第九節 呆気ない逃走

「すべて真実だ」

 幇主の口から飛び出した言葉はあまりにも呆気なく、それゆえに飲み込むのに些かの時間を要することとなった。

 日の暮れたころ。場所は幇主羅志武の邸。羅錦威は一人広間にて羅志武と向かい合っていた。羅志武は椅子に腰かけ、その膝にはあの罪状目録を広げている。

 邸の門をくぐるなり、古参の召使いから密かに耳打ちされてここへ呼び出された。何か極秘の話かと思えば、室内には幇主のみで他の舵主はおろか召使いの一人もいない。そうして開口一番発せられた幇主の言葉がそれであったのだ。

「天吏獄卒の慧眼にはほとほと感心するばかりだ。よもやかの所業が暴かれる日が来ようとは」

「何をバカな!」

 叫んでから、羅錦威はそれに続く言葉を探し出せずに俯いてしまう。驍舵主が誅殺されてより、範琳が届けた罪状目録がすべて真実なのではと信じて始めていた羅錦威であったが、事ここに至っては認めたくなかったのだ。まさか、中天幇会の幇主であり、また己の父である羅志武が、唾棄すべき悪行に手を染めていたなどとは。易く受け入れられるものではない。

「無辜の民を陥れ、謀殺に加担し、穢れた金を受け取るなど……人の所業とは思えませぬ!」

 食いしばった歯の合間から言葉を絞り出し、再び上げた双眸を涙で濡らしながら、しかし羅錦威は力なく膝を折る。

「我ら中天幇会はッ! 張飛大先輩を見習い、義に従い情に厚く、中庸の道を歩まんと志した同胞はらからによってなされたものであったはず! それが、それが……っ!」

 それ以上は口にできなかった。それ以上の言葉は己の父を侮辱することになる。それは不義の行いだ。

 羅志武は罪状目録を卓上に置いて立ち上がり、そして傍らに立てていた一振りのほこを手に取った。全身を一枚の布にくるまれているが、その中身が何であるのかは容易に察しが付く。中天幇会の宝、張飛鉾に違いない。

「立て、錦威」

 言われるまま羅錦威は立った。その眼前に張飛鉾が差し出される。羅錦威はその意味を理解できなかった。

「これを持って逃げろ、錦威。例えこの身が天吏獄卒の裁きを受けようと、余人にこの宝鉾を渡すわけにはいかん。これがお前の手にある限り、中天幇会が滅びることはない」

「何を言うのですか!」

 羅錦威の驚くまいことか。張飛鉾は幇主のみが持つことを赦される宝。それを持ってただ一人逃げ出せだと? そんなこと、聞き入れられるわけがない!

「中天幇会の幇主は、あなたです。父上」

「いいや違う。俺は義を軽んじ情を蔑ろにし、魔道に堕ちた人非人ひとでなしよ。幇主の座に居座るなどおこがましいにもほどがある。それに比べ、お前は実に幇主に相応しい。本当に――よくできた息子だ」

 不意に羅志武の手が伸びる。羅錦威がハッとするや、その体は強く抱き締められた。羅錦威ももはや子供ではない。こうして親と子として抱き合うなど何十年ぶりのことだろうか。

「――お前は罪状目録に名がない。妻子を連れてすぐにここを離れるのだ。そしていつの日か、また中天幇会を興してくれ」

「無理です! 父上を置いて逃げるなど……。妻と娘はすでに送り出してきました。私は今宵この場で戦う所存。天吏獄卒も、鬼子母神も、敵とあらば全力で迎え撃つのみ!」

 今宵この邸には百人近い中天幇会の精鋭が集められ、水も漏らさぬ構えで守りを固めている。いかに江湖に知られた彼らであろうと、ただ二人でこの場に乗り込むなど無謀に過ぎよう。

 だが羅志武は頭を振る。

「たとえ今日を乗り切ったとして、明日は? 明後日は? 一月後は? いずれこの首には断頭斧が振り下ろされよう。天吏獄卒に審判を下されたからにはもはや逃げられないのだから。しかしそれまでの間にお前が遠く逃げおおせれば、それだけ中天幇会の未来が守られるのだ。張飛鉾さえその手にあれば」

 羅錦威は返す言葉もなく。ただただ項垂うなだれた。羅志武の言葉が正しいことは理解している。天吏獄卒は罪人を決して逃さない。しかし、この張飛鉾はなんとしても守り通さなければならない。

 しかし、運命は人を待ってはくれない。

 やにわに外が騒がしくなる。誰かの怒声、喚き立てる声。それに混じって金属の擦れ合う剣戟の音。

「来たか、範琳!」

 羅志武が身を翻すと同時、バンと扉を押し開いて弟子が一人駆け込んでくる。その姿を見て羅錦威はぎょっとした。体はすでにズタズタに切り裂かれ、背中には矢が突き立っている。

「大変です! 四方から襲撃を受けています。敵はおよそ、二百!」

「二百!?」

 羅錦威、羅志武の驚くまいことか。天吏獄卒、鬼子母神の両名とも江湖では独立独歩の者であったはず。それが数を頼みに襲撃を仕掛けるとは夢にも思わない。しかも相手はこちらの倍の人数だなどと。

「お報せ、しなければと……」

 それ以上を口にはできず、弟子はその場に頽れた。絶命していることは見ただけでわかる。羅錦威はさっとその亡骸を飛び越え、開かれた戸口に立つ。そして見た。邸のあちらこちらで火の手が上がり、殺戮の悲鳴が響き渡る地獄絵図を。

「幇主、幇主!」

 そこへ駆けてきたのは陳舵主だ。背後には十数人の手下を引き連れている。そのうちの何名かはすでに傷を負っている。交戦して退却したものと見えた。

「四方から攻撃を受けて、これ以上は守り切れぬ。幇主はご無事か?」

「私はここだ」

 羅志武が応えた、その瞬間。羅錦威は直上に殺気を感じて振り仰いだ。黒装束の何者かが、剣を片手に落ちてくる!

「危ない!」

 羅志武を突き飛ばしながら自身も大きく飛ぶ。パッ、と羅錦威が立っていた位置に血飛沫が舞った。襲撃者は着地の瞬間即座に狙いを変え、その剣を陳舵主の脳天に突き刺したのだ。

「あ……ガッ」

 陳舵主のまぶたは眼球が飛び出さんばかりに見開かれ、両手は助けを求めるように宙を彷徨う。しかしそれも襲撃者がグリッと剣を一捻りするとビクリと全身を痙攣させたのを最後にだらりと垂れ下がり、膝も折れてどっと頽れた。ズルリと引き抜かれた剣身はぬらぬらと脳漿にまみれておぞましい色の光を放っている。

「よ、よくもっ!」

 陳舵主のすぐ後ろに立っていた弟子が鉾で突きかかる。が、襲撃者はさっと身を翻してこれをやり過ごすや、懐に入り込んで心臓を突き刺す。瞬きする間もない早業である。何をされたのかもわからないまま弟子は絶命した。

「かかれっ!」

 遅れてようやく他の弟子たちも動く。素早く展開するや襲撃者を取り囲む。鋒先がキラリと光って線を引く。その行く筋もの光線がありとあらゆる方角から襲撃者に迫る。

「幇主! ここは我らに任せてお逃げください!」

 言った矢先、一瞬視線を逸らした隙を突かれて顎下から頭頂までを貫かれる。

 羅錦威は恐怖した。陳舵主を殺せたのは単に不意を突いただけではなかったのだ。この得体の知れない襲撃者はあまりにも強すぎる。さすがに四方を囲まれては苦しいようだが、劣勢に陥っているわけでもない。そんな使い手が、自分たちを皆殺しにしようとしている!

 羅錦威はその襲撃者の目を見た。襲撃者もまた一瞬、羅錦威を見た。羅錦威はその瞳に見覚えがある。あいつは――あいつは!

「――こっちだ」

 羅志武に腕を引かれ、思い出したように体が動く。足を踏み出してしまってから、羅錦威は今まさに弟子たちを見殺しにしたのだと悟った。あの黒装束が何者なのか知らないが、羅錦威自身でも勝てる自信はない。いわんや弟子をや。

(なんということだ、この俺が敵を前に背を向けるなど!)

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