第十二節 真夜中の追跡
物音を聞いて、不空はまどろみの中から目を覚ました。
大明寺の修行僧十数名は皆一つの寝室で寝るが、弟子入りしていない不空は少し離れた別室に一人で寝起きしていた。
体を起こすと、そこには衣服を着替える李白の姿があった。ここ数日の間、昏睡していた李白を不空は自室に寝かせていた。明日、金剛智が庵を出たらそちらに移るという話だったが、今夜まではここで寝泊まりしてもらうことになっていたのだ。
「おい、何をしているんだ? どこか行くつもりなのか?」
瞼を擦りながら問うと、李白はふふんと笑った。
「のんきな小童じゃ。こんな夜に何もせずにグースカ寝るとは、人生棒に振って投げ飛ばしてしまうぞ」
何を言っているんだこの男は。不空は真面目に受け取るのが莫迦莫迦しくなってまた横になろうとしたが、ふと考えを改めた。
(こいつを放っておいたら何をしでかすかわからないぞ。昼には蔵書閣の蔵書を我が物にするとか言っていたんだ。盗みを働かれでもしたら大変だ)
「それじゃあお前はどこへ行くんだ? 僕もついて行く」
「はぁぁ? 案内役なんぞ要らんわい。……いや、念のためあっても良いな。よし、さっさと支度せよ」
一体何の目的があってこんな時間に出るのだろうか? そんな疑問を抱きながら着替えると、李白に連れられ裏門へと回り、その閂を外して外へ出る。大明寺は周辺を広い畑に囲まれている。大明寺が自給自足するために不空や修行僧たちで面倒を看ているものだ。その間を歩きながら、不空は李白に問うた。
「どこへ行くんだ?」
「黙ってついて来い。……おっと、隠れろ!」
李白に言われて咄嗟に近くにあった木の陰に隠れる。見れば、少し先を一つの人影が歩いているのが見えた。今宵は月が出ているため暗くはないが、さすがに距離があって詳細は分からない。
「まさか、盗人か?」
「黙っておれ。ほら、後を
人影が山中へと姿を消すのを見て、李白は隠れていた物陰から飛び出して先を行く。不空も慌ててそれに続いた。少なくとも山に向かったところを見ると盗人ではないようだが、しかしそれではあれは何者だろうか?
道は段々と傾斜がきつくなる。木々の量も増えて月の光が遮られ、視界はみるみる暗くなる。一体どれほど歩いただろうか。息を切らせながら森を抜けると、突然目の前に現れたのは断崖絶壁だった。
「うわっ!」
危うく足を滑らせそうになって、不空は咄嗟に地面に伏せた。下を覗き込めば崩れた岩壁が見える。それでようやく、今自分が封月峰の頂にいる事を知った。
「こんなところへ続く道があったのか……」
「おうこら、芋虫か何かの物真似か? そんなのは後にして、ほら先に行くぞ」
ムカつく李白の言葉に苛立ちを覚えながら後に続く。しかし右膝に走った痛みで思わずその足を止めた。見てみれば盛大に擦り剥いて血が滲んでいた。
(畜生、なんだってこんな目に)
正直、李白は放っておいて引き返そうかとさえ思った。しかしながら、あの正体不明の人影の正体も気になる。一瞬迷って、やはり李白に続くことにした。
更にしばらく行くと、ふと耳に聞こえてくる音がある。水の音だ。おそらくは滝が近いのだろう。そう言えば先ほどからやたら湿り気がする上に、視界も心なしか霞んでいる。
「何じゃあ、この霧は! なぁんにも見えぬではないか。しかしこれしきの事でこのわしを止められると思うでないぞキエェェイ!」
奇声を発する李白が、その次の瞬間姿を消した。ぎょっとして追いついてみれば、李白は段差から滑り落ちて、すぐ下の岩場に寝転がっていた。腰でも強打したのか、ぐうの音も出ない様子である。
「うぐぅ、まさかこんな罠があろうとは」
違うから。お前が勝手に滑落しただけだから。
「大丈夫か?」
「小僧に心配されるほどやわではないわ。……なるほど、この川が霧の出所のようじゃな」
不空も岩場に降りてみれば、なるほどそこにあったのは清流の流れる小川だった。その水面は星の光を受けて水鏡のように輝いている。
「これは幸いじゃ、まずは一休みとするかな」
言いながら李白は両手ですくった水を頭から被り、次いで口元に運んでがぶがぶと飲み始めた。不空も気づけば汗だくである。隣に並んで顔を洗い、同じく水を口に運んだ。山頂で冷えたのだろう、凄まじく旨い。
「しっかし本当に酷い霧じゃ。あれの姿もすっかり見失ってしもうたわい。しかしここで諦めるには惜しいのぅ」
「……お前、あれが何者か知っているのか?」
ごろんと寝転がる李白に聞いてみる。思えば李白は最初から何かの理由があって起き出していた。であれば、あの人影が何者なのか知っているのでは?
「あ? お前はそんなこともわからぬのかこのノータリンが」
――この河原って手ごろな岩が多いよな。
「おっと、そんな殺気走った目をするでない。ああもちろん、わしはあれが何者か知っておる。むしろ、あれが金剛智以外の何かであるわけが無かろうに」
「金剛智様だって?」
不空が驚くのへ、李白はニヤリと口元に笑みを浮かべた。
「それではお主に聞くが、あの金剛智とか言う僧侶は何者じゃ?」
「何者かって……」
答えようとして不空は言葉に詰まる。そう言えば、西域からの旅人であるということ以外、金剛智について知っていることは何もないのだった。
ふふん、李白が笑う。
「わしもあれに会ったのは今日が初めてじゃが、おおよその察しはつくぞ。あれは僧侶ではなく、武芸者じゃ。それもかなり腕の立つ一級の使い手じゃな。聞けば旅の病を癒すために大明寺に逗留したそうじゃが、ふふ、そんなのは嘘っぱちじゃよ」
「嘘?」
そうじゃ、と李白は起き上って足を一歩踏み出す。ばしゃ、川面に波紋が広がった。
「言ったじゃろう、大明寺は紅袍賢人が傷を癒すために逗留し、そして己が武芸の神髄を書にしたためた場所。武芸者ならば誰もが望む逸品が眠っておるのじゃ。武芸者たる大師がそれを求めぬ道理はなかろうて」
「では、大師様はその紅袍賢人の武芸書とやらを求めて大明寺に? いや、でもそんなものは寺のどこにも……」
「当ったり前じゃ。誰でも見つけられるような場所にそんな至宝を置くものか。じゃからわしはこんな夜中になって庵を抜け出した大師の後を追ってここまで来たんじゃ。あれが明朝に寺を去るとは実に好都合。まさか紅袍賢人の武芸書を手元には置いておらぬじゃろうからな。必ず持ち出すために今夜動くと踏んでおったが、案の定じゃったわい。――しかしそこでこの霧じゃ。畜生、何も見えぬではないか、誰か何とかせぃ!」
言うや否や、バシャバシャと飛び跳ねて水を撒き散らす李白。まるで子供が駄々を捏ねるようだ。しかしながら、天もこの光景に辟易したのだろうか、その時一陣の風が吹いた。眼前を帳のように覆い隠していた霧はそれで吹き払われた。そうして目の前に現れたのは、滝。特別見上げるほど大きいわけではないが、その滝壺で散った水滴がそのまま宙を漂う霞となる。なるほど、霧の発生源は他ならぬここだったのだ。
「うひょ~! 天はわしに味方しておるようじゃぞ。これは是非とも武芸書を手に入れねばなるま」
――バシャッ!
突然の水音に二人揃って川下へ視線を向ける。そうして同時にほっと息を吐いた。そこにいたのは一頭の鹿だ。その体毛は月光を受けて艶やかである。鹿はこちらに気づいた様子もなく、頭を垂れて水を飲み始める。
「なんじゃい、鹿か。脅かすでないわ」
李白が唇を尖らせて言った、その瞬間である。鹿の背後の茂みから何かが飛び出した。同時に三つ、それが全くの無防備であった鹿の首筋に喰らいついた。
「――っ!」
水飛沫が舞う。どうと川面に押し倒された鹿は必死にもがこうとするが、その足にも獰猛な牙が突き立ち動きを封じる。鹿に襲いかかったのは灰色の狼である。さらに何頭かが草むらから飛び出し、がぶりと喰いつく度に血飛沫が舞う。それは瞬く間に鹿の体毛を染め上げ、水面を赤く汚していく。そしてふと、その中の一頭が首を持ち上げ、すんと鼻を動かした。
不空は自身の血潮が一斉に引いていく音を聞いた気がした。自分は山道を歩いてきて足に無数の傷を負っている。それだけではない。先程は封月峰で足を滑らせ、右膝を擦りむいた……。
狼の視線が、不空らを捉えた。
「に、逃げよっ! 早く!」
李白の一声で全てが一斉に動き出した。二人は狼と逆方向、すなわち滝に向かって駆け出した。左右に分かれ、切り立った岩壁に足をかける。すぐ後ろに狼どもの呼吸音が迫る。
「逃ぃぃぃぃぃぃげるんじゃ。逃げるんじゃ! さもなければきっと喉笛を食いちぎられて、目蓋ごと目ん玉噛み潰されて、
余計に不安を煽るような言葉を吐くんじゃない! 不空はそう叫んでやりたかったが、そんな余裕は一欠片も存在しようはずがなかった。なにせ今からこの岩壁を登って行かねばならぬのだ。さもなければ、死だ。
「ひぃぃぃぃぃぃぃっ、お助け、お助けぇぇぇっ!」
恐慌状態に陥った李白は悲鳴を上げつつ軽功を駆使して先を行く。――両手両足をがさがさと動かしてよじ登る様は、どう見ても黒光りする甲虫だ。しかし何はともあれ、李白は何とか岩壁を登り切った。
「いやはや、災難じゃ。誰じゃい、こんな危険な目に遭おうとした奴は」
お前が言うな、と不空は言いたかったが我慢した。今はそれどころではない。軽功など使えないこちらはまだ半分しか登り切っていないのだ。
見下ろせば十数頭の狼どもが逃げた獲物を睨め上げている。塗れた岩肌には苔が生え、一瞬でも気を抜けば即座に滑り落ちそうである。しかしすでに狼どもには飛び上がっても届かぬ距離だった。間一髪、しかし安心するにはまだ早い。彼奴らが簡単に諦めてこの場を去るとも思えないし、それまでここで粘るには体力が保つまい。この岩壁を、登り切る必要がある。
――思った矢先、手が滑った。
「うわっ!」
ずるりと体が滑り落ちる。あっと思ったときには左足首に狼の
「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「ガキんちょ! 落ち着け!」
無茶を言う。このままでは引きずり落とされて喰い殺されるという死の瀬戸際で、どうして平静でいられよう?
「このっ!」
不空は喰らいつかれた左足を引き寄せるや、岩壁にそのまま叩きつけた。グシャ、何かの砕けた感触が足首から伝わる。血にまみれた灰色の瞳と視線が合った。そしてもう一度。
ズルリと牙が抜ける。そのまま力なく落下して、岩場に叩きつけられたその狼の頭蓋からは脳漿が飛び散った。
「た、助かっ……」
「まだじゃ! 早く登れ、迂回してくるぞ!」
確かに、狼どもの何頭かが草むらに飛び込み、闇の中を駆ける音が聞こえる。不空は小さく「ひぃっ」と悲鳴を上げ、決死の思いで岩壁を登り切った。
「冗談じゃない、冗談じゃないぞ!」
自分はただ李白の後を追って来ただけなのに、なぜこんな目に遭わなければならないのか。足に怪我を負い、死の危険に追われ、息を切らせて逃げ回るとは。
喰らいつかれた足の痛みなど何するものぞ。不空は何度も「冗談じゃない」を繰り返し、李白に続いて暗い暗い竹林へと駆け込んだ。
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