第十節 断罪の夜
裏口から広間を出る。裏庭を抜け、火の手の上がっていない北西へと逃げる。あちらには厩もあったはずだ。これは僥倖、活路が見えてきた。門を抜け塀を越え、羅父子は駆けた。伏兵はない。先ほどとはまるで様子が違う。ともすればすでに逃げおおせたのかと錯覚しそうなほどの、静寂。
(……妙だ)
わざと包囲に穴を開け、獲物を罠のある方角へと誘い込む。これは狩りの手法だ。自身は今、追われる獲物であるのだ。逃げる先を誘導されている。このままでは狩人の思う壺だ。逃げれば逃げるほどに逃れられなくなる。
しかし、違和感を覚えるのがわずかに遅れた。誘い込まれたと悟った時にはもう、眼前にそれがあった。
暗闇の中、白糸で縫い込まれた刺繍はぼんやりと幽鬼のように浮かび上がる。それは善悪を判じ、断罪を象徴する
「罪人、羅志武。
隈取りされた面の下、ギラリと光る双眸が見据える。
「天吏獄卒――!」
その恐れ戦いた声が自身の喉から発せられたのだと気づくまで数秒を要した。この俺が恐怖している? 羅錦威は奥歯を噛み締め頭を振る。冗談ではない。たかだか一人の敵を相手になにを臆しているのか!
「よくも中天幇会にこのような所業を! 許してなるものか!」
「錦威、やめろ!」
制止も聞かず徒手にて打ちかかる羅錦威。天吏獄卒の手にも武器はない。膂力の勝負であれば体格に勝る羅錦威に分があると見えた。が、羅錦威の拳を天吏獄卒はさらりと位置取りを変えることでやり過ごす。同時に羅錦威の背面を取った。
ズドン、五臓六腑が口から飛び出るかと思うほどの衝撃。羅錦威はガッと血を吐きながら前に転がった。ただの一撃、しかし深い内傷を負ったのは確実だ。天吏獄卒、噂に違わぬ武功である。
ガチン、金属の打ち合う音が背後から。羅錦威は突っ伏した姿勢から何とか上体を起こして振り返る。羅志武が張飛鉾を振るい、天吏獄卒と相対していた。天吏獄卒の手には一本の笏がある。両者それぞれが武器を振るえば、今一度耳を
勝てるわけがない。羅錦威は悟った。天吏獄卒の武功は中天幇会の誰と比べても遥かな高みにある。羅錦威は己の見識の浅さを呪った。自身がいかに弱小であるかを知らずにいたことを恥じた。
「天吏獄卒、よせ!」
内傷を負った体に鞭打って、羅錦威は天吏獄卒の背中に打ちかかる。が、それは横薙ぎに払われた掌によってあっさりと阻まれ、叩きつけられた掌力によって弾き飛ばされる。塀に体を打ち付けられ、羅志武は膝を立てるもののそれ以上動けない。
「羅志武の子、羅錦威よ。お前に用はない。今宵俺が裁くのはこの羅志武ただ一人。静かに立ち去るならば善し。歯向かうならば、まずお前を打ち殺さねばならん」
「させるものか!」
羅志武の張飛鉾が天吏獄卒の頭部を狙う。が、笏がこれを阻む。さらにはさっと滑って羅志武の握り手を打った。あっと叫んで羅志武の手が張飛鉾から離れる。そこへすかさず天吏獄卒の蹴りが入った。後手一本となっていた羅志武の手から張飛鉾が飛び出し、くるくると回転してから大地に突き刺さる。
すっと天吏獄卒の掌が羅志武の胸に伸びた。羅志武は咄嗟に後方に跳ぶ。が、天吏獄卒の掌はぴたりと張り付いたようにそのまま羅志武を追いかける。そして、羅志武の体が塀にぶつかって停止する。
「父上!」
羅錦威が叫ぶのと、天吏獄卒が反対側の掌を後方に伸べたのは同時。それは勁力の発露を意味する。動作は緩慢であるが、それは掌力に関係しない。むしろ、緩やかであるほどに強大な内力を発するのだ。
「ぐ……うぐっ……」
羅志武の体が震える。唇の端から一筋の血が――いや、鼻孔、眼孔、耳孔、ありとあらゆる
「きん……い、にげ……」
羅志武の指が震えながら持ち上がり――その爪の隙間からも流血している――、大地に突き立った張飛鉾を指す。羅志武の言わんとしていることは直ちに理解できた。張飛鉾を持って逃げろと、そう言っているのだ。羅錦威を見据える眼球は片方がすでに沸騰したように潰れ、もう一つも眼孔内の鮮血に浮かびながら焦点が合っていない。しかし、羅志武はまだ生きていた。体内を緩やかに破壊されるその苦痛やいかに。あまりにも惨い酷刑ではないか。
「――逃げるなら、追わぬが?」
天吏獄卒の視線は血塗れになりながら崩れていく羅志武を見据えたままだ。本当に羅錦威には何の関心もないようだ。
逃げるか、戦うか。生きるか、死ぬか。
――気づけば羅錦威は
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