第十一節 鬼子母神の子

「おい、そこにおるのは辛悟か。なぜここにおる?」

 湖畔に沿った道の途中、曲がり角の向こうから姿を現したのは李白と東巌子だ。その肩が白い何かに汚れているのを見て、辛悟は「ああ、またか」と嘆息する。李白が聴勁の習練と称して鳥と戯れ、あのように衣服を汚すのはいつものことだ。

「ちょうどよかった。李白、俺は山を下りようと思う」

「なんじゃと!? おのれ辛悟のくせに、わしに抜け駆けで美酒と美姫を嗜むつもりであったな? わしも連れて行け!」

 ちげーよお前と一緒にするんじゃねぇ。

「ほほぅ? それはぜひとも儂も同道したいものじゃのぅ」

 すっと東巌子が傍に寄って脇腹を抓り上げる。ぎょっとした辛悟は慌てて李白の脛を蹴り飛ばした。痛ってぇ、と地面をのたうつ李白。

「李白こそ、まだ帰って来るには早いのじゃないか? 酒楼はまだ開いている時間だぞ」

「お主、このわしをただの呑んだくれと思っておらんか?」

 違うのか。辛悟が大仰に驚いてみせると、李白はふんと鼻を鳴らして背後を親指で指し示す。それでようやく辛悟は柯高に気づいた。

「柯大哥、お久しぶりです」

「これは辛棋士。すっかり回復なされたようで、重畳重畳」

 両者抱拳礼を交わす。前に会ったときにはもう辛悟は動ける状態であったが、万全ではなかった。こうして病床を降りて挨拶するのは初めてだった。

「しかしこんなところで会うとは珍しい。一体どうされたのです?」

 それが、と辛悟は背後を振り返る。柯高も李白もそちらに視線を向けると、そこには襤褸を身に纏った男が一人、長包みに縋るようにして座り込んでいる。

「こちらのお方は?」

 柯高が困惑気味に問うのへ、辛悟は頭を振って応える。

「何やら恐ろしい経験をしたそうで、それを私に語ってくれたは良いものの、自らまた恐怖心に駆られて動けなくなったようで。それで落ち着くまでここで休もうかと」

「恐ろしい経験?」

 柯高は首を傾げるが、辛悟はそれを無言で流す。これが中天幇会のなれの果てとは羅錦威も知られたくなかろうし、柯高とて知りたがっているわけでもないのだから。

「それはそうと、今回は辛棋士に蘇大人の信書をお届けに参りました。あの件について、だそうで。直接お渡しするようと」

 柯高は懐から例の書簡を取り出し、辛悟に渡した。辛悟はすぐさまそれが何であるか悟ったようだ。その場で封を解き、手で隠すようにして中身を覗き見る。ややあってから深い息を吐いた。口元は音こそ出さないものの、その唇は「やはりそうであったか」と呟いたようだ。

「蘇兄に伝えてほしい。手間をかけさせてしまったが、これですべてはっきりしたと――」

 そこでふと、辛悟の首が傾ぐ。柯高の背後数歩の位置に、ぽつねんと佇む少年の姿を見たからだ。それだけならまだしも、じっとこちらを見つめる視線がどうにも気になった。まるで狙いを定める獣のような雰囲気だ。

「柯大哥、そちらの子は?」

 問われて柯高が「ああ、これは」と答えるや、その続きをかき消すほどの大音声が辛悟の後ろから発せられた。ぎょっとして振り返れば、羅錦威が立ち上がり、顔面を蒼白にし、恐ろしい怪物にでも遭遇したかのような形相である。

「そのガキを殺せぇぇぇぇぇぇぇぇッ!」

 指差した先を追って再び振り返る。その瞬間、ズブリと嫌な音が身近から。ぽつぽつと雨滴のようなものが頬に飛んだ。

「え……?」

 柯高は呆然としていた。無理もない。突如として自身の胸から銀色の刃が突き出してきたなら、誰しもそう思うことだろう。その剣身は柯高自身の血潮で濡れている。背後から胸を一突きされたのだと気づくまで、実に三秒は要することになった。

 目の前の光景が真実であるのか否か、確かめようとした手が剣身を掴もうと伸びる。が、それより早く剣は背面に向かって引き抜かれた。遅れてどっと鮮血が噴き出す。

「小僧、貴様何をする!」

 真っ先に動いたのは李白。斜めから雲児に徒手にて打ちかかる。が、雲児は柯高の体を盾にするように投げ捨てる。あっと叫んで転倒する李白。

「そいつが俺たちを襲った! そいつが中天幇会を潰した! そいつが、俺たちを皆殺しにした!」

 半狂乱に陥った羅錦威が喚き散らす。その間にも雲児は辛悟に剣先を向ける。あまりにも近すぎて辛悟は反撃に移れない。あわやのところに東巌子の杖が割り込んだ。カンッ、剣を上方向に跳ね上げる。が、少年はそのまま体を半捻り、背中で東巌子へ当て身を仕掛ける。技を破られても瞬時に切り替え、しかもその移行が極めて滑らかだ。これは並みの使い手では相手になるまい。

 ドシン、東巌子と雲児の体が衝突。が、弾き飛ばされたのは雲児だけ。東巌子の身は両儀功によって守られているのだ。雲児はさながら巨岩に突進したようなもの。撥ね返されて当然である。内力による反動を受けなかったのはもともと攻撃のつもりではなかったからか。

 踏み留まった雲児は東巌子を見、辛悟を見、そしてその先の羅錦威へ視線を向けた。羅錦威の体がぶるりと震える。

「俺を殺しに来た! 俺を!」

 身を翻し駆ける羅錦威。待てと呼びかける暇もない。雲児が飛び出そうとするのへ、辛悟と東巌子が同時に技を繰り出す。辛悟は「十字訣」、東巌子は「天地開闢」だ。どちらも内力は十分、一方だけでも強力なのに二つ同時は受けきれぬ。雲児は左右からの攻撃を見極めるや、すんでのところで距離を取る。が、それで終わらない。即座に身を転じるや今度は地面から起き上がろうとしたところの李白へと剣を向ける。

「貴様が何者かついぞ知らなんだが、柯兄を刺したからには許しておくまいぞ!」

 雲児は一切手を止めることなくその手の剣を突き出す。が、李白は柯高の体に足を挟まれたままの状態だ。動けるわけがない。どころか、ふんと胸を張って肩を突き出した。ぶつりと剣が突き立つ。

 ここで初めて雲児の動きが鈍った。まさか逃げもせず自ら刺されにくるバカ者がこの世に存在するとは思わなかったのだろう。その一瞬が動きを破綻させた。連綿と続いて隙間のなかった動きに、初めてとどこおりが生じたのだ。

「ぶわぁぁぁぁぁかめが! 喰らえぃ!」

 李白の拳が唸る。ドスンと雲児の胸に入る。が、手応えが薄い。雲児の体はふわりと凧のように後方へ飛んだ。己の得物を捨て惜しんで回避を忘れる武芸者は多いが、雲児は一切の執着を見せずに剣を手放したのである。ちら、とその冷徹な視線が李白、辛悟、東巌子を流し見る。それぞれと手を交わして既に力量は悟っている。その上で雲児は、この場における最も的確な解を即座に導き出す。

 すなわち、逃走。後退の勢いそのままに草陰に飛び込んだ。草葉を踏み拉く音がみるみる遠くなる。辛悟と東巌子は一歩踏み出しそれを追おうとしたが、やめた。今この場において最も重要なのは雲児を追うことではない。

「柯哥!」

 李白が足を引き抜きざま柯高の体を裏返すと、その口からゴボリと血が吐き出される。傷は深い、だがまだ呼吸をしている。辛悟はすぐさま傷口周辺の穴道を塞ぎ、東巌子は内力を注ぎ込んで活力を与える。うっと呻いて柯高は目蓋を開いた。

「すまない、兄弟。俺はとんでもないものを拾ったようだ……あの子は一体、何だ?」

「鬼子母神の嬪伽羅ピンガラだ」

 羅錦威から聞いた中天幇会滅亡の顛末、そしてあの恐慌。まず間違いはないだろう。あの少年こそが鬼子母神範琳に侍女の姿で付き従い、そして中天幇会の面々を惨殺した刺客なのだ。

「倒したのか?」

「いや、逃げた。元より狙いは俺たちではなかったからな」

 雲児の狙いは初めから岷山へ逃げ込んだ羅錦威の追跡であった。柯高を刺したのも、辛悟らに剣を向けたのも、その直線進路を阻んでいたために過ぎない。今頃はおそらく迂回して羅錦威を追っていることだろう。

「あの者、果たして逃げ切れるかのぅ?」

 李白が羅錦威の逃げ去った方角を望み見ながら問う。暗に逃げ切れないだろうと言っているのだ。しかし、助けてやろうと言っているわけではない。

「放っておけ。今はそれよりも、柯哥を医者に連れて行くことの方が先決だ」

 それに、と言いかけて辛悟はその先を呑み込む。

 武芸がいくらできようが、ああも腑抜けてしまったなら廃人と化したに等しい。いくらその手に張飛鉾があろうとも、中天幇会は名実ともに死んだのだ。

 しかしそれを口にしてしまうのは、さすがに冷酷に過ぎよう。

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