Chapter03 魔狼 02


 時間は少々さかのぼり、朝六時三十分。日乃栄ひのえ高校翠明すいめい寮、男子棟三○一号室。

 この日、辰巳たつみは最悪な気分で目を覚ました。

「……あー」

 眠れなかった訳では無い。身体の調子はすこぶる良好、いつも通りのコンディションだ。

 だというのに、どうにも調子がおかしい。

 理由は辰巳自身、分かりきっている。昨日風葉かざはと話した事柄が、心のどこかで尾を引いているのだ。

 そう遠くないうちに、風葉はフェンリルを抜き取られる。その上で、凪守なぎもりに関わった記憶は全て改竄される。そう珍しくも無い、何かの拍子でこちら側と接点を持った一般人から秘密を守るための措置だ。

 だから程なく風葉との関係は、事件が起きる前の顔見知りレベルに戻るだろう。

 それからギノアに関するいざこざを終わらせてしまえば、この一件は全て終わりだ。世は全て事も無く、日乃栄高校には平凡な日常が戻ってくる。

 だというのに。

「引っかかりがあるのは、何でかね……」

 らしくない。

 ぐしぐしと寝癖頭をかきながら、取りあえず辰巳はジョギングするために部屋を出た。

 いつもの日課だという事もあるが、それ以上にとにかく何か、気晴らしをしたかったのだ。



 午前七時三十分。

 気分はさっぱり晴れなかった。

「ああもう」

 それでも日常生活をこなすべく、辰巳は食堂で黙々と朝食をかきこんだ後、自室に戻って速やかに着替えを済ませる。

 気付け代わりに冷蔵庫から牛乳を取り出してガブ飲みし、忘れ物が無いか確認し、さほど必要性を感じない鍵をかけて学校を目指す。

 まったくもっていつもと変わらない、五辻辰巳の登校風景。

 それを、一人の女生徒が途中で阻んだ。

「……やっほう」

 霧宮風葉である。

「……やぁ」

 知らず、辰巳は廊下の真ん中で足を止めた。

 昨日と同じ事務室が見える窓の脇、昨日と同じ黒髪のポニーテール姿の風葉。

 違うのは制服を着ている事と、鞄を提げている事。

 それから何よりも、微妙な表情をしている事だろう。

 怒っているような、悲しんでいるような。そんな顔だ。

 何故そうしているのか。理由は薄々検討はつくが、あえて辰巳は知らぬふりをした。

いずみさんを待ってるのか」

「いつもはそうしてるんだけどね。今日は先に行ってもらったよ」

「そうかい」

 にべもなく顔を背け、玄関へ向かって歩き出す辰巳。

「ちょっと待ってよ」

 その正面に回り込み、風葉は辰巳の登校を引き留める。

「私が待ってたのは、五辻いつつじくんだよ」

「昨日も聞いたなそのセリフ。まだ何か聞きたいってのか」

 す、と辰巳の目が少し細まる。まるで敵を睨め付けるかのように。

 だが風葉は引かない。逆に、真っ向からその視線を見返す。

「逆だよ。私は、五辻くんに言いたい事があるの」

 半ば睨んでくるような、上目遣いの視線。

 戸惑いはあっても、それでも自分を貫こうとする意志の強さが、瞳の中にあった。

 知らず、辰巳は片眉をつり上げる。

「……手短に頼みたいもんだな。八時まであと十分も無い」

「ん、分かってる。そんな時間がかかるもんじゃないよ……でも、ちょっと待ってね」

 言うなり風葉は目を閉じて、深く息を吸い、吐いた。

 更にもう一度吸い、吐いた。

 深呼吸である。

「……なんかのまじないか?」

「ちょっと緊張しちゃってさ。もうちょい待って」

「はぁ」

 気の抜けた溜息をつく辰巳とは対照的に、風葉の表情は割と真剣だ。考えをまとめたり、心を落ち着けたりしているのだろう。

 少々手持ち無沙汰な辰巳は、何気なく玄関を眺めた。

 ガラス戸の向こうにあるのは、朝日に照らされるひび割れたアスファルト。その隙間から顔を出すたくましい雑草。かさかさの白線に沿って止められている寮長の軽乗用車。

 そして、季節感を無視した白いコートの白人男性。

「――、」

 その顔を、辰巳は良く知っていた。

 驚愕する辰巳を余所に、風葉はよし、とつぶやく。どうやら精神統一がようやく終わったらしい。

「私はね、五辻く……ん?」

 風葉は言葉に詰まった。

 言いたい事を見失ってしまったから、では無い。

 辰巳の視線が、自分を見ていなかったからだ。

「ちょ、ちょっと五辻くん? ちゃんと聞いてよ」

「……悪いがその話、放課後にしてくれるか。急用が出来たんでな」

 口調こそ変わらないが、辰巳の目は先ほど以上に鋭さを増している。

 思わず、風葉もその視線を追う。

 ガラス戸の向こう。時代錯誤な白いコートの男が、朝日の下で笑っている。

 その男に、風葉も見覚えがあった。先日、いわおに渡された資料に載っていた写真の男だ。

「あれ、って」

「ギノア・フリードマン……の、分霊だろうな」

 それとなく風葉を背中に庇うよう前に出ながら、辰巳はギノアを鋭く睨む。

 なぜ、何のためにギノアは再びやって来たのか。前回のように緊急の幻燈結界げんとうけっかいが働いていない以上、少なくとも日乃栄の霊地に干渉されてはいない事は確実だ。

 ならば狙いは辰巳か、それとも風葉か。

 そもそもどうして攻めて来ないのか。鎧装展開がいそうてんかい術式ですぐさま装備を調えられるとは言え、今の辰巳は丸腰同然である。だというのに、ギノアは未だ動く気配すら見せない。

 一体、何のつもりなのか。余裕なのか、それとも何か狙いでもあるのか。

 どんなに考えを巡らせても、今は何も分からない。

 はっきりしているのは、その存在を放置する理由は微塵も無い、と言う事。

 それと、その戦いに非戦闘員を巻き込む訳にはいかない、と言う事だけだ。

 だから、辰巳は言い放つ。振り向きもせずに。

「今すぐ幻燈結界と転移術式を開く。学校の方はどうとでも誤魔化すから、霧宮さんは天来号てんらいごうへ避難するんだ。いいね」

 言いつつ、辰巳は左腕の腕時計を口元に寄せる。

「こちらファントム4、重要目標であるギノア・フリードマンを発見した。これより接触を試みるが、その前に非戦闘員の収容を願う。場所は日乃栄高校にある学生寮の事務室だ」

『了解。これより転移術式と幻燈結界を展開する』

 ファントム・ユニットの誰かでは無い、恐らくは天来号で転送を担当している職員が応えた。

 直後、空気がみしりと震える。

 まず周囲の景色が色を失い、何もかもが薄墨色の中に沈む。幻燈結界だ。

 次いで背後にある事務室の扉が、明らかに自然光では無い輝きを発し始めた。先日風葉の部屋に現れた転移ゲートが、今度はすぐそこの事務室に現れたのだ。

 ――転移術式を開くには、結びたい二箇所の地点にあらかじめ術式を用意しておく必要がある。その形は状況や術師の技量によって様々だが、基本的にはその地点にある扉を媒介として行われる。組み込みやすいからだ。

 そして翠明寮は地下の霊地を管理する都合上、出入り口兼非常用宿舎として、ほぼ全ての扉に転送術式が仕込んであるのだ。老朽化著しいのに中々取り壊されない理由が、ここにある。

「い、五辻くん……」

 不安な顔で見上げる風葉だが、辰巳の態度は変わらない。

「早く行け」

 言うなり鞄を風葉に放り投げ、辰巳はまっすぐに玄関をすり抜ける。

「、う」

 また、何も言えなかった。

 自分でも訳の分からない憤りを感じながら、風葉は事務室の扉に飛び込んだ。



「待たせたな、ちょいと立て込んでてよ」

「お構いなく。こちらとしても幻燈結界は欲しかったのでねぇ。これから色々と荒事をする予定ですし」

 余裕の笑みすら浮かべるギノアに、辰巳は真正面から相対する。

 距離、およそ十五メートル。薄墨に染まる風景の中で、それでも色を保っている二人の視線が交錯する。

「散歩コースだってんなら道を間違えてるぜ。文化祭でも無い限り、日乃栄高校は基本的に関係者以外立ち入り禁止だ」

「ほほう、そうでしたか。それは申し訳なく思いますが、私にも目的がありましてねぇ」

「内容次第じゃ手伝ってやらなくもないぞ。立ち話も何だし、見晴らしの良い所に案内しようじゃないか。成層圏の上とかオススメだな」

 にやりと口の端をつり上げながら、辰巳は目の前の敵を鋭く睨む。その一挙手一投足を絶対に見逃さない為に。

 対するギノアは一歩も動かない。ただ笑顔の中に、僅かな困惑が混じるのみだ。

「せっかくのお誘いですが、お断りしますよ。後ろ手に縛られたら何も出来ませんし、何よりもここで、この状況でやる事にこそ意義があるのです」

 淀みなく放たれる回答。それを構成する単語の中に、辰巳は明確な拒絶と宣戦布告を見た。

「今、ここで、か。何をする気だ」

「夢を叶えるのですよ。前にも言ったでしょう?」

「そうだったな。で、その為に何が必要だ? なぜ日乃栄高校を選んだ?」

「それは簡単ですよ。大量の霊力と、ファントム・ユニット4番の排除が必要だったと言うだけです」

 さらりと、ギノアは言い放った。

 五辻辰巳を殺す、と。

「……何のために」

「さぁて。どうしてでしょうねぇ」

 言いつつ、ギノアは戦闘態勢に入る。

 コートに縫い付けられた青い刺繍――何らかの術式が光を帯び、更にゆったりした袖の中から短い杖が姿を現す。

「まぁ、こちらから言いたい事は一つだけです。死んで頂けませんかねぇ?」

 未だ浮かぶ笑みの下に明確な敵意を覗かせながら、ギノアは杖を打ち下ろした。アスファルトを叩く石突が、カン、と無機質な音を鳴らす。

「俺が狙い、か」

 辰巳は鼻を鳴らした。

 狙いは風葉フェンリルでは無い。その事実に、辰巳は少し安堵する。

 安堵しながら、左手刀をギノアへ突きつけ、袖をまくり、肘を基点に振り上げる。

 顔を出す腕時計。その文字盤を、辰巳は下へスライド。

「セット、プロテクター」

『Roger Get Set Ready』

 未だに崩さぬギノアの薄笑いを睨みながら、辰巳は叫ぶ。

「ファントム4! 鎧装展開ッ!」

 放たれる指示、展開する術式。

 白光と共に制服は消失し、入れ替わるように現れた漆黒のプロテクターと銀色の左腕が、辰巳の身体を包み込む。

「ファントム4、着装完了」

 全ての疑念を振り払いながら、辰巳はゆるりと半身に構える。

 左腕を盾のごとく前面に構えた、いつもの戦闘態勢。

 もはや辰巳の思考には、眼前の敵を打ち倒す事しかない。

 対するギノアの脳裏にも、夢の障害を排除する事しかない。

 両者の間に言葉は無く、けれども交錯する闘志は雄弁に全てを物語っていて。

「ならばその夢とやらを、今、ここで終わらせる」

 かくして開かれる戦端が、幻燈結界を揺るがした。

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