第三節 桃家飯店の災難

「窓際のお客さん、また注文です。老酒を三瓶追加で、それから今度は鴨肉が欲しいと」

 ひょろりとした頼りなげな青年が、客の注文を厨房に伝える。厨房に立つのは子供を三人ほど束ねたような胴回りの大柄な女性だ。年は四十過ぎと言ったところ、頭には手拭いを巻き、炎を吹き上げる鍋を揺すっている。ぎろり、鋭い眼光が青年を見据える。

「鴨肉だって!? うちは酒楼じゃないんだよ、そんな高価な食材なんてあるもんかい。鶏ならあるって言ってやんな!」

 先ほどから大量の注文を捌いていた彼女はさすがに殺気立っていた。彼女が怒鳴ると厨房の壁がビリビリと震える。青年はびくっと身を震わせた。いつになってもこの凄まじい恫喝には慣れないのだ。

「それが大姐ダージエ、僕もそう言ったんですが、それなら買ってくれば良いだろうと……」

「そりゃそうさ! 買ってくれば食材はあるよ。でも誰が買いに行くのさ? 蘭香は一体どこに行ったの!?」

蘭妹ランメイはついさっき、買い物に行くと言って……」

 ギロリ。女将の瞳に刃物のような光が宿る。

「買うべき物が無い内に何だって買い物に行かなきゃならないんだい!? あのバカ娘ったら、本当にどうしようもないね! これでもしも鴨肉を買って帰ったなら頭を撫でて誉めてやるけどね!」

 それは無理だろうなぁ、と青年は頬を掻いた。その顔面にまたも恫喝が飛ぶ。

「――何をぼけっと突っ立ってるんだい! 客が待ってるんだよ。さっさと運ぶもの運んで、鴨を買って来な! 百数える間にやるんだよっ!」

「は、はいぃっ!」

 驚き躓きそうになりながら、青年は厨房を離れた。しかしこれが「桃家飯店」での日常でもあった。厨房近くの客には今の会話が全部筒抜けだ。それを聞かなかったように口元を緩め、また箸を伸ばして舌鼓を打つのである。

 ここは名も無き宿場町。旅人や商人、あるいは荷運びの鏢局ひょうきょくたちが行き交う場所である。朝も早いその時間帯は今から出立しようという者たちが腹ごしらえをしようとどの飯店も大盛況である。もちろん、この「桃家飯店」もその例に漏れていない。老若男女、旅人や商人、屈強そうな鏢局の一団も皆一様に舌鼓を打っている。

 慌てて店を飛び出す青年店員を視線で見送って、辛悟はまた一口杯に口をつけた。厨房から離れた窓際の席に座っているものの、彼の耳にも厨房の会話は聞こえている。何だか申し訳ないなぁ、と息を吐いた。

「いやぁ~旨い! ここの酒は実に旨い! 加えて料理もなかなかの物じゃ。馬糞にまみれたような見てくれの面構えにしてはよくやりおるわ」

「食事中だぞ、少しは言葉を選べ」

 見た目については否定しない辛悟である。確かに店の外見はお世辞にも小綺麗とは言い辛く、初めは入店をためらったものだ。だが席に着いてみればその認識は一変した。料理もさることながら、茶の一杯でさえ美味なのだ。すでに卓上には食べきれないほどの大皿が乗っている。

 東巌子の元を離れ街道に出た二人はほどなくこの宿場町にたどり着いた。朝食をまだ摂っていなかった二人は早速この飯店に入るなりいくらかの注文を青年に申し付けたのである。しかしこの量は明らかに多すぎる。二人前どころか十人前はあるだろう。

「おい、李白。見境もなくこんなに注文しやがって、支払いは大丈夫なんだろうな?」

 辛悟が問いかけると、李白は何がそんなにおかしいのかゲラゲラと笑って、

「なんじゃ、そんなことを心配しておるのか。安心せい。わしは一銭たりとも持っておらん」

「胸張って言うんじゃねーよこのクズが」

 まあ、最初からそんな事だろうとは思っていた。幸い懐には幾ばくかの銀子がある。これの支払いぐらいならば何とかなるだろう。

「んぁぁ? おい辛悟、お前、さっきから茶ばかり飲んで、酒は要らんのか?」

「……腹も一杯だし、あいにくと俺は下戸なものでね」

 大嘘だ。本当は多少嗜むが、好んでは呑まないだけだ。なんじゃぁ、つまらん。李白はべえっと舌を出して見せ、それからまた一杯煽る。こちらに至っては先程から酒を喰らうばかり、自分で注文したくせに一度も箸を握っていない。すっかり顔は紅潮し、実に良い気分だと解けた口元が語っている。人の金だと思っていい気なものだ。

「酒と女がこの世の楽しみと言うのに、お前は酒を要らんと言うか。実に勿体ないことじゃな。――うん? いやもしかして、お主実は女のことしか考えておらんムッツリなのでは」

「自分の価値観押しつけてんじゃねーぞテメェ」

 その眼窩に突き刺してやろうかと辛悟が箸を手に取った瞬間、突如李白が口に含んだ酒を盛大に吹き出した。真正面に座っていた辛悟がこれを避けられるはずもなく、頭からびしょ濡れになる。

「……弁解を聞こう」

「にわか雨が降ったのじゃよ」

 ――なるほど、では次に降るのは血の雨だな。辛悟は容赦なく手にした箸を李白の顔面目がけて突き出したが、李白はそれをガリっと前歯で受け止める。

「おわっと、野郎にあ~んをされても嬉しくないわ! ――いやそんなことより、後ろを見てみよ。ただし首を動かしてはならんぞ。気づかれてしまうからな」

 背中に目があるわけでもなし、首を動かさずにどうやって背面を見よと言うのか。辛悟は遠慮なく体を斜にして視線を背後へ向けた。そうして、なるほど李白が酒を吹いた理由を察した。

 老人がいる。店の外、人々が行き交う通りの端に物乞いのような体で座り込む黄土色のその姿。頭には編み笠を被っていて顔は良く見えないが、あの二尾のような腰帯と傍らに立てかけた杖は見間違えようがない。

「あれは東巌子殿じゃないか。奇縁だな、まさかこんな場所でまた出会うことになるとは」

「隠者といえども、世俗の銭が要るのじゃろうよ。わしらに出した酒や肴も、ああやって稼いだ銭で買っておったというわけじゃ」

 李白がそう言うのは、東巌子がおもむろに背に背負った包みを胡坐に組んだ膝の上に広げ、七絃琴を取り出したからである。これを東巌子は雑踏の中で爪弾き始めたのだ。なるほど、あれで金を得ていたのか。

 二人はしばしその音色に耳を傾けた。その音色は静かでありながら、行き交う人々の足音や話し声にかき消されることなくこちらまで流れて来る。それはどこかもの哀しげで、悲哀の嘆きのようにこちらへ訴える響きがあった。

 ほほぅ、なかなかやるではないか、と李白。辛悟もこれには同感だ。選曲はともかく、東巌子の演奏は情趣が籠っており心を打つものがある。

 やおら辛悟はぱしんと膝を打った。

「李白、ここはひとつどうだろう。ここ数日受けたもてなしの返礼に、東巌子殿もこの席に招いては?」

「おう、わしもまさしくそれを今考えておったところじゃよ。――おぉい、東巌子よ。こちらへ来てわしらと一緒に呑まんかね!」

 李白は腰を浮かせて手を振ったが、東巌子は気づいた様子もなく演奏を続けている。こちらの声が届かないのか? いやそんなはずはない。いくら両者の間を雑踏が過ぎっているとは言え、李白の無駄にでかい声が届かぬはずはない。今度は手を添えて呼ばう。が、やはり演奏を止める気配はない。

「あ~? あやつ、もしや耳が遠いのではあるまいか? よっしゃ、それならばこちらから赴くまでじゃ」

 言うや否や、李白は酒杯と酒甕を片手に、もう一方には料理の乗った皿を一枚乗せて席を立つ。そのまま店の外へと駆け出した。後を追おうと辛悟も腰を浮かせたが、その瞬間、背中に向けられる気配に気づいた。はっとして振り返れば、編み笠の下から東巌子の赤い双眸が見えた。――偶然ではない。真っ直ぐにこちらを見据えている。

(こちらの声に気づいていたのか? ではなぜ呼びかけに応じないのだ?)

 辛悟が疑問に思ったのと同時、店の外で「ぎゃあっ」という悲鳴、そして食器の砕ける音が響いた。

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