第二節 隠者、東巌子

 事の発端は前日の夕刻まで遡る。

 雷を伴う大雨の夜から数日が経ったが、その湿気はまだ山野を漂い霧となって地表を漂っていた。それは植物や昆虫にとっては天の恵みに他ならないが、絶賛遭難中の愚か者たちにとっては忌々しい邪魔者でしかなかった。

 李白と辛悟は飢えていた。もう何日も山中を彷徨い、禄な食事を口にしていない。何とか木の実を摘んで飢えを凌いできたが、それも限界に近かった。されど人里は見える気配もなく、李白に至っては酒を飲み干してしまって以来禁断症状が出たらしく言動の意味不明さが数割増しとなっている。そろそろこの唐変木を潰して食料に充てるべきかと辛悟も真面目に考え始めた頃、一軒の庵を見つけたのだ。

 その庵は蔦に包まれ、屋根には苔がびっしりと生え、壁は樹木の枝が貫いているような荒れ具合であった。しかしながら疲れ果てていた二人はこれ幸いと中に飛び込んだ。入り込むなり地べたに横たわり、昼間であるにも関わらずぐっすりと寝込んでしまった。

 目が覚めたのは数刻が経ってから。鼻をくすぐる匂いがするので目を覚ますと、すぐ側の厨房から湯気が立ち上っている。ぎょっとして飛び起きてみれば、小柄な黄袍を着た老人が竃に薪をくべている。すぐさま辛悟は悟った。――この破れ庵に住人がいたのだ。

 老人は粥を作っていたようだった。それを無言のままに起きた二人の前に出した。なんと老人は見知らぬ訪問者を追い出すでもなく警戒するでもなく、わざわざ食事を作ってくれていたのだ。辛悟が問うと、老人は自らを東巌子と名乗った。

 東巌子の歓待はそれだけに留まらなかった。すぐにでも立ち去ろうとするのを呼び止めて泊まるように促し、寝台を手入れし、夕飯を振る舞い、さらにはどこから調達してきたのやら酒と肴まで並べてもてなした。これには李白は大喜び、思う存分に酒をかっ喰らい、詩歌を口ずさんではべろんべろんに酔っぱらったものだ。

 翌朝以降も東巌子は何も言わずに食事を出し、酒を出し、泥だらけになった二人の衣服を洗ったり、景色の良い場所を教えてくれたりと至れり尽くせりであった。なぜそこまでするのかと辛悟は問うてみたことがあるが、これには東巌子は何も答えなかった。東巌子は多くを語ろうとせず、酒や食事も用意するだけで共に卓を囲もうとはしなかったのである。

 そんなこんなで数日間を東巌子の庵で過ごした李白と辛悟であったが、さすがにこのまま山中の隠者に仲間入りするつもりもない。それで下山の意思を伝えると、東巌子は無言のままどこぞへと姿を消して遂に姿を見せなくなってしまった。何か機嫌を損ねてしまったのかと思いつつ、明朝二人は山を降りた。

 そしてこの時初めて、辛悟は気付いたのである。朝靄に包まれた新緑の中に、滔滔と流れゆくか細い琴の音があることに。

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