Chapter10 暴走 08

 白と、黒と、灰色。

 それが今、風葉かざはの視界に映る色彩の全てであった。

 白は雪だ。上空からしんしんと降り続く結晶は、今でさえ足首まで積もっている白色を、更に厚く塗り重ねていく。

 黒は森だ。降り続く雪の帳の向こう、悠然と連なる巨大な木々は、槍のような枝を空に目がけて突き刺している。

 そして、灰色は空だ。木々の更に向こう、降りしきる雪の更なる彼方。時折身をよじるようにうごめく巨大な灰色は、しかし絶対に雲では無い。あの灰色は、もっとべつのなにかだ。

 理由は解らないが、とにかく風葉はそう直感していた。

 それに。

「よく、しっている、ような」

 目を細めながら、風葉は前髪を押さえた。風に踊るの髪を。

 そんな小さな訝りすら塗り潰そうと、風はいよいよ吹雪となって風葉を苛み始める。

「さむ、痛い」

 体をかき抱く風葉。その左肩後ろ、メガフレア・ライフルに撃ち抜かれた場所へ霊力光が灯っていたが、風葉はそれに気付かない。

 代わりに気付いたのは、自分の服装が日乃栄ひのえ高校指定の水着姿――鎧装展開前の恰好へ、戻ってしまっている事だった。

「な。え。なに、コレ」

 驚愕する風葉だが、語調にも、表情にも、いつものような勢いはない。それもこれも、全ては思考にフィルタをかけられているからなのだが――悲しいかな、今の風葉にそれを察知する事は出来ない。

「わかんない……わかんない、けど……」

 頭を振りながら、風葉はふらふらと歩き始める。訳も分からぬまま、吹雪の風上へ。遠くに見える、黒い森を目指して。

 さくり、さくり、さくり。ビーチサンダルなので辛うじて裸足ではないが、それでも伝わる積雪の冷気と、叩きつける吹雪の飛礫が、容赦なく風葉の全てを凍り付かせてゆく。

 思考が、水着が、前髪が。何もかもが、冷え切っていく。頭上の灰色が再び、今度は大きく身じろいだ事すら、気付けない程に。

「……ん」

 そうして、どれだけ足跡を刻んだろうか。不意に風葉の正面へ、一つの人影が現われた。

 全身をボロ布じみたローブで覆っている上、顔はフードの奥へ完全に隠れている。奇妙な、性別すら判然としない相手。だがそれでも風葉は声をかけた。吸い寄せられるように。

「あ。こ、こ」

 あのう、ここはどこなんですか。風葉自身はそう言おうとしたのだが、肝心の口は思った通りに動いてくれなかった。紫色に変色しかけている唇は、奥の歯ごとかちかちと震えるばかりであった。

「――」

 そんな風葉を見かねたのか、人影はまっすぐに指を伸ばす。

 真横へ、水平に伸ばされた右指の先を見やれば、そこには一件の小さな丸太小屋。避難所なのだろうか。

「あ、つ、使っても、」

 良いんでしょうか。そう、風葉が言いかけた矢先である。

 ぐるるるるおおおおおおおおおおん――。

 突然。遠雷のような咆吼が、どこからか響き渡った。

「、ん」

 身を竦め、足を止める風葉。だがその胸中へ去来したのは、恐れや驚きの類いではない。

 懐かしさと、焦りである。

「何か、忘れてる、ような」

 頭を押さえる風葉。だが考えはどうにも纏まらず、いよいよ強く叩きつけて来る雪と冷気が、なけなしの思考力を削り取っていく。

「だ、めだ。それに、さむい」

 理由もなく、左肩が疼く。撃ち抜かれた場所を中心に、蜘蛛の巣のような霊力光が風葉の全身を走り始める。

 だが風葉は気付かない。寒さから逃げるように、ふらふらと、丸太小屋へ歩いて行く。さながら吸い込まれるようなその足取りは、扉を開けた所で一旦止まると、小屋を指差したローブの人影へと振り返る。

「ありがとう、ございます」

 頭を下げる風葉。良いって事よ、とでも言いたげに手を振る人影。フードの奥に隠れているため、表情は相変わらず見えない。

 だが、風葉の目が確かなら。

 フードの奥にある表情は、確かに、嘲笑わらったように見えた。

「……ん、ん?」

 その真意を訝しみつつも、風葉は冷気から逃れるべく、勢いよく扉を閉める。

 直後。あれだけ激しかった降雪が、ぴたりと消えた。

「フゥー。多少だが、思ったよりは手間取ったか」

 一つ、大きく息をつくローブの人影。やや大げさに肩を回してストレッチした後、人影は悠々と灰色の空を見上げる。

「しかし意外だったな、アンタが邪魔してくるというのは。愛着でも湧いたのか? 自分の力を良いように振り回している小娘に?」

 ぐ、る、る、おおおおおおおおおおおおんんんん――。

 先程よりも大きな遠吠えが、積雪をびりびりと振わせる。更には灰色の空そのものが身じろぎし、難儀そうに開いた金色の双眸が、ぎょろりと地上を睨み付ける。

 懐かしい――空を見上げた風葉がそんな印象を受けたのも無理はない。上空に広がる灰色の正体は、風葉の意識から一時的に閉め出されたフェンリルだったのである。

 そんなフェンリルの敵意を一身に浴びる人影は、しかし臆した素振りすら無く肩をすくめる。

「ハハ。あるいは、獲物が横取りされるのが嫌だったか? タガが外れた手前、遅かれ早かれあの小娘はアンタフェンリルに飲まれていたろうからな。だが……」

 ローブの人影を中心として、にわかに術式陣が火を灯す。モノクロの中で輝く赤色は、一際毒々しい輝きを伴って線を延ばす。

 電子回路にも似た分岐を見せながら伸びゆく赤い線の群れは、四方八方から風葉の入った丸太小屋を包囲。瞬く間に包み込んでしまった。

「これで、あの小娘の意識は完全に此方の手に落ちた。従って貰うぞ、犬コロ。嫌でもな」

 ばしん、ばしん、ばしん。赤色の歪な雷鳴が、灰色の空を走り出す。それに抗うかのような狼の遠吠えがしばらく響いたが、程なくして聞こえなくなった。

「さて、これでお膳立ては整った。後はゼロツーが鍵の石を使いこなせるかどうか、だな」

 ぱん、ぱん、ぱん。昂ぶる胸の内のまま、人影は三つ手を叩く。その仕草は、かつてブラウンが見せたものと似ていた。

「通らば良し。通らなくとも、また良し。ああ、ああ、ああ。楽しみ、楽しみだ、楽しみだなあ――」

 人影は笑う。フードに隠れた顔は相変わらず見えないが、それでも亀裂のような赤い口だけは、歪な孤を描いていた。

 そして、その直後だ。灰色の空を、赤色の光が埋め尽くしたのは。

 フェンリルの制御が、ローブの人影に奪われてしまったのは。



 以上が、風葉がレックウごと射出された直後、霊泉領域れいせんりょういき内で起こった一部始終である。

 現実の時間に換算すれば、僅かに一秒。術式によって加速と拡大を施された思考能力は、かくも大がかりな檻を霊泉領域に造り上げたのである。

 とは言え、それは特別なやり方という訳でも無い。対象の霊泉領域を掌握し、術者の意のままに動かす――昔から確立しているやり方の一つだ。

 故に辰巳たつみも、一目でそのやり方だろうと見抜いていた。そして対処方法も、凪守の訓練で既に知っていた。

「霊力の流れを、止める」

 それは最も単純な、かつ的確な対処方法だ。以前辰巳は、このやり方で鹿島田かしまだ いずみを助けた。禍の核となっていた泉を、強制切除する事で救出したのだ。

 その時と同じ理屈を下敷きに、オウガは今、刃を振り抜いた。

 びょう。そんな風音が、遠く離れたグレンの耳にすら届くようだった。

「ハン、やりやがる」

 レイト・ライト社屋上。転移術式経由でやって来ていたグレンは、バイザーの望遠モード越しに見えた斬撃の完璧さに、思わず舌を巻いた。上空で繰り広げているアメン・シャドーの激戦が、聞こえなくなるくらいに。

「だが無駄だぜ、それじゃあよ、っと……」

 レツオウガへの狙撃を完遂した後、気絶するように眠ってしまったペネロペ。連戦によって疲労がピークに達したペネロペを、グレンは迎えに来ていたのだ。

「……ンだよ。恐っそろしく軽いなコイツ」

 グレイブメイカーともどもペネロペを抱え上げながら、グレンは眉をひそめる。

 そうして転移術式を潜っていったグレンとは対照的に、辰巳は目を見開いていた。

 刃と爪。大鎧装とまがつは各々の斬撃を交錯させた後、背中合わせに静止していた。

「馬、鹿な」

 絞り出すように呟く辰巳。斬撃は、確かに完璧だった。右刀で魔狼の前足を切断しつつ、左刀でレックウが格納された頭部も叩き落とす。そうして風葉とフェンリルを分断する、はずだった。

 だが今。オウガの構える二刀に、その刃は無い。根元の辺りから、ごっそりと消滅した――いや、違う。食われてしまったのだ。

「フェンリルファング、だってのか」

 打ちのめされる辰巳。だが身体に染みついたメイの叱責と戦闘技巧は、足を止める事を許さない。

「ち!」

 背中を走る悪寒を振り払うべく、辰巳は弾けるようにその場を跳び退く。

「GRROOOOOONNN!!」

 そのコンマ二秒後、オウガの居た場所を衝撃波が薙ぎ払った。ソニック・シャウトだ。

「GRROON! GRROON! GRROONッ!!」

「だが、何故だ……?」

 連続して放たれる咆吼を跳躍回避しながら、或いは柄だけとなったブレードを囮に投げつけながら、辰巳は思考を巡らす。

 ――フェンリルファング。オーディン・シャドーとの戦闘中、独自に命名した風葉フェンリルの固有術式。対象が何であれ、それが霊力で出来ているなら問答無用で捕食し、己の霊力としてしまう恐るべき術式。レツオウガもまたその術式で霊力不足を補い、稼働時間を延長した事があった。

 そして眼前のフェンリルはレツオウガ以上に風葉の独自性が色濃く、それ以上に霊力効率が極めて悪い。

 と、なれば。

「全身をフェンリルファングにする事で、霊力不足を補ってる訳か……!」

 幾度目かの着地を果たしたオウガのコクピットで、辰巳はまたもや訝しむ。

 眼前のフェンリルの霊力効率が悪いのは理解した。身体全体に霊力吸収能力を備えたのは、むしろ妥当な事だと言えよう。

 だが。本来のフェンリルファングとは、影を用いる術式ではなかったか。

「――」

 悪寒が走る。頬を伝う汗の代わりに、砕けた右手から血が一滴、ぽたりと落ちる。それに吸い寄せられるかの如く、辰巳は下を見た。

 オウガの足下。絨毯のように長い影が、フェンリルの前足から伸びる黒色が、あと数歩の場所までにじり寄っていた。

 フェンリルはむやみやたらに吼えていたのではない。冷静に、冷徹に、オウガを追い込んでいたのだ。

「セット――」

 リバウンダー。跳躍と同時に展開しようとした術式の名を、しかし辰巳は言い切れなかった。

「GROOッッ!!」

 ごく短い、しかし速度を増したソニック・シャウトによって、完全に塗り潰されたからだ。

 砂礫と共に迸る衝撃波は、今まさに跳躍しかけたオウガの脚部を、刈り取るように吹き抜ける。

「ぐッ!?」

 結果、オウガはたたらを踏む。内部システムが即座にダメージチェックを行うが、損傷はごく軽微。戦闘行動には何ら支障なし。

 だが今、この瞬間。オウガは確実に動きを止めてしまっており。

「GROWL!!」

 そのオウガ目がけて、フェンリルは満を持した切り札――己の影を解き放った。

 それまでにじり寄っていた黒色が、素早く、音も無く、オウガの足下へと一直線に伸長。日の光をまったく無視したその正体を、辰巳は痛いくらいに良く知っていた。

「ま、ず」

 リバウンダー。ラピッドブースター。どちらも生成なぞ間に合うまい。ならばせめて、と辰巳はオウガを半歩右に踏み出させる。

 そして、その直後。

 ぞぶりと。間欠泉の如く吹き上がった影のあぎとが、オウガの左腕へと食らいついた。

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