Chapter03 魔狼 10

 そうして、霧宮風葉きりみやかざは酒月利英さかづきりえいの研究室に帰還した。

「――、む」

 頭がぼうっとする。たっぷり寝たはずなのにまだ足りない、日曜の昼過ぎみたいな感覚だ。

 気を抜いたらまたくっついてしまいそうな目を擦り、風葉は目の焦点を合わせる。

 最初に見えたのは、すぐ正面にいるメイ。抱き合う一歩手前くらいの距離に立つ冥は、風葉の意識が戻ったのを確認し、にこやかに微笑む。

「やぁ風葉。気分はどうだい」

「ん、ん。なんか、ちょっと、寝起きみたいな感じ」

 ぐしぐしと目を擦る風葉だが、そこかしこでまたたく光は中々消えない。

 まぁ当然だ。それは目の錯覚ではなく、つい今しがたまで冥が発動させていた精神感応術式の残光なのだから。

『き、霧宮くん』

「おいおい! おいおいおいぃ!? どうなったんだ冥!?」

 次いで、画面の向こう側とこちら側。いわおは呆然と、利英は頭をかきむしりながら、それぞれ風葉を見ていた。

「――。あ」

 ここで風葉はようやく目が覚めた。すぐさま腕時計を見下ろすが、分針は目盛り一つ分しか動いていない。

「あ、れ? こんな短時間だったっけ?」

「別に驚くことじゃないよ。現実と精神世界の時間の流れってのは、大抵の場合一致しないものさ」

「そなんだ」

 さほど驚かない風葉。非日常的な事態は今まで大分味わってきたからだ。

『……納得したところで、今度はこっちの疑問に答えてもらえないかな』

 その声に、視線を移す冥と風葉。

 画面の向こう。糸よりも細い眼差しで、巌が風葉を見ていた。

『薄々察しはつくんだが……あえて聞こう。冥。霧宮くんは、彼女に憑依していたフェンリルは、一体どうなってしまったんだ』

 静かな眼差し、静かな表情、静かな語調。

 デスク上で手を組んだ巌の佇まいは、オウガを自爆させると言った時以上に平坦であった。

 ――明らかに、怒っていらっしゃる。

 今更ながら、風葉はぎくりと背筋を伸ばした。

 途端、腰の下辺りから、わさっ、という変な音が聞こえた。モップを振って埃を落とす時のような、あんな音だ。

 実際、見下ろすと似たような物体がそこにあった。

 灰銀色に輝く、ふさふさの尻尾。

 今しがた精神世界で見たフェンリルと同じそれが、いつの間にか生えていたのだ。

 付け加えるなら、スカートをたくし上げ気味にしながら。

「わっ、わっ」

 慌てて尻尾とスカートを押さえつける風葉。手触りは予想以上にもふもふだったが、喜んでいる余裕はまったくない。

「ほほう! これは何とも良かれなシチュエイション! ――と、言ってる場合じゃないよな。取りあえず調べさせて頂きましょうか」

 暴走しかけたテンションを一瞬で冷却し、利英はエンターキーを叩く。すると一際巨大な立体映像モニタが風葉の前に現れた。

 大きな長方形を描くそれは、姿見のように風葉の姿を映し出す。

 今も押さえつけている、もさもさの尻尾。今度こそ触れるだろう、実体化した犬耳。

 そして、金色に輝く瞳。

 今までとは違う、本格的に一体化したフェンリルの姿が、そこに写っていた。

 そんな姿を当人に確認させたのもつかの間、姿見はスキャナーのように風葉の身体を通り過ぎる。

 実際、これはスキャニングだ。風葉の霊力、フェンリルの状態、その他諸々のデータが即座に転送され、利英はすぐさまキーボードを乱打開始。

 利英は雨垂れのようにキーボードを鳴らし、巌も転送されてきた風葉のデータを食い入るように見つめる。

 真剣な眼差しの二人。だがそれとは対照的に、冥は芝居がかった仕草で両手を広げる。

「気にするな、そして喜べ二人とも。このフェンリルはもう使える。霧宮くんがねじ伏せた」

『な』

「何とォ!?」

 目を剥く巌と利英。満面の笑みを浮かべる冥。

 ――そこからはもう、侃々諤々の嵐であった。

 どうして止められなかったと巌が弾劾し、その方が面白いだろうと冥がのらりくらり避わし、解析されたデータの数々に利英が奇声を上げる。

 誰も彼もが、憑依された当人である風葉をそっちのけにしていた。

 さりとて風葉も、三人に構っている暇は無かった。

「……」

 息を吸い、吐く。

 それだけで、酸素と血液以外のものが身体中を駆け巡っているのが、風葉には感じ取れた。

 力強く、しなやかに、ともすれば破裂しそうな凶暴さすら感じさせるもう一つの鼓動。

「これが、霊力」

 これが、辰巳たつみの行使していた力。

 そして、Rフィールドとやらを破壊できる力でもある、筈だ。

「えーと」

 男達の議論を無視し、風葉は室内を見回す。目的のものはすぐに見つかった。

 今現在、日乃栄ひのえ高校に展開したRフィールドを映し出している立体映像モニタ。

 四角く切り取られた赤色をしばらく眺めた後、風葉は不意に笑う。

「要するに、あれを壊せばいいんですよね?」

 瞬間、ぴたりと。

 男達の罵詈雑言が、止まった。

「……。どうにか、出来るってのかい。キミが」

 怒りも笑いもなく、努めて真顔で視線を向ける利英。

 一語ずつ、区切りながら確かめるその問いかけに、風葉は淀みなく頷いた。

 ――本家と違い、地上の、しかも霊地の上に出現した人造のRフィールド。今はまだ幻燈結界げんとうけっかいでどうにか隔離できているものの、放っておけばどんな悪影響が出るか分かったものではない、危険な存在。

 しかして今の風葉の目には、その赤は障子紙より華奢な紙細工にしか見えないのだ。

「私なら、アレを壊せます」

 まず利英を、次いで巌を、風葉はまっすぐに見据える。

「だから、お願いします。五辻くんを、助けて下さい」

『……』

 沈黙。風葉は拳を握りしめ、巌は手を組んで、画面越しにお互いを見据え合う。

 言外に、風葉はこう言っているのだ。

 私の力を使って下さい、と。

 絡み合う視線。意地と、怒りと、信念と、打算とが、画面越しに音もなく渦を巻く。

 室内の空気は秒単位で重さを増し、じわりと締め付ける重圧に利英が声を上げそうになった頃――ふ、と巌が一つ息をついた。

『まったく。資料以上に……』

 跳ねっ返りだな、という続きを巌はすんでのところで噤む。

 そして、考える。どの選択が最良なのか。

 実際、ここで風葉の懇願を突っぱねる事も出来るのだ。Rフィールドを突破するだけなら、エッケザックスから送られてくるだろう術式を、冥に持たせれば済む話だ。後は予定通りオウガの自爆まで持っていけばいい。

 そうなれば試験運用と観察の対象は全て消滅し、晴れてファントム・ユニットは解散。責任は追求されるだろうが、それでも巌は凪守なぎもり本隊へ復帰できる事だろう。

 二年前の贖罪を、一つも果たせないままで。

 何も、何ひとつも為せないままで。

『……』

 程無く、結論は出た。

『……理由はどうあれ、一般人に荒事をさせるわけにはいかない』

 まぁ当然だ。道理である。

「そんな!」

 歯噛し、それでも風葉は食い下がろうとする。

「でも、私は五辻くんに――!」

『ところで、凪守は半民半官の組織でな。霊力の高い一般人をスカウトする事態がある』

 そんな風葉の機先を、巌は絶妙なタイミングで制した。

 実際、巌の言葉に嘘はない。風葉のようにまがつに憑依され、何かの拍子でそれを使いこなしてしまう一般人はたまにいる。

 それをスカウトし、戦力として迎え入れる事もままある。

 だが、そんな一般人を鉄火場へ即時投入する状況など、果たして過去にあったろうか。

『……なってみるかい。五人目のファントム・ユニットに』

 どうあれ、巌はその選択肢を示した。心の隅に、わだかまりをおいやりながら。

「はい!」

 そうして、風葉は了承した。心の中に、迷いは一切無かった。

 自分とは違う、若人らしいまっすぐさに、巌は小さく笑う。

 しかる後、巌もまた迷いを捨てた。十全とはいかなくとも、せめてその決意には応えねばなるまい。

『では霧宮風葉。略式ではあるが、君は今からファントム5だ』

 立ち上がり、敬礼する巌。先日の緩みぶりからは考えられない、きびきびとした動作である。

 少し呆気に取られたが、風葉も一拍遅れで見よう見まねの礼を返した。

『早速だが君にはこれからファントム4の救援に行ってもらう。冥、予備の装備を――』

 言いつつ、巌は思考する。

 風葉にそう説明こそしたが、彼女に実際の戦闘行動を任せる事態は避けねばなるまい。

 フェンリルの力はあくまで借りるだけ、ゴタゴタの収束は周囲に展開中の正規部隊と、何より自分自身がどうにかせねばなるまい。

 雷蔵が別行動中なのが痛恨だな――そんなぼやきを口中で噛み潰した矢先、今度は利英が叫んだ。

「持ってくる必要はナッスィング!」

 すたーん、と勢い良くエンターキーを叩く利英。

 直後、巌が映るモニタの真正面。開けていた床の上に、少しいびつな術式が姿を現した。

 コンパスを使わずに書いたような白色の円陣は、どこか天来号の転移室に刻まれていた術式にも似ており――事実、程無くして転移と同じ光が円陣上に満ち溢れた。

 ドーム状の形をなす光は、しかし一秒も経たぬうちに爆ぜ割れる。

 そうして中から現れたのは、一台のバイクであった。転送されて来たのだ。

 白い車体に銀色のラインを刻んだ、小型のオフロード車である。

 装甲やらなにやらが追加されてるため、シルエットはどの車種とも似ていない。何かの術式らしき紋様が刻まれたタイヤ、何かのコネクターがついているフロントフォーク、何かの入力装置を横に備えたメーター、等々。

 凄まじいチューニングが施されている事が一目で分かる車体に、転移術式の残光が粉雪のごとく降る。流線型のフロントカウルがきらりと光った。

 そんなバイクの突然な出現に、え、と呆気に取られる一同。巌ですら何も聞いていないのか、机に手をついて身を乗り出している。

 そして利英がそんな一同を気にするはずもなく、スケート選手ばりに華麗な三回転半のスピンを決めた後、ピシィーッとバイクを指差す。

「これが! これこそが! 僕がここ数ヶ月の睡眠時間を返上して創りあげた傑作! 冥が乗れるよう可能な限り小型化し! 合体することでオウガの真の機能をエミュレートし! 単体としての機動力とかなんかも兼ね備えた一品! その名もぉぉぅ――!!」

「レックウだったな。完成していたのか」

「おふぅ! 決め台詞をかっさらうなんて酷いぞ冥!」

 テンション右肩上がりな利英を、冥はジト目で睨む。

「当たり前だ。オマエが語り出したら長い」

『てか、なんでここに転移術式があるんだ。専用の部屋でなければ使えんはずだぞ』

「HAHAHA! じつはこんなこともあろうかと! 転送室からバイパスを密かに造っておいたのデスよ! べんり!」

『わーすげー。最近転送区画の霊力消費量がおかしいって話は聞いてたが、よもや身内が犯人だったとはなー』

「フッ、そう褒めるな盟友よ! 新たなヒラメキが湧いてしまうではないか!」

『ならそのヒラメキで、いずれ書くだろう始末書の文面を考えてくれるかい』

「それは御免被る」

 一点の悪びれもない笑顔でサムズアップする利英。その後頭部を、冥はその辺に散らばっていた書類を丸めて引っぱたく。

「あ痛ぁっ、何すんだ冥!」

「ナンだもナニもあるか、今は時間が押しているんだ。風葉に説明を済ませろ、三十秒で。ほれスタート」

「ひでえや!」

 と言いつつ、利英は大した逡巡もなくすらすらと語り始める。

「まぁともかくだ、このバイクの名前はレックウ! ホントはファントム3こと冥の装備なんだけども、何せ今は緊急事態だ! ファントム5の装備を整えてる余裕はないし、しかもRフィールドは組成の都合上、フェンリル持ちの霧宮くん以外は通れない! 故に是非とも霧宮くんの足および武器として活用して頂き、ったい舌噛んだァ!」

「……二十九秒、ギリギリだな。そして腹立たしいが、考えていた事は同じか」

 悶絶する利英を背中に、冥は腕時計から風葉に視線を移す。

「まぁ、そういうわけだ。背丈が僕と大体同じなんだから、風葉も問題なく取り回せるはずさ」

 頭の上辺りに手をやって身長を目算する冥。実際その手の高さは、風葉の身長より少し高い程度であった。

「う、ん。それは、ありがたいんだけど」

 ちら、と風葉はレックウを見る。

 そして、ごく当たり前の事をつぶやく。

「私、バイクの免許持ってないよ?」

 一瞬。

 テンションがダダ上がりだった利英も含めて、男達が全員真顔に戻った。

 が、程無くして利英が人差し指を立てる。

「――霧宮くん。いわゆるバイク、すなわち二輪車の動力源は、なんだね?」

「え? それは、ガソリン、ですよね」

「そうだ。翻って、このレックウの動力源は何だと思うね?」

「それは、まぁ。霊力でしょうか」

 ぱん、と利英は合掌するように手を叩く。

「そう! その通りだ! つまりレックウは二輪車ではない! 故に免許など無くても割とオッケイなのだよ!」

「ええー」

「ハハハ! いいたい事はよーっく分かるがもはや逡巡している余裕など無いぞ! それにハンドルを握って見たまへ! そんな疑問はロケット花火のように吹き飛ぶ!」

 鼻息が荒い利英。思考が加熱しているのだ。

 これ以上関わるのは中々にアレなので、風葉は半信半疑ながらも左ハンドルを握ってみた。

 瞬間、ぱしん、と火花が走る。レックウの心臓部である制御術式が起動し、車体から流れこむ霊力が風葉の掌中で輝く。

 時間にすれば僅かに五秒。しかし、それで全ては終わった。

「あ」

 と息をつくよりも先に、風葉は理解していた。

 理屈と直感の両方で、レックウの性能、及び運転方法といった全てを。

 ――今しがたハンドルと手の間で閃いた火花。あれはレックウの操縦方法を、霊力を介して風葉の直接記憶領域へ転写した一部始終だ。さながら、ハードディスクへプログラムをインストールするかのごとくに。

 泉を筆頭とした日乃栄高校生徒達の記憶消去と、逆の事を行った訳だ。

「どうだい? 何とかなりそうかな?」

 確認してくる冥に、風葉は頷き返す。

「いけます……いきます!」

 スカートを翻し、レックウのシートに跳び乗る風葉。途端、レックウに刻まれていたラインの銀色が、見る間に鮮烈な赤色へと書き換えられていく。風葉の固有霊力に合わせて、レックウの術式がアジャストされたのだ。これでもう、風葉はレックウを己の手足のごとく自在に扱える事だろう。

「――」

 拡張された自身を試すように、風葉は躊躇なくアクセルを吹かす。轟々とレックウのエンジンが唸りを上げ、マフラーから迸る霊力の残光が間欠泉のごとくに軌跡を刻む。

『……』

 そんな風葉の横顔を、巌はじっと見る。

 金色に染まる少女の双眸に、迷いは一切無い。

 辰巳を救いたいと願う決意と、憑依したフェンリルのもたらす闘争心。それが、風葉を支えているのだ。

 危うい。だが、今は頼るしかない――そんな歯痒さを、巌は奥歯で噛み砕く。

『それでは、指令を伝える。ファントム5。日乃栄高校のRフィールドを突破し、オウガのパイロットを連れてすぐに帰投せよ』

「分かりました」

『……なお、可能な限り戦闘は避けるように』

 辰巳を助けたら、すぐに逃げて来い。言外に巌はそう言っているのだ。

 分かっているのかいないのか、とにかく頷く風葉。犬耳が小さく揺れた。

「さァて! 話もまとまったところで行ってみようかぁ!」

 利英は自作転移術式の座標を設定、エンターキーを叩く。

「ポチっとな」

 光を増すいびつな円陣は、速やかに風葉とレックウを包み込み――目的の場所、日乃栄高校近郊へと転送した。

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