第三節 黒衣の裁判官

 蘇頲も大層呑む方だと自負していたが、李白もなかなかの酒豪だった。辛悟と東巌子はちびりちびりと進みが遅く、数十本あった酒瓶の大半は李白と蘇頲とで空けてしまった。

「それはそうと、蘇兄は何の縁があって今日この時にこんな場所へ来たのじゃ?」

 藪から棒に李白が言うのへ、蘇頲はようやく当初の目的を思い出した。空にした酒瓶をタンッと床に叩きつけるようにして置く。

「そうだ! 天吏獄卒てんりごくそつ!」

「天吏獄卒?」

 李白が鸚鵡返しに聞くのへ、蘇頲はうむと頷いて事の次第を語った。目の前の三人こそがその天吏獄卒である可能性はもはやないと判じていた。

 天吏獄卒の名がにわかに広まりだしたのは、ここ数年の事だ。始まりがどこであったのかはわからないが、このところはここ益州周辺に移ってきたようだ。天吏獄卒がやるのは殺しだ。それも、決まって役人だけを標的にする。もしも邸宅の扁額に「有罪」の書が張り付けられたなら、それは天吏獄卒が狙いを定めた証拠である。同時に邸の主が犯した悪行の数々を書き連ねた罪状目録が門扉に所狭しと貼り付けられる。そして張り紙が行われて十日以内に、狙われた者はどこへ逃げても必ず死体で見つかった。民草はその報せを聞いて悪徳役人が処刑されたと諸手を上げて歓喜するのだ。

「つまり、天吏獄卒とは民に代わって汚職役人を裁く者であると?」

 辛悟がそう問いかけると、蘇頲は苦々しく舌打ちを漏らす。

「なにが裁く者、だ。人を裁くのはお上よりその権限を与えられた者だけだ。なんの権利があってお上がお役目を下された役人を斬り捨てるのか? 何者とも知れぬ輩が、いい気になりおって!」

「しかしこの唐の国には有象無象の役人がおる。その中からどのように狙いを定めるのか?」

 東巌子が呟くのへ、蘇頲は「それだ!」と叫んで指先を向ける。

「わしがここへ来たのは、まさしくそれだ。近頃は愚かな民が、天吏獄卒に誰それを裁いてくれと自分勝手な訴状を書いて手近な道観に届け出るのだと。わしはそれを聞いて怒り心頭に発したのだ。訴状を届けるならば役所のしかるべき部門へ届け出るのが正道、それが何を血迷って無冠の輩に訴え出るのか」

「そりゃあ、その役人こそが裁いてほしい相手だからじゃろうな。バカ正直にやってはもみ消されるのがオチじゃ」

 李白がずけずけと言う。蘇頲はキッと睨みつけたが、反論の言葉は出ない。確かに李白の言うのももっともだ。役人を裁いてほしいのに、その役人の元へ訴状を届けるなどそれこそ愚かだ。

「ともかく! わしはこの道観に届けられた訴状を自ら見聞してやろうと思ったのじゃ。天吏獄卒に勝手なことはさせぬ。むしろこのわしこそが奴を裁いてやるわ!」

「ほほぅ? では貴様には人を裁く権利があると?」

「ある!」

 ――答えてから気づいた。今のは誰の声だ?

 すでに蘇頲以外は視線を廟の入り口に向けていた。蘇頲もようやく察した。姿は見えないが、何者かがあの扉の向こうにいる。並々ならぬ威圧感が押し寄せている!

 バンッ! 弾けるように扉が開き、狂風が頬を打ち据える。咄嗟に目を伏せて覗き見た視界の先、一人の男が姿を現した。黒衣の男だ。闇に溶け込むような黒、しかしその造りは一品の官服のようでもある。手には黒檀のしゃく。李白らの位置からは見えないが、背には法と正義を司る神獣「獬豸カイチ」が刺繍されていた。素顔はわからない。なぜなら男は面を着けていたからだ。黒い下地に赤の隈取り、胸まで伸びた髭がいやがおうにも視線を引き付ける。まるで演劇の舞台からそのまま降りて来たような装いだ。

 男は仮面の下から、老人とも若年ともわからぬくぐもった声を発する。

「さすがはこの度、益州長吏にご就任の蘇頲様だな。かつては宰相の位にまで上り詰めたお方だ。下々の民の虐げられる声などその高潔な耳には届いておらぬのだろうよ」

「な、なんだとっ!」

 蘇頲はそれきり言葉を発する事が出来なかった。一つは己の素性を見破られた事に驚いたため。もう一つは、男の眼光に射竦められたためだ。真っ赤な隅取りの先、ギラギラと光る目に真っ向から凝視される。この目の前ではいかなる嘘偽りも通用せぬと思わせる威圧感があった。

(確かにわしは宮廷で百官を束ねたが、市井の民と密に関わった記憶はない。日々政務に追われ、それを着実にこなす事をこそ使命と心得ていた。だが、それは本当に民のためとなっていたのか? この唐の国の発展に寄与していたのだろうか? わし自身の目でそれを見届けようとしただろうか?)

 気がつけば蘇頲はかつての日々を自省していた。どれだけ身を謹んでいたとしても、まったく悔いのない人生など送れはしない。何よりこの身が益州へ送られたのは、皇帝に間違った進言をしたと弾劾されたためだ。間違いのない生き方、官僚としての行いをしてきたと胸を張って言えるわけではないのだ。

「おいこらおいこら、宴に加わりたいなら正直にそう言えば良いではないか。いきなり蘇兄に難癖をつけおって。貴様は何者じゃ!」

 弾かれたように立ち上がるなり、干した酒盃を持った手で男を差す李白。だがその問いは愚問だ。その場の誰もが既に答えを知っているのだから。仮面の下で男が嘲笑を浮かべたのがわかる。

「俺は――天吏獄卒だ!」

 それはまるで開廷の合図であったかのように、その場の空気を変えた。誰もが動けなかった。動けるのは提灯の揺らめく灯りと、吹き込む風に舞い踊らされる埃だけ。この場この時においては、誰もが勝手に発言することを許されず、真実のみを口にしなければならない――そう思わせるだけの力が男の言葉にはあった。

 天吏獄卒はまずじろりと一同を見回し、そして蘇頲に目を止める。

「この俺に人を断罪する権利はないと言ったな? ではなぜお前にはその権利がある?」

「ふん、貴様が自ら言ったではないか。確かにわしは天子の勅命により長吏の位を授かった蘇頲じゃ。法に従わぬは悪、悪を裁くはわしの務め。ゆえに貴様を法に照らして裁くのだ。それに何の不服がある?」

 気後れせぬようにと胸を張って蘇頲が言い返すと、天吏獄卒はくつくつと嘲笑を漏らす。

「クソの役にも立たぬ法で俺を裁こうだと? 笑わせるな。こんな夜中に素性もわからぬ者どもと交わって、清廉潔白な役人だとどの口が言う?」

 これには蘇頲も反駁できない。確かにこんな夜中に出歩くのは夜禁の法に反している。それも、自ら無法者と判じていた江湖の徒とこうして酒宴を囲んでいたのもまた事実。そんなわが身が法を語ろうとは笑止千万だ。

 またくつくつと笑う天吏獄卒。判決は下った。天吏獄卒は笏を帯に差し込み、右手をゆっくりと顔の高さまで上げる。それがゆるゆると己の眼前に伸びるのへ、蘇頲はぎょっとして身を強張らせた。

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