Chapter06 冥王 08
時間はまたもやさかのぼり、
ウェストミンスター寺院の隣、浮遊している術式陣の上。
怪盗魔術師エルド・ハロルド・マクワイルドは、その中央に佇んでいた。
表情は無い。つい今し方まで噴出していた爆笑は、影も形も無くなっている。
ガラス玉のような双眸が見据えるのは、未だ大量の霊力に沈むウェストミンスター区の町並み。だがその霊力は少しずつ揮発し始めており、もう増える事はない。
当然だ。源泉となるルートマスターの
「……」
あれだけ饒舌だったエルドの口は、錆び果てた歯車のように動かない。表情は能面のように硬直し、バックダンサー達もいつの間にか姿を消してしている。残滓らしき霊力の粒が、僅かに舞うのみだ。
茫然自失に陥るまま、霊力の供給を忘れてしまったのだろう――そう、傍目には見えた。
無論、実際は違う。
怪盗魔術師の礎となり、今もその体内に存在している魔術師達……即ちエルド・リカード、ハロルド・マッケンジー、そしてジャック・マクワイルドの三人は、今まさに話し込んでいたのだ。人間なら脳内と言うべき場所に該当する、霊力で造られたネットワークの中で。
それは数多くの分体が偏在するレギオンの特性を利用し、どれだけ距離が開こうともタイムラグ無しで思考を共有できる、怪盗魔術師達のインナースペースであった。
同時にそこは、
あるのは無限の彼方まで続く地平線と、一メートル程の等間隔で刻まれた方眼紙のようなマス目模様のみである。荒ぶる分霊レギオンを調伏し、改変し、効率化した結果とはいえ、少々殺風景すぎる眺めだ。
だからだろう、この空間の管理者たる三人の姿が、染みのように悪目立ちしているのは。
『ンッフフ。やられたな、こうなったらもう手も足も出ない』
そう言ったのは、怪盗魔術師エルド・ハロルド・マクワイルドに良く似た目元を持つ男、エルド・リカードである。着込んだシャツは目に痛いほどのピンク色だ。
主に表層の人格を受け持っているこの魔術師は、大仰に手を広げながら他の二人を見やる。
『笑ってる場合かよ、どうすんだコレ』
そう言ったのは、怪盗魔術師エルド・ハロルド・マクワイルドに良く似た口元を持つ男、ジャック・マクワイルドである。着込んだシャツは空間に溶けてしまいそうなほどの白色だ。
主に荒事を請け負っているこの魔術師は、今まさに己の分身が戦っているイーストエンドの光景を、立体映像モニタ越しに眺めている。
『まぁー何だ、俺としちゃ虎頭のヤツとの戦いが存外に楽しいから、ここで終わっても――』
『満足、出来るるの、かい?』
そう口を挟んだのは、怪盗魔術師エルド・ハロルド・マクワイルドに良く似た鼻筋を持つ男、ハロルド・マッケンジーである。着込んだシャツはどうにも印象の薄い青色だ。
主にネットワークの深部において、三人の生命とも言うべき魔術研究を担当しているこの魔術師は、どもり気味の口調でもう一度問うた。
『満足、できるのかい? 僕等らの悲願を、目の前で潰されてても、さっ』
吃音症を隠すため、普段は大して喋らないハロルドが、こうまで声を荒げている。
その事実に、ジャックは腕を組んだ。
一筋、二筋。その眉間にじわりとシワが走る。
『まぁ、ちぃーっと、不満は残らぁな』
顔を上げるジャック。その表情には、言葉以上の不平がありありと張り付いている。
『二百年近く待った千載一遇のチャンスを、みすみす逃がすなんてぇのはよ』
苛立たしげにジャックが手を振ると、すぐさまその掌中へ瓶とグラスが現れる。角張った瓶から注がれる透明な液体は、ヨーロッパの代表的な蒸留酒、ジンだ。彼がまだ生身だったころ愛飲していた安酒であり――つい今し方、ようやく思い出せた記憶の欠片でもある。
約二百年前、彼等は高位分霊レギオンの暴走を止めるため、己の身命をなげうった。
正確には、なげうたざるをえない状況に追い込まれたのだが。
『ンッフフ。思い出すねぇ、このヒリヒリした感じ。あの時もこんな感じだったよな?』
ぱきん。エルドの鳴らした指が、殺風景な空間の中に響く。
途端、その音に呼応して空間が一瞬で切り替わった。見渡す限りの白色と入れ替わって現れたのは、打って変わって三人を押し込めようとする鍾乳石の天井と、ごつごつした岩の壁。
そこは明らかに
もっとも千七百年代の光景であるため、現代の地獄の火洞窟とは幾つか差違がある。
一つ目は、当然ながら辺りを照らし出していたグレンの転移術式が無い事。床や天井のあちこちに設置された小さな霊力灯が、ロウソクのように頼りなく闇を溶かしているのみである。
二つ目は、ホールの中央に三人の魔術師が居る事。エルド・リカード、ハロルド・マッケンジー、ジャック・マクワイルド。赤い血と酷い傷にまみれたその姿は、彼等が人間だった最後の瞬間の姿である。
肩を寄せ合い、死角を庇い合い、一分一秒でも命を存えようとしているその姿は、必死を通り越していっそ滑稽ですらあった。
そして三つ目は、そんな魔術師達を弄ぶように見つめる目、目、目の群れだ。
ちっぽけな霊力灯では到底拭いきれぬ暗闇の中から、魔術師達を嘲笑うかのように光っている目玉の大群。
赤く、青く、黄色く、白く。イルミネーションのように周囲を彩る目は、しかし明確な敵意でもって三人の魔術師を貫いていた。
『は、は。これはままた、懐かししい光景だねえ』
肩を揺らすハロルド。丁度
『おいジャック、良く見たらキミ土手っ腹に風穴明いてたんじゃないか。良く生きてたなぁ』
いつの間にか、三人は年季の入った木製の丸テーブルを囲んでいる。かつて、こうして駄弁る時に使っていた愛用の一品だ。
『ハッ、片腕千切れ飛んでるヤツに言われたくはねぇな』
ひょい、とチーズを摘まむジャック。テーブルの上にはその他にも野菜スティック、フィッシュ&チップス、チョコレート、ソーセージ、各種安酒等がぞろぞろ並んでいる。
全て彼等が好きだった酒と肴であり、本当につい今し方、ようやく思い出す事が出来た個人情報でもある。
『こ、こんなものまで思い出せたのも、本当にひ久しぶりだ、だよね……おっ、そこだ、頑張れ僕……あぁダメだった』
ニンジンスティックを囓るハロルドの前で、生前のハロルドがレギオンに斬られた。昆虫のような甲冑に身を包む悪霊が、ハロルドの脇腹に短剣を深々と突き刺し、すぐさま暗闇に戻っていく。ヒットアンドアウェイだ。
悲鳴は無い。代わりに噴水の如く吹き出す赤色が、ハロルドの状態を雄弁に物語る。
『そうそう、ここで結局一番ピンピンしてたヤツまで死にかけちまってよ。最後の手段に出る事になったんだよな』
『ひ、酷い言い草だね。否定はし、しないけどさ』
苦笑を隠すように、チョコレートをひとかけ口に放り込むハロルド。その視線の先では、腹から赤色を垂れ流す生前のハロルドが、二人の仲間を見据えている。
かつての自分。それと同じように仲間を見据えながら、ハロルドは言った。
『それで、どうする? 仕掛けるには今しかなさそうだよ』
奇しくもそれは、生前の彼がエルドとジャックに言った言葉と、まったく同じであった。
『そりゃ、なぁ。決まってるだろ』
まっすぐにワイングラスを掲げるエルド。ゆらりと赤い液面が揺れ、甘い香りが辺りにこぼれる。
『ああ、考えるまでもねえ』
同じくグラスを掲げるジャック。なみなみと注がれたジンが少し溢れ、ジャックは顔をしかめる。
『自分らの姿形どころか、こうして嗜好品まで思い出せた時が、この百年間に何回あったよ? タイミングとしてはこの上無ぇぜ』
『う、ん。そうだね』
ゆっくりと、ハロルドもグラスを掲げる。ジャックと同じ透明な液体であるが、中身はただの炭酸水である。彼は下戸なのだ。それも、ついぞ十数分前に思い出せた事である。
『やろうか』
『やろうぜ』
『やるしかない、よね――』
ちら、とハロルドは横に目をやる。ボロ雑巾のようになりながら、それでも肩を寄せ合う三人の魔術師が、同様のセリフをなぞっていた。
『やろうか』
『やろうぜ』
『やるしかない、よね。他にもう、手は無いんだから』
映像は、そこで止まる。レギオンへ術式を仕掛けた反動により、前後の記録が欠損しているためだ。だが、重要なのはそこではない。
決意。半分以上は捨て身が混じっているが、それでも明確な意志に滾る炎が、かつての自分達にはあった。
そしてそれは、今も変わらずここにある。
そんな確信を噛み締めながら、ハロルドは二百五十年目の決意を告げる。
『やるしかないよね。人間に戻る手がかりを、今こそ掴むために』
あらゆる勢力に戦いを挑んでまで、賢者の石強奪に執心した理由。それを改めて胸へ刻みながら、魔術師達はグラスを打ち合わせた。透明な音が、地獄の火洞窟の映像に波紋を走らせる。
彼等の言葉に嘘は無い。そもそも怪盗魔術師という存在に成り果てた事自体が、彼等にとって不本意の始まりだったからだ。
――怪盗魔術師エルド・ハロルド・マクワイルド。
それは魔術師三人分の霊力を意志ごと用い、レギオンの高位分霊を包括制御した術式だ。大雑把に言えば一応分霊のカテゴリに属するが、実質は前例の無いワンオフの特注品である。
聞こえは良いかもしれないが、結局のところ本質はただの分霊だ。適時霊力を補充しなければ、雲霞のように消えてしまう幻である。
ただ消えるならそれでも良いだろう。だが怪盗魔術師が霊力切れで消滅すれば、そこに現れるのは暴走する高位分霊レギオンである。それを防ぐため地獄の火クラブに連なる者達は、何より礎となったエルド、ハロルド、ジャック達三人は、八方手を尽くした。
レギオンを安全に処理し、尚且つ生身の人間に戻る。
そんな二つの条件を満たすため、生まれたのが怪盗魔術師という肩書きである。
奇をてらった大騒ぎを隠れ蓑に、盗みを依頼した者達にとって不都合な存在を処分する、神出鬼没の分霊。このスケープゴートを担当する仕事は、彼等の身分の維持と霊力補充、何より自己の確認手段として大変に役立った。
例えばエルド・リカード。生前の彼は生粋の興行師であり、口八丁手八丁で地獄の火洞窟のカモどもを楽しませるのが仕事だった。
例えばハロルド・マッケンジー。生前の彼は凝り性の術式職人であり、出来は
例えばジャック・マクワイルド。生前の彼は倫理に縛られぬ探求家であり、場所や時間を問わず様々な手段で実験を繰り返していたのだ。もっとも、それが傍目には切り裂きジャックという殺人鬼に見えていた訳だが。
怪盗魔術師となった彼等は、こうした生前の嗜好を適時なぞる事で自己を確認、再定義する必要があった。制御術式の一部となった彼等の意識は、秒単位で霊力の中へと拡散し続けているからだ。
――因みにイーストエンドの立体駐車場という、辺鄙な場所にタンクが設置されていたのもそれが理由だ。あの場所は、切り裂きジャックが最後の犯行を行った跡地だからである。
ともあれ、依頼者達はこうした怪盗魔術師の要求を満たす手段を持参した。
エルドのために興行の場を設け、ハロルドのために術式関連の仕事を用意し、ジャックのために適当な生け贄をでっち上げた。
依頼主達の身分からすればどれも容易く揃えられるものばかりであり、故に怪盗魔術師は地獄の火クラブ自体が立ち行かなくなっても存続し続けた。何かと便利だったからだ。
そしてそうする傍ら、彼等は――主にネットワーク深部で研究を担当していたハロルドは、日夜生身の人間へ戻るための研究を続けていたのである。
いかんせん前例が無いため進捗は牛歩の如しであったが、それでもどうにか上手く回っていたのだ。
ついぞ、数十年前までは。
『ああ、見たまえ。何年前だったかな。エジプトで
目を細めるエルド。三人の周囲に地獄の火洞窟の風景は既に無く、代わりに絵画のようなエジプトの夜が見渡す限りに広がっている。先程グラスを打ち鳴らした音が、波紋となって洞窟の映像を押し流し、切り替えたのだ。
当然だが、開放感は格段に違う。太陽は見えなくとも、空には月と星がある。何より闇そのものが美しく清んでいる。
だからだろう。スフィンクスの上で立ち回っている怪盗魔術師の姿が、はっきりと見て取れるのは。
『うっわ懐かしいなオイ。この時点でもう暗殺は終わってたんだっけか?』
『そその筈、だね』
肴を摘まむハロルドとジャックの指摘通り、高官の暗殺は既に終わっている。後は目眩ましを完了するため、スフィンクスの頭上でショーの最後の演出をしていた筈だ。
見やれば、巨大な石像の頭上で怪盗魔術師が何かを叫んでいる。カメラの位置が遠いため、何を言っているのかまでは聞こえない。どの道いつもの口上ではあろうが。
足下には、巨大な鼻眼鏡をかけてころころと表情を変えるスフィンクス。見上げた夜空は大輪の花火が次々に咲き乱れ、周囲では殺気だった魔術師達が包囲網を着々と狭めている。
そして怪盗魔術師が一際巨大な花火を打ち上げたのと同時に、包囲していた魔術師達が一斉にスフィンクス上へと殺到した。
爆発、爆煙、閃く霊力光。絶え間ない波状攻撃に晒されながら、それでも怪盗魔術師は演説と哄笑と抵抗を止めない。
『ンッフッフ! いいね、我が仕事ながら実に美しい眺めじゃないか』
満足げにエルドは笑う。この時スフィンクスの上に居た怪盗魔術師と、その活躍の一部始終をこうして撮影していた記録係は、共にエルドが操作していたものだ。
故にこの時、エルドは昂ぶっていた。今もそうだ。『美しい』という修飾語は、エルド・リカードが生前良く言っていた口癖の一つである。辰巳と最初に鉢合わせた時、口走っていたのもそれが理由だ。
『……けど、上手く行ってたのはここまでだったよね』
カリリ。ハロルドの囓るきゅうりスティックが、乾いた音を立てる。
実際、その通りであった。原因は色々と考えられるが、最たるものはやはり、時流に乗りそびれたからだろう。
時代の流れに伴う文化の成長により、娯楽の幅は爆発的に広がった。結果、フリーの興行師エルドは仕事を圧迫された。他にも面白い事があるからだ。
第二次世界大戦の後、退魔師や魔術師といった霊力を運用する者達は、世界規模の情報ネットワークを造った。結果、フリーの開発者ハロルドは仕事を圧迫された。他組織から技術と人材をシェア出来るからだ。
そして新聞やラジオを筆頭とした
『そういや、金払いも結構渋られたよな。ホントにこの辺がケチのつき始めだったワケか』
ボヤきながら、ジャックはテーブルを小突く。決着がついたエジプトの夜がかき消え、インドの雑踏を走る怪盗魔術師の映像に切り替わる。
更に小突くと、ミャンマーのゴールデン・ロックの上ではしゃぐ怪盗魔術師の映像に切り替わる。
『振り返ってみると、ホントに色々あったもんだな』
カンカン、とリズミカルにテーブルをつつくジャック。乾いた音が鳴る度に、怪盗魔術師の活躍場面が切り替わる。
朝のフィリピン、昼のスリランカ、夕方のカンボジア。ぐるぐると、テレビをザッピングするように怪盗魔術師の活動映像が切り替わる。
成功、失敗、軋轢、和解。映像の一つ一つに様々な思い出はあったが、三人の思考には最初の映像――即ち、エジプトの夜が纏わり付いている。
先程ジャックがボヤいた通り、背後組織のパワーバランスが変わり始めたのが、この前後だ。
今までなら怪盗魔術師の特性を売り込む事で、新しい組織へと上手く渡って行けた。だが前述の問題によって、怪盗魔術師の運用リスクは年々高まっていった。
それにより怪盗魔術師エルド・ハロルド・マクワイルドの霊力供給は、段々と滞っていったのだ。
霊力ネットワーク内で顔を合わせる日は一日減り、二日減り、やがて交代でスリープするようになり、ついには自我の本格的な散逸すら始まった。
このまま行けば、怪盗魔術師という分霊は霊力切れで消滅していただろう。そして現れたレギオンを、誰かが抑えようとしていたのだろう。何か、新たな手段で。
だが、そうはならなかった。
術式の中へ本格的に拡散し、いよいよ消滅の瀬戸際を浮沈していたエルドに、舞い込んだ一件の依頼。
――取引をしましょう。あなた方が人間に戻るための、ね。
依頼主の名は、ザイード・ギャリガン。この依頼はギャリガンが立てた遠大な計画の一端だったのだが、無論エルド達は知る由も無く、この計画に乗った。
準備期間は数十年に及んだが、人間の枠を逸脱していた彼等にとって、大した問題ではなかった。
待遇は、絵に描いたように良好であった。彼等の記憶の励起に必要な要素をギャリガンは定期的に用意出来たし、霊力供給も問題無く行えた。
だが何よりもエルド達を心躍らせたのは、依頼を完遂した先にある報酬、そのものだろう。
『記憶と存在を繋ぎ止めるため、一々自分を思い出す……そんな面倒な状況は、いい加減に飽き飽きだ。だから、我々は手に入れる必要がある』
舌の上で酒の余韻を転がしつつ、グラスを置くエルド。酒瓶からラッパ飲みしていたジャックが、それを横目に鼻をならす。
『賢者の石、か』
かつて天才錬金術師アイザック・ニュートンが造り出し、しかし何らかの理由で宇宙に封印した、謎多き遺産。
永遠の命をもたらすとも、死者をよみがえらせるとも言われている、万能の触媒。
十中八九、失敗作なのだろう。そうでなければ超重力場など造るまい。
だがそれでも、エルド達にすれば一抹の希望である事に変わりはなく。
『ま、反対する理由も無ぇよな。酒も十分堪能した事だし、さっさと盗って来ようぜ』
『手に入れてからの研究も、また大変だだろうけど、っね』
ジャックとハロルドもそれぞれ飲み物をテーブルに置く。
手段は既に見えている。腹は既にくくっている。
後は、やるだけだ。伸るか反るかは、その先にある。
『んじゃまぁ、サヨナラだ』
『そして初めまして、だな』
『なるべくならそこまで削りたくはないなぁ』
かくして、彼等は一斉に指を鳴らす。
それを合図に周囲へ映し出されていた映像が、テーブル上にあった一切合切が、そして三人の姿までもが、空間を走る巨大な砂嵐に飲まれた。
◆ ◆ ◆
「……、あ」
びくりと、怪盗魔術師エルド・ハロルド・マクワイルドの身体が震える。眼下に広がるのは、相変わらず霊力の水面に沈むウェストミンスター区の町並み。霊力ネットワーク内で行われた会話は、実時間にすれば僅か数分の出来事であった。
だが。
怪盗魔術師エルド・ハロルド・マクワイルドの在り方は、激変していた。
『エルドさん。遺憾ですが、撤退を』
右手前に立体映像モニタが灯り、黒ずくめの格好をした七三分けが映り出す。
その名前を思い出すのに、怪盗魔術師は数秒かかった。
「あぁ……サトウさん」
ぼんやりと、寝起きのような口調で応える怪盗魔術師を、サトウは訝しむ。
『どうしたんです? ショックなのは分かりますが、とにかく今は撤退を……』
「お断りします」
『ええ、勿論お断りして体勢を、って、はいぃ!?』
予想だにせぬ即答に目を白黒させるサトウ。その困惑顔へ、怪盗魔術師は更に告げる。
「それから、グレン君に伝えて下さい。イーストエンドの転移術式を、フレームローダーの所へ繋いでくれ、と」
ちらりと、怪盗魔術師はイーストエンドを、己の本体が設置され居てる方角を見る。
「霊力の確保が完了したので、ね」
耳の奥をざりざりと削る砂嵐を聞きながら、怪盗魔術師は不敵に笑った。
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