Chapter06 冥王 04

 ずしん。

 重く巨大な音が、イーストエンドの町並みを突き抜ける。

 ホバーモードを解除したディスカバリーⅢ小隊が、一斉に地面を踏みしめた足音だ。

 数は三、後続無し。随分と控えめな数だが、ウェストミンスター区では未だキクロプス達との戦闘が継続しているとあらば、まぁ仕方が無い。

 無表情な単眼と銃口が、油断無いチームワークで立体駐車場を取り囲みつつ、辺りを睥睨。

 その内の一機が反転し、立体駐車場にいる雷蔵らいぞう達を見下ろす。

『……確認します。機密対魔機関凪守なぎもり、特殊対策即応班所属の、ファントム2ですね?』

 予想外に若い、女と思しき声がディスカバリーⅢの外部スピーカーから響く。

『おう、合っとるぞ!』

 そう叫びながら雷蔵は立体駐車場の端へ、ジャックは未だ霧を吐き出し続けているタンクの傍らへ、同時に飛び退く。状況が変わったとは言え、今までの鍔迫り合いが嘘のような鮮やかさである。

『しかし、もう少し遅く来ても良かったんだがのぅ? そろそろ突破口が見えて来た所だと言うに』

『そういう訳にも参りません。こちらも仕事ですので』

『つれないのう』

 尻尾を伸ばして頬をかく雷蔵。対するジャックは背にしたタンクを守るように後退るが、いかんせん多勢に無勢である。

「ふぅむ」

 そんな光景を立体映像モニタ越しに見ながら、メイは祈るように手を組む。

 そして、核心を突く。

「……いわお。キミは結局、この援軍が来るまで時間稼ぎをしていたワケか」

『ま、そういう事だねー』

 頷く巌の口端が、微かな笑みを刻む。

 ――翻弄される事柄は多かったが、怪盗魔術師の目的自体は分かっていた。

 ニュートンの遺産の奪取。ご丁寧に当人が予告までした着地点である。

 それがわかっている以上、ある意味で調査は楽だった。

 出発点はどこか。どんな方法を用いるつもりか。そもそも何故そこを目指すのか。 

 大手を振った行動こそ制限されていたが、伝手を辿って水面下で情報を集める事は、手間こそかかったがそう難しくはなかった。

 だから怪盗魔術師エルド・ハロルド・マクワイルドの正体及び目的、そして地獄の火ヘルファイア洞窟やイーストエンドと言った重要地点を割り出せた。

 怪盗魔術師が置かれていた状況が、実は存外に苦しい物だった事もその過程で知った。

 後はその苦境の隙を突く計画を立て、冥と雷蔵を送り込んで実際に確認しつつ時間を稼ぎ、帯刀たてわきを経由して防衛部隊の戦力をここまで引っ張って来たのである。

『そもそもファントム2、なぜ貴官がここへ居るのですか? ファントム・ユニットは今回の作戦行動から外されている筈ですが』

 ジィ、と音を立てて絞られるディスカバリーⅢの単眼。表情は無いはずなのに、何だかジト目で見られているような錯覚を雷蔵は受けた。

『ん、おお、それはじゃな――』

 口籠もる雷蔵。ここでつまずかれるのは大いに困るので、巌はすぐさま援護射撃を送る。

 リストコントローラを操作し、個別の通信回線を起動。部隊長権限で強制受信させられる回線を用いて、巌はディスカバリーⅢに拾われぬよう、小さくつぶやく。

『打ち合わせ通りに頼むよ、ファントム2』

 きょとんと虎頭が固まったのは、しかし数瞬の話だ。

 心得た、と声に出す代わりに雷蔵は小さく頷き、しかる後丸い目で女パイロットのディスカバリーⅢを見上げる。

『――あー、うぉっほん。休暇ついでに同僚の作った術式搭載の眼鏡を試しとったら、偶然妙な霧に出くわしてなー。色々ゴタゴタした結果、どうやら件の怪盗魔術師が何かしとる事がわかってのー。見過ごせんので交戦しつつ、応援を頼んだという訳じゃよー』

「うわーもっともらしいイイワケだぁ」

 くつくつと笑う冥。

 その声がモニタ越しに聞こえる筈も無く、ディスカバリーⅢは単眼で雷蔵とジャックを交互に見た後、やや上体を沈めた。

『……了解しました。どうあれ、この状況を見過ごす理由はありません』

 彼女も疑問はあるだろう。だが既に帯刀を通して指令は回っている筈だし、何より最優先の確保対象が目の前にいるのだ。言葉通り、見過ごす理由はまったくない。

 だから彼女は同僚達に援護を任せ、対象の捕縛にかかった。

 音を立ててディスカバリーⅢの右肩部装甲がスライドし、三段階に畳まれていたアームが展開。鈍色に光る無骨な五指が、威嚇する獣のように大きく開く。

『細かい状況説明は、後でして頂けますね?』

『おう。たっぷりとするともさ』

 頷く雷蔵。それと同時に、五指の表面へ霊力の輝きが宿る。手のひらを中心に広がった橙色のそれは、十中八九捕縛術式であろう。接触対象を霊力で絡め取るこの術式は、歩兵部隊のスタン弾同様、怪盗魔術師を捕えるために用意されたものだ。

 想定された状況とは大分違うが、それでも確実に動きを止められるだろう鋼鉄の腕が、まっすぐに怪盗魔術師を見据える。

『では、怪盗魔術師エルド・ハロルド・マクワイルド。神妙に縛につきなさい』

 一直線に突き出される捕縛術式。銃弾の如き速度で襲い来る、巨大な鋼鉄の手。

 その一撃は、しかしジャックへ届かない。

 ジャックの正面、壁のように噴出した霧の塊が、ディスカバリーⅢの腕を縫い止めたのだ。

『う、っ!?』

 すぐさま引き剥がそうとするディスカバリーⅢだが、押しても引いてもビクともしない。どういう理屈なのか、逆に絡め取られてしまった格好だ。

『ああ畜生め、使っちまったじゃねえか。こうするために用意したモンじゃねえってのによ』

 その壁の後ろ。指揮棒のように右ナイフを振りかざしながら、ジャックが毒突く。明らかにこの霧を操作している動きだ。

『エルド、貴様ッ!』

 もはや手加減する理由は無い。僚機の危機を救うべく、控えていた二機のディスカバリーⅢが躊躇無く発砲。先刻エルドに浴びせられたのと同様のスタン弾が殺到し――しかし、やはり当たらない。

 更に現れた二枚の霧の壁が、スタン弾の火線を阻んだのだ。

『おおっ!?』

 動揺するディスカバリーⅢ部隊。だがそれ以上に、その壁を造ったジャック本人が焦燥を浮かべた。

『おいハロルド! そっちの用意はどうなってんだ! こっちはとっくに暖まってんだぞ!?』

 未だ止まず、断続的に降り注ぐスタン弾の銃火。それに吹き消されぬよう、壁裏へ展開した立体映像モニタに叫ぶジャック。

 その焦燥を背で聞きながら、サトウは作業中のハロルドをじっと見る。

「少々、ファントム・ユニットを見くびりすぎていましたか……」

 そして、やや諦念気味につぶやいた。

 例え霊力は足らずとも、冥が現れた時点で計画を前倒すべきだったのだ。

 ――そもそも巌が推論を述べ始めた時、サトウ達はそれをまったく止めなかった。

 何故か。この場に非戦闘員しか居なかった、と言う事はある。冥が提示した花束で、増援が即座に来ない事が分かった事もある。

 だがそれ以上に、サトウ達も時間稼ぎをしたかったのだ。

 そもそもサトウ達の目的は、人造Rフィールドと神影鎧装を用いた、ニュートンの遺産の奪取だ。

 どちらの術式も発動には莫大な霊力が必要なのだが、今回サトウ達は日乃栄ひのえのような霊地を一切押さえていない。霊地に頼らぬ大規模な霊力の確保法を、怪盗魔術師が用意していたからだ。

 まぁ正確にはギャリガンの差し金であろうが、とにかくサトウ達はそれを実行するため、八方手を尽くした。

 予告状を出したのを手始めに、BBBビースリーの一派に話を付けて地獄の火洞窟を押さえ、ウェストミンスター区を中心に様々な術式を敷設。最大の障害になりそうなファントム・ユニットは、伝手に圧力をかけさせて防衛部隊から外させた。

 当日の狂騒もその一環である。エルドに自身の励起を兼ねたショーを行わせ、ハロルドと共にその裏方へ回り、その間ジャックが霧を発生させられるよう段取る。

 全ては順調――そう、思っていたのだ。

 冥・ローウェルが、この場所にやって来るまでは。

『おや、ドンピシャか。幸先良いねぇ』

 そう言って冥が転移してきた瞬間、サトウは脳内で撤退の段取りを組み立て始めた。が、それはすぐに改める事となった。

 冥が、正確にはそれを命じた巌が、露骨な時間稼ぎを始めたからだ。

 何かを狙っている事は明々白々。だが、サトウとしては渡りに船だった。前述の通り、術式が完成するまでの時間が稼げれば、それで良かったからだ。

 かくして奇妙な利害の一致の元、サトウと巌は無言の競争を始めた。

 合同部隊が怪盗魔術師を押さえるのが先か、怪盗魔術師が最後の仕掛けを発動するのが先か、というチキンレースを。

 そして今、レースは決着した。

「……ですが、少し遅かったようですね。それにファインプレーでしたよ、ジャック」

 小さな、しかし朗らかなサトウのつぶやきに、ジャックの瞳が輝く。

『おお! やっと終わりやがったのか! 遅えぞ!』

「ご、ごめんよ。でも仕方が無いんだよ状況が特殊過ぎるし術式も特注品ばっかりだし大変で大変で大変で――」

 立体映像モニタ群を忙しく見回しながら、小声かつ早口でまくし立てる怪盗魔術師エルド――もとい、ハロルド。

 緊張すると言動が吃音気味になってしまうのは、生前のハロルド・マッケンジーの特徴そのものである。どうやら大分思い出して来たらしい。

『御託はいらん! 早くやっちまえ!』

 語調こそ辛辣だが、ジャックは喜色を隠そうともしない。異変を察した巌がディスカバリーⅢへ直接連絡しようとするが、もう遅い。

「あ、ああ、分かってる分かってるよ、だから――グレンくん! 転移を頼む!」

 手元に小さな立体映像モニタを表示し、ハロルドは待機中のグレンへ合図を送る。

『遅えんだよ! 待ちくたびれたってぇの!』

 最初に帰って来たのは、仮面越しでも分かるグレンの苛つきっぷりであった。

「ご、ごめんよ。でも大変だったんだよこっちだって想定外の事ばっかりだし邪魔者は来るし――」

 次いでハロルドの言い訳を遮るように、立体映像モニタの向こうで転移術式の光が灯った。それも、二箇所に。

「ほう? これはこれは……分からなくなってきたな?」

 嬉しそうに笑いながら、冥は二枚の立体映像モニタを交互に見る。

 イーストエンドと、ウェストミンスター区。二箇所を結ぶ転移術式が、画面内へ新たに出現していたのだ。


◆ ◆ ◆


 それは、唐突に現れた。

『ええい埒があかん、こうなったら奥の手だ! セット――おぉ!?』

 十数体目になるリザードマンを蹴散らした後、状況打破のため術式を発動しかけたオラクルの足下。

 丁度彼へあてがったように、青色の術式陣が現れたのだ。つい今し方、グレンが発動した転移術式である。

 直径は三メートルほどだろうか。平素のオラクルであれば、切磋に飛び退いていただろう。

 だが今、彼は連戦で少々疲労しており、加えて術式の起動に意識を割いてしまっていた。

 結果、反応が遅れた。

『な、ん、ぬあああああああ!?』

 轟々と、間欠泉のごとく吹き出す霧。ジャックの操作によって転移術式を潜った霧が、ウェストミンスター区へ一気に流れ込んだのだ。

 一、二、三、四、五箇所。きっかり五秒おきに、円陣を描くようにウェストミンスター寺院を取り囲む間欠泉の柱。大鎧装とほぼ同じ高さまで伸びるそれは、薄墨色の街路をイーストエンドと同様の霧色に鎮めていく。

『な、なんだぁ!?』

 ディスカバリーⅢ隊長機を筆頭に、誰もが驚愕で動きを止める。そんな中、いち早く声を上げたのはそれを仕掛けた一味の一人、エルドであった。

『これは――』

 ステージの上。霧の状況確認のため立体映像モニタを表示したエルドは、そこで気付いたのだ。

 寺院の北。未だ噴出する霧の上で翻弄され、じたばたしているオラクル・アルトナルソンの姿を。

『――ジャック、チャンスだ! 今の内にフェンリルの捕縛を!』

『おうよ!』

 頷き、ジャックは霧を遠隔操作。未だオラクルを弄んでいた霧が生物のように蠢いたかと思えば、瞬く間に間欠泉の先端部分がオラクルごと分離し、巨大な球体となって分離した。

『んがっ、んなっ、なんじゃこりゃあああああああ!?』

 ごろごろと、屋根の上をバウンドしながら転がっていく巨大な霧玉。跳ねる度にオラクルの声が響き渡るのだが、悲しいかな、混乱しきったこの状況でオラクルに気を回せる者は居なかった。

 遠ざかっていくオラクルの悲鳴。それを聞きながら、エルドはほくそ笑む。

 元来、ニュートンの遺産を手に入れるまでオラクルを足止めする予定ではあった。だが、それがこうも上手く行くとは思わなかったのだ。

 ハロルドの視界をモニタに回せば、驚愕に顔を引きつらせている巌が見える。イーストエンドの大鎧装達も動きが止まっている。この状況に対応しきれていないのだ。

『ン、フ。ンンンーッフッフフフゥ! 一時はどうなる事かと思いましたが――来てます! 実にイイ流れ来てますよ! このまま呼んじゃいましょうか! このショーの主役になる皆様をねぇ!』

 混乱へ穴を穿つように、エルドのステッキが振り上がる。天を突くその先端から迸ったのは、やはり霊力の光だ。

 鎧装展開術式のように枝分かれする緑光は、しかしエルドの身体を走らない。代わりに一帯を包む霧の中を、雷光のように伝播して行く。

 そして、異変は起きた。

 薄墨色の向こう側、いつもと変わらぬペースで道を行くルートマスター。

 本来ならこちらがどんな状況だろうと何も影響を受けないはずの車体に、緑色の雷が蔦のごとく絡みつく。

 その蔦がにわかに明滅したかと思うと――何と長大な赤色の車体が、幻燈結界側へと引き込まれてしまったではないか。

『なっ、何ぃぃ!?』

 己の足下へ現れた赤色のバスに、零壱式の内の一機が驚愕を叫ぶ。

 だがその驚愕が乾く間も無く、更なる異常事態がレーダーに映り出す。

 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ――まだ増える、まだまだ増える。足下のルートマスターと同じ反応を示す光点が、レーダー網の上へ矢継ぎ早に刻まれて行く。

 これらは全て、エルドの緑光によって幻燈結界側へ取り込まれた、哀れなルートマスターの所在であった。

『ンフッ! ンンーフフッフ! 大! 成! 功! 会社を作ってまで仕込みをしたのは随分昔の事なのですが、問題無く動作してくれたようですね! 素晴らしい!』

 感極まった笑みを浮かべながら、頭上で大きく両手を打つエルド。その喜びに当てられたのか、フェアリー達も満面の笑顔で追従の拍手をする。

 ――以前、サトウと語っていた準備の話。

 あの中で最も時間をかけて用意されたのが、このルートマスターを引き込む準備である。

 基本的には、以前キクロプスが日乃栄高校で見せた行動と大差ない。

 即ち、幻燈結界の破壊である。

 とは言っても、その規模はキクロプスの所行とは比べものにならないほど小さい。あれよりももっと微細な、針の穴くらいの隙間を造って霊力を結界外へ流す程度の、チャチな代物だ。

 緑光の照射は僅かに数秒。この程度なら幻燈結界自体が流動している霊力によって、すぐ自己修復されてしまう。実際この時もそれは問題無く機能し、結界は十全の能力を取り戻した。

 だから、問題無く取り込んでしまったのだ。

 修復したすぐ向こう、鎧装展開術式と同等の霊力を発露したルートマスターの車体を、内部の乗客ごと。

 そうした一部始終を切り取る立体映像モニタに、冥は釘付けになっていた。

「へぇぇ、中々大した手品じゃないか。一体いつから仕込んでいたんだ?」

「さて、その辺は企業秘密なので私には答えかねます」

 にこやかに笑うサトウだが、ある会社の名を脳裏で反芻する。

 ダーゲンハム鋼業。エルドがグレンへ特別に百ポイントを進呈したあの日、話題を掠めた偽装会社の名前である。

 その名の通り金属加工を主業務とするこの会社は、ルートマスターの部品構築を担当した会社の一つであり――その社の重役の椅子は、怪盗魔術師の分霊が大部分を占めていた。

 だから、きっと簡単だったのだろう。ウェストミンスター区を走るルートマスターの車体部品に、術式を仕込んでおく事など。

『な、ん、だとぉぉぉ!?』

 かくて発動した怪盗魔術師の切り札に、ディスカバリーⅢ隊長機が皆の心境を代弁するかのごとく叫んだ。

『霊力は秘匿されねばならない』と言う、全世界共通の不文律をこうも堂々と破ったとあれば、さもあらん。

『ル、ルートマスターの反応、まだ増えます』『何だ、何だってんだこれは……』『ふがー! ふんがー! もががー!』

 防衛部隊の困惑と、オラクルの悲鳴。ただでさえ混乱する通信網は、更なる大音量によって細切れに引き裂かれた。

『あ あ あ!』

『あ あ あ あ あ!』

 まるで動物園の獣達が一斉に吠え始めたような、そんな悲鳴が霧と鎧装のスピーカーを撹拌したのだ。

 だがきちんと耳を澄ませれば、その咆哮は人間の叫びが集束したものである事が分かっただろう。

 音源は、怪盗魔術師によって異界へと引き込まれてしまった、哀れな乗客達だ。

 乗客達は見た。いつもと変わらぬ日常が、一瞬で薄墨色に塗り潰された奇妙を。

 乗客達は見た。いつもと変わらぬ町並みが、溶けた鉛のような霧に塗り込められた異常を。

 そして、乗客達は見たのだ。霧の向こうで蠢く、怪物達の影を。

 それはトカゲの頭を持つ怪物リザードマンであり、奇妙な鎧を着込んだ兵士達であった。全身の鋼を軋ませる機械巨人ディスカバリーⅢであり、炎のような一つ目で町を睥睨するキクロプスであった。

 状況は混濁していたが、それでも怪物達は未だ交戦を続けていた。それが義務だとばかりに。

 そんな鉄火場の最中に、何も知らぬ乗客達は二階建てバスの形をした棺桶ごと、いきなり投げ込まれたのだ。

 故に――。

『あ あ あ あ あ あ あ !』

 ――このような悲鳴が各所で上ったのは、むしろ必然であると言えた。

『ぬ、ぅ』

 センサーをフル稼働させ、隊長機は全力で情報収集に努める。

 全てが後手に回っている状況だ、まったくもってうまくない。だが、臍を噛んでいる暇は一秒とてありはしない。

『まずは市民の確保が最優先だ! 歩兵部隊は各自散開、バスの市民を――』

 素早く、かつ的確な隊長機の指示。

 しかしてそれが履行される前に、状況はまたがらりと変わった。

 あれだけ凄まじかった悲鳴が、ピタリと止んだのだ。

『こ、今度は何だ!?』

『隊長、乗客達の様子がまたおかしくなってます! 映像を!』

 訝しむ隊長機に、歩兵部隊の一人から映像の転送要請が届く。すぐさま隊長はコンソールを操作し、要請を了承。歩兵のヘッドギア付属のカメラが撮った映像が、コクピットのモニタに同調。

 かくして、隊長は見た。

 どこかの街角、停車したルートマスターの中。ほんの十数秒前まで絶叫し、出入り口へ殺到していたらしい乗客達が、大人しく整列して席に戻っていく一部始終を。

『なん、だ?』

 異様な光景だ。だがそれ以上に、乗客達の浮かべる表情が隊長を釘付けた。

 彼等は皆、笑っていた。老人、若人、男、女。容姿も性別も一切関係なく、皆同じ形の笑いを顔面に貼り付けていたのだ。

 そして隊長は、それと良く似た形の笑顔を、ごく最近見ていた。

『エルド、ハロルド、マクワイルド……?』

 知らず、その名が隊長の口から漏れ出る。

 そう。乗客達が浮かべる笑顔は、テムズ川のステージに現れた怪盗魔術師の表情と、まったく同じだったのだ。

『まさか……禍憑まがつきになっちまったってのか!?』

 叫ぶ隊長。その推察は、残念ながら的中していた。

 乗客達は怪盗魔術師の計略によって、いつぞやのいずみと同じ禍憑きにされてしまったのだ。

 憑依したのは怪盗魔術師の土台となった、とある高位分霊。媒介となったのは、先程からウェストミンスター区に充満しきっている霧、そのものだ。

 これこそが、エルド・ハロルド・マクワイルドが長年企てていた狙いだった。

 自分達の存在と引き替えに、高位分霊を封じた水。これを霧に変えて放出し、大量の禍憑きを造り出す――紆余曲折はあったが、計画の第二段階は概ねつつがなく完了した。

 そして今、第三段階の開始を、ステージ上のエルドが高らかに告げる。

『ンフフ! ンンーフッフッフフゥゥ! やはり流れはこちらに来ているようですねぇ! それでは次のステップにィ――進んで見ましょうかぁ!』

 くるくると手の中で回転した後、まっすぐに振り下ろされるエルドのステッキ。

 かぁん、と硬質な音を打ち鳴らす石突。それと同時に、膨大な霊力がウェストミンスター区に溢れ出した。

 禍憑きとなった乗客達が、一斉に霊力を放出し始めたのである。

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