第十節 僧の役目

 不空が黙り込んでいると、ふと低い笑い声が響いた。その声は決して大きくないにもかかわらず、不空ら僧侶の体を打ち据えるようで、数人が思わずその場でよろめいた。

 声の主、叙修は山門から背を放すと、手酌で酒を盃に注ぎながら歩み寄る。

「謝罪したところで俺は許しはしないぞ、坊主ども。上下の前歯二本を折られて、むざむざ引き下がる俺たちではない。だから何日もかけてここに辿り着いたのだ。どうせ搾れるだけ搾り取ってやるのだから、もう少し抵抗してみてはどうだ? お前たちも武芸はやるのだろう?」

「武芸を見たければ嵩山少林寺にでも赴くが良い。俺たち大明寺の僧は武芸を修練しない」

 空天は言いながら、しかしその杖を持つ手は震えている。無理もないことだ。叙修が先ほど放った笑声には深い内力が込められており、素人でもその武芸の深さが伺えるのだ。間違っても手を交えれば決して無事では済まされないだろう。

 叙修はその口元に笑みを浮かべた。実に他人を蔑んだ、歪んだ笑みだ。

「つまらねーことを言うんじゃねぇや。俺たちはさ、ただの暇つぶしに来てんだからよ。そっちにその気があろうが無かろうが関係ねぇ。勝手にやらせてもらうだけだ」

 次の瞬間、閔敏と馬参史が動いた。三節棍を振り上げた閔敏は跳躍して空虚へ、双鉤剣を抜いた馬参史は空天に向かう。二人は慌てて杖を掲げてこれを遮ろうとするが、武芸を知らない者が知る者に敵うはずがない。空虚は背を打たれて喀血し、空天も杖を弾き飛ばされて腕を切り裂かれる。二人ともわずか一瞬の出来事に自分が何をされたのかもわからずその場に倒れた。残る僧侶たちはその光景に恐れ慄き、ざっと交代する。不空だけが動かず、相対的に一歩前に出た形になった。その前に叙修が立つ。

「お前には手は出さねぇぜ? 自分がやったこと、思い知ってもらわなけりゃならねぇからな」

「……この、外道めッ!」

 不空はつま先だけで跳躍すると、叙修の顔面に掴みかかろうと手を伸ばす。しかし叙修は酒杯と瓢を投げ捨てその手を無造作に掴み取ると、不空の飛びかかって来た勢いそのままに後方へと投げ飛ばした。不空は受け身も取れずに地面に叩きつけられる。キャッキャと騒ぐ閔敏の声が聞こえた。

「凄い凄い! やっぱり兄貴は強――」

 閔敏の言葉が途切れる。何事か? 全身を強打した痛みを堪えながら顔を上げると、意外な人物が視界に入った。および腰となっていた僧侶たちのすぐ後ろ、いつの間に現れたのだろうか、金剛智が立っている。

「おおっと、お偉いさんの登場みたいだな。言っておくが、お説教は不要だぜ」

 馬参史が鉤剣の先を突きつける。しかし金剛智はそれを全く気にした様子もなく、叙修らを見、そして地面に倒れ伏す僧たちを見た。

「おいこら、無視すんじゃねぇよ」

 馬参史の鉤剣が肩に掛けられる。その瞬間、金剛智の左袖がざっと翻る。キィンッ! 凄まじい音を発して剣が折れて飛んだ。馬参史はしばらくの間何が起こったのか理解できなかったようだ。手元に残った柄だけを見て、三秒かけてようやくその場を飛び退いた。

「何ぃっ!? 貴様、何者――」

「武芸をご所望ならば、よかろう。貧道が一手ご教示仕る」

 僧たちの背後から一歩踏み出し前に出る。馬参史は慌てて左手の鉤剣を斜めに斬り降ろした。しかし間合いが遠い。銀光が空を切った次の瞬間、金剛智の足が素早く動く。蹴りつけられた鉤剣はあっさりと馬参史の手を離れてはるか後方へと飛び去った。

「く――っ!」

「お坊さん、あたしとも遊んでよっ!」

 馬参史の形勢不利を見て取ったのか、あるいはただ己の楽しみのためか。横合いから閔敏が割り入る。三節棍の両節を左右に持ち、小棍のようにして挟み打つ。金剛智はばさりと両袖を打ち揮うと、打ち掛かった閔敏の両手を瞬く間に絡め取る。あっと叫んで閔敏が力を入れてもびくともしない。金剛智が足を蹴り上げると、三節棍を繋ぐ鎖が引き千切れ、中節部分と共に閔敏の体は真後ろに吹き飛んだ。その先にいた叙修はぎょっとすると身を捻ってこれを避け、閔敏は背中から地面に激突した。

「うえぇぇぇん! 痛い、痛いよ兄貴ぃ! あのクソ坊主があたしを苛めるよぉ。ぶっ殺してよ兄貴ぃぃぃっ!」

 地団太を踏んで子供のように泣き叫ぶ閔敏を横目で一瞥し、叙修は金剛智に視線を向けた。その顔には不敵な笑みを浮かべているが、少しばかりの緊張が見て取れた。

「……この寺は武芸をやらないはずじゃなかったのか? えぇ?」

「貧道はこの寺の者ではない。ただしばらくの宿を借りているだけの身の上。今日は所用があって参ったのだが、まさか斯様な悪党どもに出くわそうとはな」

「だったらよぉ~、何でこいつらに加勢するんだ? テメェにはカンケーねぇことだろうが」

 カラン。金剛智の手から分断された三節棍の二節が落ちる。金剛智は右手を胸の前に掲げて念仏を唱える姿勢を取った。

「大明寺には療養のための衣食住を提供してもらった恩義がある。それを返すためとあればこれぐらいのことは造作もない。――それに、悪鬼非道の輩を現世から解き放ち、極楽浄土へと送るのも僧の役目でな。今の二人は手加減したが、お主はそうも行かぬようじゃ」

「言ったな!」

 金剛智が言い終わるや否や、叙修が距離を詰める。一足で大きく距離を詰め、二歩目で強く震脚。同時に放たれた右拳は強烈な拳風を纏っている。まともに受ければ岩すら砕きかねない勢いだ。

 金剛智はその場から動かない。ただそっと右掌を突き出すと、叙修の拳をさらりと受け流す。突き抜けた内力はそのままその先にあった石灯籠に直撃し、これを破壊した。直接触れてもいないのに石灯籠が砕けたことに僧侶たちは騒然となった。あの叙修という男、ただの不良者ではない。そしてそれを受け流した金剛智もまた、只者ではない。

「お見事!」

「うるせぇ!」

 金剛智の言葉が余計に癪に障ったのか、叙修は腰だめにしていた左拳を金剛智の下腹へ向ける。しかし金剛智はまたもその場から動かず、左手をくるりと回転、叙修の攻撃を払い除ける。

 叙修の肘打ち、金剛智はこれを払い除ける。手刀の振り降ろし、交差した手で受け止める。喉元への突き、打ち落とされて両手とも腹に押さえつけられ封じられる。ならばと蹴りを放とうとすると、先んじて動いた金剛智の足に踏みつけられて動けない。叙修は両手と足を封じられ、一切の身動きが取れなくなった。

「ぐっ……!」

 ここで初めて金剛智が踏み出した。叙修の手を押さえていた両手をほんの少し動かすと、その両掌で叙修の胸を打つ。バシィッ! 凄まじい打撃音の後、叙修の体は十歩ほどの距離を滑って後退する。叙修の噛み締めた歯に血が滲む。

「テメェ、やるじゃねぇか!」

 叙修の体が舞う。軽功だ。瞬く間に僧侶たちの間に割って入ると、素早く杖を奪い取って突き飛ばす。当て身を喰らった僧侶たちはバタバタと屏風倒しになった。その間に突き飛ばした反動を利用して叙修は再度跳躍、杖を振り上げ大上段から金剛智に襲い掛かる。

「馬弟! 閔妹!」

 一喝。すると馬参史と閔敏はまるで示し合わせていたかのように素早く動く。二人とも金剛智から数歩離れた距離だが、手近に転がっていた僧たちの杖を拾い上げるなり金剛智へと投擲する。馬参史は足へ、閔敏は腹へ。叙修も含めて、上中下段の全てを別方向から同時に攻める。

「卑怯者め!」

 不空は思わず叫んだが、金剛智は少しも動じることなく足を振り上げた。まず馬参史が投げた杖が蹴り飛ばされる。次に両手を交差させた状態で真上に振り上げる。腹部を狙った閔敏の杖を弾き飛ばし、そのまま叙修が振り下ろした一撃をも払い除けた。

「何っ!?」

 攻撃を薙ぎ払われ、叙修は空中で自らの正面を無防備に金剛智へ晒す。金剛智が使った何らかの技は己の身を防ぎつつ相手の防御を払うものであったのだ。そのまま金剛智は両掌を脇下に構えると、小さく一歩踏み込んで同時に放った。ドンッ! 叙修の体が吹き飛ぶ。それはまるで糸に引かれた人形のようである。そのままどさりと何の受け身も取れずに地面へ叩きつけられた。

「兄貴!」

 馬参史と閔敏が慌てて駆け寄り、その身を抱き起した。叙修は視線が定まらず意識朦朧、口の端からは内傷を負ったのか一筋の血が流れ出ている。

 わっと歓声が上がった。声を上げたのは僧侶たちだ。目の前で悪党どもが完膚なきまでに叩き伸されたのだ。歓喜の声を上げずにいられようか。

「大師様、凄い!」

「悪党ども、思い知ったか」

「今度はお前たちが痛い目に遭う番だぞ!」

 武器と首領を失った馬参史と閔敏は目に見えて狼狽していた。ここは武芸を知らない坊主どもしかいない山寺、難癖をつけて押し入れば好き放題やりたい放題だと思っていたのに。それが一体全体、どうしたことだ?

「馬兄、どうすんのさ。どうすんのさ? あたしたちどうなっちゃうのさ!?」

「うるせぇ閔敏! くそっ、さすがの俺にもこんな展開は予想できなかったぜ……っ!」

 二人はぐったりとした叙修の体を引きずってその場を逃れようとする。しかしほんの少し前まで乱暴狼藉を働いた者たちをやすやすと逃がすはずがない。それまで取り巻いていただけだった僧たちはもちろんの事、地面にうずくまっていた者たちも血気を取り戻して彼らを取り囲む。そのいずれもが目に攻撃的な色を宿しており、馬閔二人は息を呑んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る