Chapter05 重力 05

 日乃栄ひのえ高校翠明すいめい寮、男子棟三○一号室。

 土曜日、まだまだ静かな午前六時三十分。今日も規則正しく鳴る目覚まし時計のベルを、辰巳たつみはいつものように三度目で止めた。

「……くぁ」

 あくびと背伸びをそれぞれ一回。しかる後ジャージに着替え、辰巳は部屋を出る。日課のジョギングの時間である。

 後ろ手に扉を閉めると、蝶番のいびきが廊下を突き抜けた。まぁ無理もない、他の寮生達はまだまだ寝ている時間帯なのだ。今起きている学生は強化中の運動部員か、弓道部員か、馬術部員くらいなものだろう。

 なので辰巳は足音を立てずに廊下を進む。

 窓から差し込む朝日が廊下の影を四角く切り取り、年季の入った日焼け跡を飽きもせずなぞる。外を見れば雀がアスファルトを突いており、目が合うなりそそくさと逃げていく。

 いつもの、静かな、誰も居ない朝。

 それだけに玄関口で顔見知りと出くわしたのは、辰巳も少し驚いた。

「おや、いずみさんじゃないか」

「へぁ!?」

 と、変な声を上げたのは風葉かざはの隣部屋の住人、鹿島田かしまだいずみである。小豆色のジャージ姿でパイプ椅子に座っていた泉は、辰巳を見るなり背筋を伸ばした。

 まっすぐ、を通り越して弓なりになる勢いである。ファスナーの上がり切らない胸がふるふると揺れた。

「こ、こんなトコでなにしてんのさ五辻いつつじくん!?」

「何って、日課のジョギングだよ。健康に良いぜ」

 コメカミを突きつつ、辰巳は泉をじっと見る。

「しかし珍しいな、こんな時間に誰かと鉢合わせるなんてのは。てか泉さんは何してんだい」

「い、いやっ、私はなんかこうちょっと寝付きが悪くてさ。せっかく寝ても眠りが浅くてすぐ起きちゃったりして、いろいろなんかこう考えちゃったりして、そのう、ね?」

 しどろもどろになりながら、泉は露骨に目を逸らす。

「ね、と言われてもな」

 首をひねる辰巳。何だかおかしい。思い返せば、泉は昨日の実習の時から態度が妙なのだ。

 ――つい昨日。授業の三、四時限目を使って行われた、毎年恒例母の日のカーネーション販売準備。

 ハウス内のカーネーションに水をやり、長机を並べて臨時の売り場を作り、駐車場までの経路が分かるよう白線を引く。

 他にも大小様々な準備はあったが、もっぱら辰巳が神経を注いだのが、風葉の分霊術式の監視だった。

 動作自体は極めて良好、幻燈結界げんとうけっかいの補助もあって気にする者は無し。術式の効力によって認識を捻じ曲げられた風葉の分身は、そのままなら辰巳が気を回す必要も無かっただろう。

『おいーす風葉ー』

 ただ一人、例外が現れなければ。

『メンドクサイ仕事を押し付けられちゃったねぇ。明日から天気が崩れるかもって予報だし、ちょっとくらい手を抜いてもいい気がしない?』

 快活に、ばんばんと分霊の背中を叩く鹿島田かしまだ いずみ。カーネーション販売は合同実習なので、二年一組の泉もここに居るのだ。

『どしたの? なんか今日は元気ないっぽくない?』

 元気どころか意識がないんだよなぁ、と辰巳は口中でつぶやく。

 どうやら泉は、先日憑依されたフェンリルの影響が抜けきっていないようだ。今はどうにか幻燈結界の効力が働いているが、果たしていつまで保つだろうか。

 安全のため、どうにかして泉の意識を逸らす必要があった。

『あー、なんだ。泉さん』

 なので、とりあえず辰巳は声をかけた。

『へ!?』

 ――考えてみると、様子がおかしいのはここからだ。が、この時の辰巳は泉の意識を逸らす事に腐心していたため、そうした一切を気にかける余裕がなかった。

『……なんだ、その。明日は、いい天気、だな?』

『え、いや、雷になったりするかもしれないらしいけど』

 トンチキな会話を披露する辰巳と泉。微動だにしない風葉の分霊。周りの空気が妙にザワついていたような覚えもあるが、よく憶えていない。

 そのまま辰巳は忙しなく視線を巡らし、目に付いたのが発端のカーネーションである。

『……ああ、そうだ。売り場のレイアウトとかってどうなってるんだっけ』

『それは、まぁ、先生に聞かないと。聞きに行こう風葉。そうしよう』

 そそくさと離れていく泉。無表情について行く分霊。違うそうじゃない、と言いたくてたまらない辰巳。

 結局辰巳は実習中ずっと目を離さず、事ある毎に『泉さん』と声をかける事に腐心していた。

 そして声をかける度に、泉の様子はおかしくなっていった。

 今もそうだ。何というか、顔が赤いのである。

「風邪でも引いたのか?」

「いや、いやいやまさか。ただなんか涼みたかったっていうか、眠れなかったっていうか、その、あの……ああもう!」

 何でか湯気が上がりそうな顔色になった泉は、いきなり脱兎のごとく女子寮へ走っていってしまった。

 後に残った辰巳は、ただひたすら首を傾げる事しか出来ない。

「……何なんだ?」

 果たして、自分が何をしでかしてしまったのか。それを辰巳が自覚するのは、日乃栄高校の周囲を一週した後の事である。


◆ ◆ ◆


 しばらくコメカミを小突いてみたが、やはりまったく分からない。仕方が無いので辰巳は改めてジョギングを始める事にした。

 以前ギノアと戦った寮前の駐車場で、辰巳は身体を確かめながら入念に間接をほぐす。

 足、腕、胴体、義手、その他。今日も異常は特に無し。

「うし」

 軽く頬を叩いた後、辰巳は緩やかに走り出す。

 校庭と体育館の間にある道を抜け、敷地の外へ。左に曲がって校門前に進み、斜向かいの歩行者信号をちらと見る。

 色は赤。青なら渡って町中に進んでいたが、今回はそうせず日乃栄高校の周囲をぐるっと回るコースに決まった。

「しかしまぁ、やたらと広いなこの学校」

 遠く続く道の向こう、ずっと続いている畑を眺めながら、辰巳は淡々と走る。

 ――さて、県立日乃栄高校は大きく分けて三つの区画で成り立っている。

 東から校庭とプールがある区画、校舎や寮や体育館といった建物のある区画、そして各種の耕作地だ。これらの区画は舗装道路で区切られており、敷地外の県道と繋がっている。カーネーション目当てのお客さん達は、ここから車で乗り入れたりするわけだ。

「……うん?」

 しばらく走っているとその道路の向こう、耕作地へ繋がる砂利道の上を、担当の志田しだ先生が忙しく歩き回っているのが見えた。明日が販売日だから、休日返上で来ているのだろう。

「大変だなぁ」

 ずっと眺めていると手伝わされそうなので、そそくさと辰巳は走り去る。

 更にそのまま進んでくと、フェンスの向こうに見えて来るのは園地の管理棟と、モモの木が並ぶ畑である。木の陰になって見えないがその向こうに花卉のガラスハウスが連なっており、件のカーネーションはそこで栽培されているのだ。

「まぁ、こっちもこっちで大変なんだがな」

 走りながら辰巳は考える。内容は無論、四日後にせまった怪盗魔術師の予告である。

 差出人の名は、エルド・ハロルド・マクワイルド。名前からして無茶苦茶なこの男は、しかし少なくとも三桁の齢を重ねた人外の存在でもある。

 記録上、彼の存在が初めて確認されたのは一八八九年のロンドン。以後数年から十数年の間隔を置きながら、各国各所へ神出鬼没に現れて来た。

 スペイン、エジプト、イエメン、カンボジア、等々。数え上げればキリが無い。軽く思い出すだけで随分かかってしまう。耕作地の区画を回りきってしまうくらいだ。

「資料を眺めるだけで一苦労だったなぁ……ん」

 何気なく角を曲がると、フェンスの向こうで馬術部員達が動き回っているのが見えた。彼等は辰巳が起きる前から馬の世話をしているのだ。

 エサやりか、それともボロ出しか。またも忙しそうな光景を横目に、辰巳は思い出す。

「そういや、エルドの手口にも馬を使ったヤツがあったっけ」

 正確には馬型のまがつである。ユニコーン、バイコーン、その他諸々。竜牙兵ドラゴントゥースウォリアーと同様に巨大化した馬達へキクロプス部隊が飛び乗り、直立をし、様々な演目を披露したのだと言う。

 更に空には花火が上がり、一帯には盗みが終わるまで音楽が絶えなかったらしい。護衛部隊の撹乱が目的とはいえ、もはや泥棒と言うより興行師である。

「……この前見たアレは、まだ大人しい方だったワケだ」

 先日見た竜牙兵団の演奏が、否が応でも脳裏に浮かぶ。きっと今、怪盗魔術師はあれ以上の用意を終えているのだろう。

 だが何故、何のためにエルドはこんな事をするのか。

 効率が悪過ぎる事もある。だがそれ以上に、エルドの腕前は百発十中なのだ。霊力以前に、金銭面で色々と持たない筈である。

 この不自然を、いわおは徹底的に調べていた。自衛隊出向部のみならず、イギリスの退魔組織であるBBBビースリーとも話を付けていた筈だ。

 そろそろある程度の目星がつく頃だろうか――。

「――おっと」

 三つ目の角を曲がろうとして、辰巳は立ち止まる。

 左手、日乃栄高校の敷地の一番端っこに立っている電柱。それに背を預けた辰巳は、おもむろに腕時計を操作して立体映像モニタを起動した。宙に浮かぶ四角い画面を、辰巳は慣れた手付きで操作する。

 明らかに現代科学の枠を越えた光景を、しかし誰も気に留めない。サラリーマン、掃除中のおばさん、新聞配達員。辰巳が視界に入っても、皆忙しく通り過ぎていくばかりだ。

 無論、この手品には種がある。辰巳が今寄りかかっている電柱、その半径一メートルには、簡易型の幻燈結界が常時展開されているのだ。メンテナンス等で霊力を使う時のため、霊地の周囲にはこうした場所がいくつも用意してあるのである。

 空間を薄墨色で染める事こそ無いが、一般人の認識を反らす機能は備わっている。だから辰巳は堂々と立体映像モニタを使っているのだ。

 まぁ仮に結界外でモニタを表示したとしても、気付ける者はそう居ないだろう。泉が風葉を黒髪と言った時と同じ原理である。

「……ふむ。感度良好、と」

 そんな辰巳がモニタで見ていたのは、日乃栄高校の周囲に張り巡らされた探知術式の状況だ。合計二十三箇所、日乃栄高校をぐるりと囲い込んでいるこの術式は、未登録の霊力を探知するとすぐ凪守なぎもりへ知らせる仕組みになっている。

 これらは今寄りかかっている電柱やマンホールの裏側といった公共インフラに隠されており、その稼働状況を確認するのも辰巳の日課の一つなのだ。

「ま、役に立ったら御の字だな」

 電柱から背を離し、辰巳はモニタを消去する。

 神影鎧装オーディン・シャドーの襲撃以来、二倍以上になった探知術式ではあるが、敵はそれをかいくぐる術を持っているのだ。気休めにすらなっていないのが現状である。

 そしてエルドもまた、同じ方法で奇襲を仕掛けてくるのではないか――防衛部隊に回されなくとも、そんな声は方々から聞こえて来る。

「なんだか、な」

 首を振り、辰巳はジョギングを再開する。

 そういった有耶無耶をハッキリさせるのは、巌のような指揮官の役目だ。自分の仕事は、あくまで命令を遂行する事である――と、辰巳は答えの出ない疑問を頭から締め出す。

 良くも悪くも、それが五辻辰巳の基本思考だ。巌が「良い兵士だ」と証したのもそれである。

 同時にそれは人として少々歪なあり方なのだが、辰巳はまだそれを自覚出来ない。

 辰巳がそれを改めるのは、オーディン・シャドーと戦った時のような熱さを思い出すのは、もう少し先の話である。

「……おっと」

 そうこうしている内に、辰巳は体育館とグラウンドを分ける道の入り口に戻って来た。思考は纏まらなくても、身体は反射で動いてくれるものだ。

 当たり前の事に、しかし辰巳は苦笑する。

「あの時もそうだったな、っと」

 石ころをグラウンドへ蹴り飛ばしながら、辰巳は思い出す。以前、食堂で風葉に自分の事を話した次の日。確かあの朝も今日と同じ敷地一周コースを回っていた。

「で、その後で霧宮さんと出くわしたんだっけな」

 あの日とまったく同じように扉を開け、辰巳は寮に戻って来た。

 右手に男子棟、左手に女子棟へ続く分かれ道となっている玄関。

 そこに、居た。

 あの日と同じように、しかしあの日以上に切羽詰った顔色の、霧宮風葉が。

「――あ、居た! やっと見つけた!」

 キョロキョロと辺りを見回していた風葉は、辰巳を見るなり一直線に駆け寄って来た。まるで犬耳を初めて見たあの時のようだ。もっとも今はきちんとグレイプニル・レプリカで抑えられ、黒髪に見えているのだが。

「おはよう霧宮さん。どうしたんだい血相変えて。茶柱でも立ったのか?」

「いやそれは逆に嬉しい事じゃ……ってそうじゃないよ! 五辻くん!」

「はいっ」

 反射的に背筋を正す辰巳。頭一つ分下の位置から、むぅーと上目遣いで睨んで来る風葉。

 妙なプレッシャーに、思わずたじろぎそうになる辰巳。犬耳が見えたら直角に立っていたかもしれない。

 どうあれ、風葉は言い放つ。

「どうして泉を泉って呼んだの!?」

「……はい?」

 壁際の柱時計がたっぷり十秒ほど時間を刻んだ後、辰巳はおずおずと聞いた。

「何か、問題が?」

「大アリだよ!」

 言葉を荒げる風葉だが、辰には理由に皆目検討がつかない。それでもとりあえず察せるのは、風葉が分霊の記憶を無事に取り込めている事くらいだろうか。

「ひょっとして、昨日の実習の事か?」

「ん」

 口をへの字に曲げて頷く風葉は、そのまま小さく息をつく。

「……まぁ、私の確認が遅れたのも悪かったんだけどさ」

 ――先日風葉がフリングホルニで書類を片付け終えたのは、午後五時少し前の事だ。授業は全て終わった時間帯である。

 慣れない大量の事務仕事でくたくたになった風葉は、寮に帰るなり食事と風呂を済ませて、早々に寝てしまったのだ。当然その間も分霊の維持霊力は必要だったのだが、風葉はそれが出来るだけの霊力を持ってしまっていた。

 かくて風葉は自分そっくりのもう一人と同じベッドで夜を過ごした後、つい十数分前にようやく分霊の記憶を読み取ったのだ。

 ようやく本来の役目を終え、消滅する分霊。粉雪のように吹き消えていくもう一人の自分。

『な、な……』

 そんな光景を、しかし風葉は見ていない。

 同期した記憶。昨日の実習時間中、分霊と泉と辰巳が何をしていたのか、風葉は理解した。

 更に辰巳が聞き流していた周りの声も、風葉は理解した。してしまったのだ。

『風葉っち以外を呼んだ……!?』『親しげにしている、だと……!?』『おでんたべたい』『まさか、トライアングル関係ってヤツなのか――ッ!?』

 等々。

 冗談と、誇張と、多分二割くらいは本気が混じってるっぽい外野の野次を。

 しかもそれは、実習が終わるまでずっと続いていたワケで。

 気付けば犬耳を見た時ですら留まった叫びが、風葉の喉から迸った。

『なんでそんなことするかなーっ!?』

 すぐさま部屋を飛び出した風葉だが、男子寮まで乗り込むのはどうかと流石に思い止まり、玄関口でうろうろしていた。その矢先、辰巳がジョギングから戻って来たという訳だ。

「で、五辻くん。なんで泉を泉って呼んだの?」

「……? いや、泉さんは泉さんだろ?」

「だーかーら、何でで呼ぶの?」

「……」

 二度、三度。真顔のまま、辰巳は目を瞬かせる。

「いずみ、って苗字じゃなかったの?」

「違うよ! 泉の本名は鹿島田かしまだ いずみ !」

 ――事ここに至って、辰巳はようやく自分が何を仕出かしてしまったのか、理解した。

 向こうからすれば初対面の相手を、実習時間中事あるごとに、親しみを込めて呼んでしまっていた訳だ。

 なるほど、泉が逃げ出すのも道理である。

「……いや、ごめんよ。てっきり苗字だと思ってた」

「てっきりって、どうすればそんな間違いが出来るのさ」

 頬を膨らませ気味な風葉に、辰巳はバツが悪そうに頬をかく。

「はっは。いやぁ、物覚えの悪さには自信があってね。特に人の名前と顔」

「だから捨てようよそんな自信」

「まったくだな」

 善処してみようと心に決めつつ、ある意味怪盗魔術師以上に厄介な問題に、辰巳はコメカミをつついた。

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