第三十六節 滅び逝く肉体
激痛の走る胸を押さえながら、叙修は何とかようやく立ち上がった。三重塔の炎は既に二階まで飲み込んで、天に向かう火柱となっている。
「馬弟……閔妹……」
よろよろとふらつく足に鞭打って、叙修は折り重なって倒れ伏した二人の元へと歩み寄った。その首筋に手を当てて、一縷の望みすら絶たれたことを知った。やはり、二人は既にこと切れている。
「みんな、俺が悪いんだ。俺が、俺が悪党の道に堕ちなければ……」
権力者である身内の援助を受けて腕利きの武術家に武芸を学んだ。天賦の才に恵まれて腕を上げた叙修は、しかし正道を踏み外してしまった。人に勝る武力を得て得意になり、師の再三の叱責を馬耳東風にするばかりか自ら師弟の縁を切ってしまった。もしもあの時、師の訓告を聞き入れていたならば、この二人にこんな最期を迎えさせることはなかっただろうに。
(こいつらは頭は悪いが、愉快な奴らだった。ただの子分なんかじゃねぇ、本当の兄弟のように思っていたんだ。それがどうだ! 俺が愚かなばっかりに死なせてしまった!)
「――!」
慟哭の声を上げようとした叙修の耳に、爆ぜる炎の音に紛れて確かに誰かの気合い声が届いた。きょろきょろと周囲を見回してみるが、人の姿は見当たらない。
(そうだ。斐剛、それに小僧はどうなった……?)
耳を澄ませてみれば、かすかにだが塔の上から誰かの声が聞こえてくる。この状況下において、斐剛と不空の二人以外にその声の主は考えられない。二人はこの燃え盛る塔の中に駆け込んで行った。それがまだ、戦いを続けていたのだ。
すぐ間近で、ギシギシと何かが傾ぐ音を聞いた。見れば、塔の四隅を支える一柱がぐらぐらと揺れている。炎に炙られて支えきれなくなっているのだ。もしもこれが倒れたなら、三重塔は一瞬にして瓦礫の山と化すだろう。巻き込まれればひとたまりもあるまい。
こうしてはいられない、すぐさま立ち去ろうと叙修は踵を返しかけた。ところが、その足がふと止まる。その視線は一度馬閔の亡骸に向けられ、崩れそうな柱に向けられ、そして最後に塔の頂上を見上げた。
ガラッ! 柱が遂に限界を迎えた。根元が崩れて一気に均衡が失われる。大きく斜めに傾く三重塔。
――遥か遠くから、聞こえないはずの声が聞こえた。誰かを必死に激励する声援を。
「おおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっ!」
叫び声と共に飛び出した叙修の掌が、崩れる柱を押し止める。その重量たるやどんな怪力の持ち主であろうと人間の支えられるものではない。だが、叙修はそれを受け止めた。柱が押し戻されることはないが、しかし倒れることもない。
「馬弟、閔妹――もしも俺を許してくれるならっ! 俺に前非を悔い改め、義に殉じる機会を与えてくれるならっ! 俺に力を貸してくれ! 俺は、俺は……ようやく目が覚めたんだ!」
己の体が既に死にかけていることを叙修は知っている。どんな名医や霊薬でもその死の運命からこの体を救うことはできないだろう。例えこの場から逃れて今を生きたとて、長くはもつまい。であれば今、命に換えてでもやるべきことがある。
(俺はとんでもない愚か者だ。馬弟閔妹との出会いを間違いだなんて考えてしまった。それは違う、断じて違う! 俺の人生は素晴らしい巡り合わせに満ちていた。師父に馬弟と閔妹に、梁姑娘、そしてあの金剛智とか言う坊主! どれも得難い良縁ばかりだった。だがこのままでは、俺はそれらを全部ふいにしただけになってしまう。それはできない、断じてできない! このまま終わってたまるか!)
壊れたはずの筋骨に力が漲り、引き裂けたはずの経絡に勁が迸る。ああ、と叙修は感嘆の声を漏らし、涙を流した。それで一切の雑念は消えた。
「小僧め、戦え! 全てお前に預けたぞ。絶対に勝つんだ! それまでこの柱は俺が命を懸けて支えてやる!」
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