第六節 蘭香、絶体絶命

 卓を飛び越えようとしたところで不意に腕を引かれ、蘭香は背中から卓上に叩きつけられた。ぐしゃっと音を立てて皿が砕け、料理の汁が服に染み込む。何事かと思って引かれた左腕を見てみれば鎖錘くさりふんどうが巻き付いている。これに動きを封じられたのだ。

「やってくれたわね! 服を洗うのって大変なのよっ!」

 口先では軽口を叩いているが、内心では窮地に陥ったとあって動転している。右手を伸ばしてこれを解こうとしたところで、その手首にもまた別の鎖錘が巻き付いた。

「くそアマめ、捕まえたぞ!」

 男たちが鎖を左右に引こうとするのを、蘭香は内力を駆使してぐいと引き寄せる。男たちは一度は踏鞴たたらを踏みかけたが、数人がかりでやられてはさすがに抗いようもない。遂に蘭香は抵抗も虚しく卓上に身動き一つ取れない状態で捕らわれてしまった。仰向けでまったくの無防備。これではまさしくまな板の上の鯉である。両腕は左右に引き抜かれんばかりに引っ張られて激痛も甚だしい。思わず呻き声が口から漏れる。

「よぅしお前ら、よくやったぞぉ」

 それまでずっと傍観していた万江が欠伸混じりに近づく。この男、手下が散々弄ばれている間もずっと態度を変えることなく高みの見物を決め込んでいた。蘭香が捕らえられてからようやく出て来るとは、太々ふてぶてしいにも程がある。蘭香は唯一自由の残る足を滅茶苦茶に蹴り出して抵抗するが、万江はギリギリその足先が届かない位置でじろじろと蘭香の全身を舐め回すように見下ろした。

「ふぅん? お前、よく見ると中々な顔つきだな。俺の女にならねぇか? ここで死ぬよりは俺に可愛がられた方が随分とマシだろう?」

「誰があんたみたいな木偶の坊のものになってやるもんですか! 鏡を見てから言ってよね!」

「でくのぼう? 俺が棒みたいに見えるって? 大体の奴らは俺の事を毬みたいだとか言うけどなぁ」

 言いながら万江は右腕をぶんぶんと振り回し、それから指先をゴキゴキと鳴らした。単純に威圧しているようにも見えるが、蘭香にはその指先に内力が集まっているのが感じ取れた。あれはおそらく「鷹爪功」に類する武芸だ。その指力は岩をも砕くと聞く。

「ま、俺にはどっちでもいいや。取り敢えず手足を動かなくしてから連れて帰るとするか。お前をどうするかはその後決めればいいからな」

 万江の手が左肩を掴む。その指先は関節の間に無理やりに潜り込み、ギリギリと蘭香の体を締め上げる。脱臼させて動けなくするつもりなのだ。

「――っ!」

 蘭香が声にならない悲鳴を上げそうになった瞬間、一陣の風が戸口から猛然と吹き付けた。びゅうっ、と耳鳴りがしたかと思えば、次の瞬間には蘭香の肩を締め上げていた力が消え失せる。見れば、なんと万江は壁際にへたり込んで目を回しているではないか。

「下劣な者どもめ、乙女を一人取り囲んで乱暴するとは何事か!」

 一瞬遅れてようやく、蘭香は自分の腰を跨ぐようにして卓上に立つその姿に気づいた。星辰の刺繍が入った紫の道袍を纏い、髪を三つ編みにして背に流している。下から見上げるようにしているので背丈のほどはよくわからないが、声を聴く限りはそうそう年の離れぬ少年のようだ。あいにくと蘭香の視点からでは背中しか見えないため顔はわからない。

 しかしただ一つ確実に言えることは、この道服の少年は疾風の速さで店内に駆け込み、目にも留まらぬ速さで万江を突き飛ばし、蘭香の窮地を救ったということだ。

「その卑しい手を離せ!」

 言うなり少年は卓を飛び降りざま、蘭香の左手首に巻き付いた鎖を握る。着地の瞬間にぐいと引っ張ると、少年は片手であるにも関わらず、大の男が五人近くどどっと勢い余ってつんのめった。

「貴様、よくもっ!」

 右手側の鎖を持った一団がえいやと声を上げて鎖を引く。蘭香の体は抵抗する間もなく卓から引きずり落とされそうになる。が、少年ががつんと卓の脚を蹴るとむしろ鎖を引くよりも早く卓は男たちへ向かって滑る。蘭香と男たちは揃ってぎょっとした。このままでは衝突してしまう。それどころか、彼らと卓の間に挟まれるであろう右腕は容易に圧し折れてしまう!

「ぎゃあっ!」

 男たちの悲鳴。咄嗟の事に蘭香は為す術もなく目を瞑ったが、しかし右腕は何ともない。卓も動きを止めている。どうしたのかと思って目蓋を開いてみれば、思いもかけないものが目の前にあった。

姑娘グーニャン、お怪我はありませんか?」

 透き通るような澄んだ瞳、色白な肌に整った顔立ち。端的に言えば美形。三つ編みが肩越しに垂れて蘭香の頬を軽く撫でていた。

 少年は蘭香の頭部を挟むように両掌を卓に突き、そのまま卓上に倒立、そして左足を側面に突き出して男たちを壁との間に叩きつけたのだ。また同時にその反動を床に向けて垂直に押し込むことで卓を停止させたのである。

 蘭香が茫然として返事をしないので、少年はこくりと首を傾げた。

「……姑娘?」

「え? あっ、へい! にゃんともないです!」

 動転するあまり噛み噛みになる蘭香に対し、少年は「それは重畳」とだけ言って卓からひらりと降りる。それから左腕に巻き付いた鎖を解いてくれた。

「何やら事情は知りませんが災難でしたね。それとももしかして、私はお邪魔でしたか?」

 蘭香はぶるぶると猫が身震いするかの如き勢いで頭を振る。お邪魔だなんてとんでもない、むしろ窮地を救ってもらえて感謝している。しかもこんな美男子に助けられるだなんて――。

 蘭香は自分の顔が真っ赤になっているのがわかって、しかしどうすることもできずにただ俯くばかりであった。

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