Chapter01 邂逅 03

 距離、約十メートル。

 影絵に沈んだ廊下の真ん中で、辰巳たつみとフェンリルは相対する。かたや使命のために、かたや夢のために。

 そんな二人の後方、成り行きで立会人をしている風葉かざはには、ひたすら固唾を飲む事しか出来なかった。

 二人は、動かない。無表情に絡み合う視線と殺気だけが、緩やかに相手の隙を探り続けている。

 そうして、どれくらいの時間が経過しただろうか。数十秒か、それとも数十分か。

 どちらにせよ、唐突に開いた二年二組の扉が、二人の均衡を破った。

 薄墨色をした幻燈結界げんとうけっかいの向こう、やはり聞こえない喧騒を響かせながら、がやがやと教室から出て来る二組の生徒達。一限目の授業が終わったのだ。

 購買部、トイレ、隣の教室。思い思いの目的地を目指して、クラスメイト達は蜘蛛の子を散らすように歩いていく。

 ごく当たり前な、いつもの日常風景。

 だが影絵を隔てた二人にとって、それはランダムで移動する壁が現れたのと同義だ。

 故に、二人はほぼ同時に動いた。

「いきますよォォッ!!」

 先んじたのはフェンリルだ。即席の盾を有効活用するため、直立する獣は全力疾走を開始する。

 ほとんど這いつくばるような前傾姿勢になりながら、爆発的な加速で辰巳へと肉薄するフェンリル。周囲を歩く壁共を避け、あるいはすり抜けてジグザグに撹乱する軌道は、さながら稲妻だ。

 慣性の法則を力づくで捻じ伏せる異形の脚力は、瞬き一つする間に辰巳との距離をゼロにする。

「オォォッ!」

 振るわれるフェンリルの右腕。直線に伸ばされた長大な五指の爪は、それだけで鋭く巨大な一振りの刃だ。人間の胴体など簡単に両断してしまいかねないその剛刀を、フェンリルは通りかかった眼鏡の男子生徒越しに薙ぎ払う。

 剛刀は当然男子生徒に傷ひとつつけること無くすり抜け、一直線に辰巳の胴体目がけて襲いかかる。

 幻燈結界の外という不干渉の壁で刃を隠し、間合いの目算を狂わせようという算段だ。

「ッ!」

 だが、そんな小技では辰巳に届かない。

 刃がヘッドギアに触れる数瞬前、鋭く突き出された辰巳の掌底が、フェンリルの斬撃を打ち逸らしたのだ。

「チ、ィッ!」

 絶妙なタイミングで攻撃を払われたフェンリルは、しかし返す刀で左の爪刃を突き出す。

 が、これも手首をしたたかに打ち据えられ、辰巳の頭上を空振りする。

 両腕を明後日の方向に弾かれ、無防備になるフェンリル。

 それはほんの一瞬の出来事。だが近接戦闘中にそんな隙を生じさせるのは、致命傷以外の何物でもない。

 かくして辰巳は、固く握った拳を、振るわない。

 ただ油断なく空手に似た構えを取りながら、辰巳は何もせずフェンリルを見ている。

 表情は黒いフェイスシールドに隠され、窺い知ることは出来ない。だがそのシールド上の、右目の辺り。

 相変わらず輝いている赤い光が、フェンリルの真芯を貫いた。

「ア、アァァァッ!!」

 時間にすれば僅か数秒。だがフェンリルはその僅かな遅れを取り戻すべく、今まで以上の速度で爪刃を振るい始めた。

 刺突、袈裟斬り、薙ぎ払い。

 逆袈裟、両手突き、唐竹割り。

 軋み始める筋肉の悲鳴を無視し、乱れ飛ぶ斬撃、斬撃、斬撃の嵐。

 だが、辰巳はその全てを打ち払い、あるいは身を反らして回避する。

 反撃は、やはり一切しない。ただ赤い眼光が、じっとフェンリルを見据え続けているのみだ。

「ヌウ、ゥッ!」

 いたずらに空気を撹拌しながら、フェンリルの思考は走る。

 なぜ、辰巳は反撃しないのか。

 決まっている。霊力の制御要員兼、人質である鹿島田 かしまだ いずみを、フェンリルが体内に篭絡しているからだ。それを助けると言い切った以上、手を出してこないのは当然の選択とも言える。下手に打撃をみまえば、泉を傷つけてしまいかねないのだから。

 事実、フェンリルはそのアドバンテージを狙って攻撃をしかけたのだ。この先の計画を、あわよくば短縮するために。

 そう、あわよくば、だ。

 勝とうが負けようが、次に打つ手は既に用意してある。この戦いは、小手調べと時間稼ぎ以外の意味を持たない。

 だが、だとしても。

 フェンリルは、歯噛みする自分を抑えきれない。

「いやはや、驚かせてくれます、ねェッ!」

 そう。ここまで技量の開きがあるとは、流石のフェンリルも予想外だったのだ。

 例えば、先ほどから空振り続けている爪刃。

 未だにかする気配すら見せない連撃ではあるが、フェンリルはそれらを一撃たりとも闇雲に振るった覚えはない。

 魔術の多重操作を可能とする優秀な頭脳と、人間の範疇を大きく上回る魔獣の膂力。その二つに裏打ちされた爪刃で、今もフェンリルはあらゆる攻撃を矢継ぎ早に繰り出しているはずなのだ。

 正面からの斬撃、返す刀での逆袈裟、フェイントを織り交ぜた刺突、全身全霊を込めた唐竹割り、等々。

 どれか一撃でも当たれば即死は免れない、しかも秒単位で間断なく繰り出されている爪刃の嵐。それを、辰巳は全て打ち払い、あるいは最小限の身のこなしで回避し続けている。

 まさしく神技だ。そうと言う他に言葉がない。

 そんな神技を振るう相手が、何もせず、ただ赤い瞳でこちらを見つめ続けている――。

 不意に、フェンリルは背中を氷柱で突き抜かれたような錯覚を受けた。

 ああ、勝てない。

 四十数年前、二度目に死んだあの時の絶望が、フェンリルの脳裏へ鮮やかに蘇る。

 大いなる冬。地獄の赤に染まる空。終末を告げる笛の音。

 どうあがいても勝てない戦力差。どうもがいても覆せない状況。それでも戦い続けた彼は、結局何も出来ぬまま死んだのだ。

 そして最初に名乗った通りのスペクターと成り果て、気付いた時には全てを失っていた。

 だから。だからこそ。

「それを、取り戻すんですよォッ!!」

 崩れかけた戦意を決意で補強し、フェンリルは左右の爪刃を連続で振るう。

 右、左。今まで以上の速度で強襲する刃を、辰巳はやはり打ち払って回避。余波が生み出す空気の断層にプロテクターを削られながら、辰巳は不意に左手首を口元に寄せる。

「アンタの事情は知らんが、それはこっちのセリフだ」

 黒く塗り込められたフェイスシールドの向こうから、淡々と呟く辰巳の声。フェンリルの連撃が途切れる隙を狙っていた赤い瞳が、今こそ反撃の言葉を告げる。

「セット。モード、インペイル」

『Roger Impale Buster Ready』

 システムの起動を告げる電子音声。全身の青いラインが脈動するように光を放ち、辰巳の左掌へとにわかに集中。更に左肩部の装甲がスライド展開し、放出される霊力の帯がマフラーのようにはためく。

 その光景に、フェンリルと風葉は息を呑む。

 さもあらん。今しがたリザードマン達を壊滅させたヴォルテック・バスターと、あまりにも似ているのだから。

 むしろ左肩の霊力マフラーから察するに、あれ以上の威力を秘めている可能性もある。

 ならば、その次に何が行われるのか。奇しくもほぼ同じ光景が、風葉とフェンリルの脳裏に走った。

「い、五辻くん!? ちょっと待ってよ! 泉が――」

 思わず声を荒げる風葉。それと同じタイミングで、フェンリルは最後の賭けに出る。

「オオオォッ!」

 左の刺突。もはや電光じみた勢いのそれを、辰巳はやはり打ち払って回避。

 だがこれはまだフェイントだ。次なる右の斬撃が、袈裟懸けに辰巳を急襲する。

 が、やはりこれも当然のように打ち払われた。更にそれを行った左の手首から上は、今まさに凝集した青色が、螺旋を描きながら輝いている。

 どこか杭じみているそれを視界の端で捉えながら、フェンリルは小さく笑う。

 これでいい。威力はどうあれ、あの青はヴォルテック・バスターと同じ正拳突きの延長にある術式だ。

 だから例え爪刃が当たらなくても、構えを取らせなければ発動を遅らせるられる。

 リザードマンとの戦いを観察し、発動方法を知っていたからこそ出来る妨害だ。

 後は今まで温存していた第三の攻撃を、フェンリルは必殺の意志を込めて繰り出す。

シャャアァッ!」

 すなわち足技、回し蹴りだ。裂帛の気合と殺意を込めた爪先の刃が、辰巳の首元目がけて強襲する。

「――ッ!」

 暴風のような一撃を、辰巳は一歩下がって回避。胸元の際どい場所を爪刃が掠め、塗料の一部を削り取っていく。

 三撃目も空振りで終わったフェンリルは、軸足一本で立つ不安定な体勢を、晒さない。

 なんと蹴り足を振り終える間もなく、軸足で床を蹴り、跳んだのだ。

 そのまま空中で身体をひねり、腕と足と尻尾の遠心力を利用し、フェンリルは二撃目の蹴りを辰巳へと放つ。

 四撃目にして真の本命、異形の筋力に物を言わせた空中二段蹴りである。

「貰ったァ!」

 さしもの辰巳もこれは避わせず、十字に組んだ腕で防御の姿勢を取った。

 直撃直前、コンマ一秒。この瞬間に、フェンリルは勝利を確信する。一応義手側を上にしているものの、この一撃を受けて無事で済むはずがないからだ。

 かくして、フェンリルの強烈な蹴撃が、辰巳の義手へと叩きつけた。

 だが、この時。本当に勝利を狙うなら、フェンリルは気づいておくべきだったのだ。

 一歩引いた辰巳の右足首が、床下へとすり抜けていることを。

 ――知っての通り幻燈結界内部に取り込まれた者は、外部の物体に触れるかどうかを、自分の意志で決めることが出来る。

 そしてこの時、辰巳は階下の天井にある蛍光灯に、右足首を引っ掛けていたのだ。更にこの蛍光灯は、廊下に対して並行に取り付けられている。

 そんな状態で蛍光灯以外の全てをすり抜けつつ、真横から強烈な衝撃を受けたなら、一体どうなるか。

 答えは単純。十字に腕を組んだまま、辰巳は勢い良く、風車のように真横へと回転した。

「えぇっ!?」

「なァッ!?」

 同時に声を上げながら、辰巳が姿を消した床へと釘付けられる、風葉とフェンリルの視線。

 だが素人である風葉はともかく、今まで戦っていたフェンリルは、辰巳がどんな防御をとったのか一瞬で察知した。

 そして、察知しただけで終わった。

 蹴りの反動と、マフラーから噴出する霊力を遠心力に変え、逆側の床から現れる辰巳。

 その左拳は、青色の光を弓のように引き絞っており。

 右足で床を踏みしめると同時に、完璧なタイミングで放たれる。

 対するフェンリルは、無理矢理な空中二段蹴りを放った直後。構えはなく、着地体勢も崩れている。

 何も、出来ない。

 だから、轟、と。

 胸元へ突き刺さった青い拳が、フェンリルのみならず周囲の空気をも揺るがせたのは、むしろ当然の成り行きであった。

「ゴ、ボ、ッ!?」

 辰巳の膂力のみならず、自身が放った空中二段蹴りの勢いをも返され、苦悶に表情を歪めるフェンリル。

 そうして叩きこまれた辰巳の拳を起点にし、青色の線が疾走を開始する。放射状にフェンリルの体表を刻んでいくその青は、先ほどまで左手首を包んでいた螺旋と同じ色だ。

 青色の網は、瞬く間にフェンリルの全身を絡め取る。呆然と佇む風葉と、内部に取り込まれたフェンリルの真意を置き去りにして。

 そして、辰巳は叫ぶ。

「インペイルッ! バスターッ!」

 その名の通りに刺し貫く青い閃光が、網目にそってフェンリルを内側から爆砕させた。

 走る閃光、一拍遅れて響き渡る爆音。

 辰巳の一撃によって砕かれ、形を失ったフェンリルの霊力が、光の粒子となって辺りを埋め尽くす。

 さながら淡雪のように、儚く消えて行く光。

 フェンリルだった光。

 鹿島田泉を、内包していた光。

「いず、み」

 秒単位で揮発していく輝きが、風葉の脳裏に泉の記憶をフラッシュバックさせる。

 騒がしくも楽しかった隣人、高校に入学して最初に出来た友達。その思い出を。

「そ、んな」

 膝に力が入らない。ガクリと崩折れる風葉の目尻に、じわりと大粒の涙が滲む。

「助けるって、言ったのに……!」

「ああ、助けたぞ?」

「……ふぇ?」

 顔を上げる風葉。

 気付けば粒子はすっかり晴れており、フェンリルは影も形も見当たらず、結界の向こうのクラスメイト達すら居ない。

 残るのは真正面で立ち尽くす辰巳と――その両腕に掻き抱かれながら、静かに眠っている泉の姿だった。

「い、泉!? 無事だったんだ!?」

 弾かれたように駆け寄る風葉。喜び、驚き、困惑。感情をまざまざと表情に浮かべる風葉と対照的に、辰巳は無表情なフェイスシールドのままだ。

「気絶してるだけさ。命に別条はない」

 言いつつ、辰巳はそっと泉を床へ寝かせた。風葉はその脇へ即座にしゃがみこむ。

 怪我のたぐいは一切ない。髪が乱れ、肌が汗ばみ、胸元のジッパーがやや下がっているが、それくらいだ。胸も規則正しく上下している。間違いなく生きているのだ。

 心底安堵しながらも、風葉は質問する。

「で、でも、どうして?」

「そりゃあ、調べたからな。コイツで、泉さんとやらの場所を」

 おもむろに自身の右目辺り、今も輝く赤い光点を指差す辰巳。

「このフェイスシールドには色々と機能があってな。霊力の動きを解析するセンサーも、その一つだ」

「そう、だったんだ……あ、だから、防御ばっかりしてたの?」

「そゆこと」

 後はセンサーの解析データを頼りに、内部に取り込まれた人質を傷つけぬよう、収束と屈折を施された大技、インペイル・バスターを見舞ったというわけだ。

「ともかく、これで一段落だな」

 そう言って、辰巳はようやくフェイスシールドを解除する。現れたのはやはり仏頂面だったが、心持ち安堵しているような雰囲気があった。

 その事実に、風葉は改めて微笑んだ。

 なんだ、心配なんていらなかったんだ、と。

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