第二節 異貌の怪人
それは狩人たちが使う休憩小屋のようで、その窓や壁の隙間からは明かりが漏れていた。崖の上から二人が見た光はこれだ。近づいてみれば何やら煮炊きをしているらしい香りが漂ってくる。
ぐぐぅ~、と蘭香の腹が鳴った。恥ずかしそうに横目を向けてきた蘭香だったが、元林宗は察して何も聞かなかった風を装い、戸口の前に立った。
「どなたか居られますか? 山中で道に迷った身、どうか一晩の宿をお貸し願えませんか」
戸を叩きながら問いかける。が、返事がない。ふむ、と呟いてもう一度戸を叩こうと腕を上げ、その瞬間、がらりと戸が開いた。
「こんな夜中、ヒヒッ、お客さんだなんて、珍しいなぁ。ウヒヒッ」
蘭香がぎゅっと元林宗の袖を掴む。ざっと少しだけ後退り、見れば表情も強張っている。無理もなかろう。その話し方もさることながら、現れたのは醜怪な面相の化物だったからだ。
左右で瞼の大きさが違う。頬は左側がふっくらしているのに対し、右側だけが大きく削げ落ちたように皮だけになっている。唇は捻じれ、痙攣しているかのようにプルプルと震え、言葉を発するたびに涎が垂れそうになる。体は肥満体というには胸周りが細く、腹だけが異様に膨らんでいるようだ。料理人のような前掛けを身に着けていたが、その前面は乾いた血がべっとりとこびり付いている。
「こんな真夜中にお客だなんて珍しいなぁ。しかも、グヒュッ、二人連れかぁ。これはまた輪をかけて珍しい。グフュフ」
「私は元林宗と申します。こちらは義妹の桃蘭香」
元林宗が名乗ると、怪人の眼球がぐるんと二人を見定めるように動く。
「俺は、
怪人はごしごしと垂れ落ちる涎を袖で拭きながら背を向けてまた奥へと引っ込んでいく。元林宗と蘭香は顔を見合わせた。
「ど、どうするの林
さもありなん。蘭香の視線は早くここを立ち去ろうと言っている。が、元林宗はしばし考え込み、
「確かに見た目も話し方も奇妙だ……でも、逆にいうとそれだけだ。人を見かけで判断してはいけない。今夜一晩だけ屋根を貸してもらって、明日の朝すぐに出よう。何か危険があれば私が蘭
「そ、それもそうね!」
何やら蘭香は頬を紅に染めているが、元林宗はその意味を理解しなかった。ともあれ二人は戸口をくぐって中に入る。
入ってすぐに食卓が一つと、その右側に壁を挟んで厨房があるようだ。奥には木箱を並べただけの台に寝具のようなものが雑多に積んである。なるほどただの休憩小屋だ。それ以外に部屋と言えば、さらに奥へ続く扉が斜向かいにある。
「そっちは、グヒュヒュ、ただの倉庫だよ。ムヒュッ!」
厨房から何やら大鍋を担いできた團旺がデンと卓上にそれを置く。突っ込んであった玉杓子で中身を持ち上げれば、現れたのは脂を着飾った肉の塊が一つ。震える腕の振動がそのまま伝わりぶるぶると形を揺らしている。
「ウヒェヒェッ。ほら、こっちに来て喰ってみなよ。ムフフ、三日三晩煮込んだ肉の旨味がスゲーぞぉ。アヒャヒャ!」
どさっと小皿に乗せ、そこへさらに香辛料の類をまぶす。香りが鼻孔を刺激し、ごくりと蘭香の喉が唾を呑む。それを知ってか知らずか、團旺は我慢できなくなった様子で乱杭歯の並んだ口をがばっと開き、そのままがぶりと肉塊にかぶりつく。肉汁が溢れて皿に落ち、瞬く間に一つを呑み込んでしまった。
「アヒェヒェヒェヒェヒェ! うめぇ、うめぇよぉ! ほら、お前らも早くこっちに来いよぉ。ケヒッ、ケヒッ。これ、喰ってみろって」
脂でべちょべちょになった口元を袖で拭き、團旺は二人を手招きする。その醜悪極まる光景はともかく、その鍋の中身は実に美味であるようだ。漂う香りと今しがた目の当たりにした光景がそれを証明している。蘭香は思わず一歩踏み出しかけたが、それより先に元林宗が口を開いた。
「いえ、お誘いはありがたいのですが、遠慮させていただきます」
――瞬間、團旺の表情が凍り付いた。
「ヘヘヒッ、ヘヒッ。どうして、どうして喰わねえ? こんなにうめーのに?」
「私はこの通り道士ですので、肉食は禁じられているのです」
「別に誰も、クフフ、見てねえって。ンフフフ、バレやしないから、喰ってみろって。ハヘッ、ハヘヒッ!」
「衆目の有無は関係ありません。戒律は自らの心に正直であるための修行です。やはり、私は遠慮いたします」
バァン! 團旺の大きな掌が卓を打ち、大鍋の中で跳ねた肉汁がぎらぎらと光りながらぽつぽつと落ちる。怪人はしばし元林宗をぎょろりと真円に近い眼で見つめ、しかしふとそれを引っ込めて細目になる。
「ヒヘッ、ヒヘッ、それは仕方ねぇや、ウケケ。それじゃあ、ンヒヒ、そっちのお嬢さんはどうだい?」
今度は蘭香に正面を向け、玉杓子で掬った肉の塊を揺らして見せる。蘭香は一瞬迷った。團旺はあまりにも不気味だが、その玉杓子の中にある煮込み肉は見た目も香りも旨そうだ。元々が飯店を生家とする彼女である。料理の腕には自信があったし、舌も十分肥えているとの自負がある。それに、半日山の中をさ迷って腹も空いている。そこへあのような垂涎必至の肉ときた。さすがに生唾を呑み込まずにはいられない。
が、しかし。
「……申し訳ないけれど、私も遠慮するわ。林
ぎゅっと元林宗の腕を掴みながら告げる。ほんの一瞬前までは食べてみたいと思っていたが、團旺の口の端から涎がだらりと滴るのを見て思ってしまったのだ。もしもあれが煮汁にもこぼれ落ちていたら……と。それで一気に食欲が失せてしまったのである。
團旺の眼球がギラリと光った、ように見えた。それは殺意にも似た感情を示していた。蘭香は思わず元林宗の背中に隠れ、その元林宗は動じる様子もなく團旺の眼光を受け止めている。
ふと、團旺の表情が和らぎ、へへへと唇を歪める。
「そいつは仕方ねぇなぁ。ギヒヒ。あいにく、精進料理は作れねぇんだ。他には茶ぐらいしか出せねぇや。フヒュッ、フヒュッ。ひもじい思いをさせるなぁ。クヒュヒュ」
「いえ、お構いなく。今夜一晩、寝床を貸していただければそれで十分です」
「ここには部屋は二つだけだぁ。一つは俺が使ってる。ニュフフ」
「では空いている一部屋を蘭妹へ。私はそこの隅で構いませんから」
そう言って元林宗は部屋の隅、木箱がいくつか詰まれた辺りを指差す。が、その袖を蘭香がぐいと引っ張った。
「嫌よ。今日は
そんなことを小声で言う。だが元林宗は頭を振ってこれを却下した。どんな状況であれ、彼が婦女と同室で過ごすなどあり得ない。蘭香が情けない鳴き声を上げたところで、胡紫陽の嬌態もとい醜態を日々突っぱね続けた彼である。動じるはずがないのであった。
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