これからどこへ行かれるのですか?」

 去りゆく金剛智の背中に問う。

「まずは西域へ帰るとしよう。然る後に、また長安を目指す。いやはや、この歳で一人旅などするものではないな」

 からからと笑いながら、金剛智は山を下りる。もしかするともう二度と出会わないかもしれない。しかし不空は、また再会する日が来る、そんな気がしていた。だからこそ知らずに膝を突き、額を地面に擦り付けて拝礼した。

「いよっしゃあぁぁぁぁぁっ、開いたぞぉぉぉぉぉぉぉっ!」

 その背後では、結局石蓋を叩き壊した李白がその手に一巻の巻物を手に大歓声を上げていた。

 東の空は、もう白く開け始めていた。

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