第127話 螺旋カレイドスコープ
自他ともに認めるさっぱりとした性格。
山下亜季の見た目から想像した中身と、実物は、殆ど大差がない。
勿論、可愛らしい面もあるけれど、どちらかと言えば男勝り。
過去には拘らないタイプ。
そんな彼女が、結婚後も後生大事に持ち続けている一粒ダイヤの指輪。
「・・なんで見つけるかなぁ・・・」
タイピンを探して、普段は開けない引き出し探していたら、同じような装丁の箱を見つけてしまった。
迷うことなく開いた矢先、飛び込んで来たのは何処からどう見ても高価な指輪。
しかも、丹羽が亜季に贈ったものではない。
ずしんと胸に落ちた複雑なわだかまりが、重石のように気持ちを沈ませる。
これは、多分、そういうものだ。
ただのファッションリングではない。
その証拠に、箱の内側のブランドロゴは、国内外で人気を誇る老舗のものだった。
仮に、仮にだ。
万一、これが亜季が過去に受け取ったもので、終わった恋の象徴で手放せなかったのだとしたら、きっと実家に保管されている筈だ。
わざわざ新居に持って来る理由がない。
それとも、どうしてもこれを傍に置いておきたい理由があったのだろうか。
やむにやまれぬ事情で別れた恋人からのプレゼントとか。
過去の恋愛については言及しないスタイルを貫いている丹羽夫妻なので、その辺りの詳細は分からない。
が、ただの指輪じゃない、間違いなく、婚約指輪だ。
先日、亜季が一人で実家に帰省した事があった。
あの時に思い出して、昔の恋が蘇って来た・・・?
ありとあらゆる可能性を思い浮かべて、それらを一つずつ順番に消していく。
ここ最近の夫婦生活は至って順調且つ円満。
喧嘩もしていないし、丹羽は出張にも出かけていない。
むしろ大きな案件が落ち着いて、早く帰れる日が増えたくらいだ。
またすぐ次の大型案件が始まるが、それまでの時間は、ふたりでのんびり過ごせると喜んでいたのに。
もしや、すれ違いの日常に慣れ過ぎて、一緒に過ごす時間が窮屈になって来たとか?
亜季の帰宅後一時間も経たないうちに、我が家に帰りつける幸せを噛み締めている丹羽とは逆に、マイペースで過ごせる一人時間が減って不満があるとか?
考えれば考える程深みにはまって出口が見えない。
気付かないままなら、何の疑問も抱かずに済んだのに、こうして確かめてしまったら最後、答えを見つけるまで思考は止まらない。
「・・訊く・・・って言ったって・・何て・・・?」
亜季、コレ・・と差し出した指輪を見た瞬間、彼女は表情を曇らせるだろうか?
それとも、慌てて言い訳を口にするだろうか?
万が一にも、ごめんね・・と涙ぐまれたら。
「・・・っ!」
一番想像したくない映像が頭に浮かんだ瞬間、丹羽は、指輪の箱を掴んで寝室を飛び出していた。
タブレットの手順を確かめながら、簡単ですぐに食べれて美味しいレシピの再現真っ最中の亜季は、キッチンで忙しなく立ち回っている。
結構な勢いでリビングのドアを開けた丹羽が、真っ先に妻の名前を呼んだ。
「亜季」
「なに?・・どうしたの・・そんな怖い顔して・・・」
エプロン姿の新妻が、お玉片手に怪訝な表情を浮かべて来る。
すっかり馴染んだ日常の一部が、崩れ去るだなんて想像すらしたくない。
お互い独身の一人暮らしが長かったせいで、生活スタイルの違いはあれど、譲り合って、認め合って上手くやって来たつもりだ。
この生活に不満何て一つも無い。
当たり前のように訪れる朝を、これからも繰り返していくのだと、確信を持っている。
けれど、それはあくまで丹羽の主観。
そこに亜季の気持ちは含まれていない。
聞こえて来る答えを想像すればするほど、胃が痛くなる。
それほどまでにこの生活を手放したくないのだ。
一人きりの部屋に舞い戻る事は考えられない。
亜季を、他の誰かの手に委ねるなんて、もっと考えられない。
大人になればなるほど、折り合いを付けて、自分を納得させる事に慣れて来た。
社会でうまく立ち回る為には必要不可欠な術だったし、無駄な敵を作らない事で、煩わしい現実が幾らか歩きやすくなる事を知ってからは、さらにその思いは強くなった。
おかげで競合他社とも上手く渡り合って、情報交換しつつ良い位置をキープできている。
器用な方だと自覚していた自分が、こうも何かに執着するなんて。
亜季を手放す事は考えた事が無かったが、今こうして目の前に直面した夫婦破綻の可能性を握る爆弾が、丹羽の奥底の本音を引きずり出していく。
自分たちを引き離そうとするありとあらゆる要素を全て取り払って、かき消して、それでもは向かってくる存在は切り捨てられる覚悟が一瞬で固まった。
温厚な性格だと自覚していたつもりだったが、とんでもない。
少しも優しくなんかない。
剣呑な眼差しを向ける丹羽に向かって、亜季は伺うような視線を向けて来る。
その目の前に、言い逃れ出来ない指輪を差し出した。
「タイピン探してたら見つけた。これ、婚約指輪だろ?」
一息で告げた問いかけに、答えが来るまでの数秒。
制止の狭間を彷徨う気分の丹羽に、落とされたのは全く予想だにしていなかった真実。
「あ、やだ!なんで持ってきちゃうの!汚れたら困るからしまってきて!」
「持って来るだろそりゃ。どう考えても俺が贈ったものじゃない」
「岳明から貰ったのは、別の場所に大事にしまってあるわよ。いいから、直して来て」
「出来るわけない、ちゃんとわかるように説明して」
「説明って・・・だってそれあたしのじゃないもん」
「じゃあ誰のだって言うの・・?」
声に凄みが増したが致し方ない。
どうして他の人物の婚約指輪がこの家にあるのだ。
尚も問いかける丹羽に、亜季がお玉を振り回しながら呆れた顔で言った。
「お姉ちゃんのよ!旦那さんと喧嘩して、捨てるって喚き散らして出て来たっていうから、預かり中。それ、すんごい高いから、汚したら本気で叱られるから、早く片付けて来て」
「え、咲季さん・・・?」
「指輪の内側に、dear saki の文字彫りしてあるでしょ」
「・・・見てないよ、そんなの・・・これ見つけてそれどころじゃなくて・・」
「ついでに言うなら、お姉ちゃんの指9号だけど、あたし10号だから、左手の薬指には入りません!納得した?」
「・・・納得した・・」
「もう、何よ。怖い顔で詰め寄って来るから何事かと思ったわよ・・・他の男から貰った指輪持って嫁ぐわけないでしょ」
「いや、そうだけど、だからこそ、色々複雑な気持ちがあったのかな、とか・・・」
「・・・あたしが、そういうの引きずって生きてる女に見える?」
腰に手を当てて首を傾げる亜季の表情には一切の迷いがない。
ああ、そうだった。
丹羽の良く知る亜季が間違いなくそこに居た。
頭の中で思い描いていた色んなパターンの亜季の姿が、砂のように消えていく。
同時に、胸の奥に燻っていた不安も、胃を重たくしていた重石も綺麗に消えた。
「いいや・・・見えない・・」
「でしょ?」
「だけど、これ見つけた瞬間の俺の気持ちも考えろよ。最悪のパターンも想定した」
「あはは!想定したんだ!ばっかねー。あるわけないでしょう。綺麗な指輪だと思うけど、ちょっとあたしには華奢過ぎて似合わないわよ」
言われてみれば、細身のデザインは、女性らしいが華奢過ぎて、亜季の普段身に付けるアクセサリーとは類が違う。
冷静になれば、いくつもの違和感が浮かんできて、どれだけ自分が冷静さに欠けていたのか思い知らされた。
バツが悪くなって視線を逸らす。
「ちなみに、あたしは喧嘩しても、婚約指輪は捨てたり売ったりしないから、安心してね。宝飾品メーカーに勤める人間として、それだけは絶対にしません」
「そこは安心していいとこなのか・・・?俺から貰ったから捨てられないとかじゃなく?」
「勿論!それが大半だけど、作る工程とか、原価率とか、色々計算しちゃうから。海に捨てるとかいうロマンチストな女の子がいるけど、あり得ないって本気で思うし。
どんだけ手間かけて作ってると思ってんだ、ってなるわ」
「・・・あー・・そう・・・いや。安心した。うん、それでこそ亜季だ」
どれだけ忙しくても、邁進出来るのは、この仕事に誇りを持っているから。
装飾品の中で、一番思いを届けやすいアイテムであると同時に、身に付ければ前を向かせてくれるアイテムでもあるジュエリーは、女性の味方だ。
無敵の輝きを誇るそれを身に着けるだけで、一気に自分が格上げ出来る。
本人は身に着ける事にさほど執着しないが、製作段階となれば話は別だ。
仕入れたルース石の加工過程までしっかり把握している亜季なので、尚更思い入れは強い。
誰かに届ける為に作られた商品を、必要なくなったからと言って、その他のゴミと同列に扱えるような人間ではない。
「ねえ、で、タイピンは見つかったの?」
「ああ・・忘れてたな・・もう疲れたし、後でいい・・何か手伝うよ」
この指輪を見つけた瞬間から、全ての意識は指輪に切り替わっていた。
タイピンの事は今の今まで忘れていたくらいだ。
正直、もうどうでもいい。
一日働いた以上の疲労感に襲われて溜息を吐いた丹羽に、亜季が気づかわしげな視線を向けて来る。
「もうすぐ出来るから、座ってれば?」
「・・・いや、いいよ。こっちの方が落ち着く・・」
「・・・ならいいけど・・・あ、じゃあ、お皿だして。大きめのスープ皿ね。これは前のよりも美味しいミネストローネになっている筈」
「了解・・・でも、その前に、ちょっとだけ抱きしめさせて・・・俺の事労ってよ」
拒まれる前に亜季の身体を抱き寄せて、腕の中に閉じ込める。
どことなく肉感が足りないところも含めて、亜季の全てを心から愛しいを思える。
やっぱりこれを手放すなんて、何があっても絶対に考えられない。
「うん。お疲れ様・・・余計な心配かけてごめんね。これからもたまにこういう事あるかもしれないから、覚えておいて」
あっけらかんと笑った亜季の頬にキスをして、仲の良い姉妹も考え物だな、と頭の片隅でぼんやりと思った。
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