第91話 薬指は心に繋がる

肌身離さずつけている結婚指輪、料理中も、入浴中も勿論外すことなんてない。


日替わりでアレコレ付け替えるアクセサリーだって、皮脂汚れで変色するのに、一番身近な指輪が無事な訳がない。


普段は気にならないのだけれど、ふとした瞬間、目につくと気になってしょうがなくなる。


「お疲れ様ですー、亜季さん」


工程管理室のドアを開けて入って来た暮羽が、布製の小さな選別台を持っていた。


真珠の選別や、ダイヤモンドなどの石の鑑定の際に、商品が傷つかない様にする為に使用する箱には、誰かの腕時計や、ピアス、ネックスレス、指輪が並んでいる。


商品部の暮羽は、時折お使いで商品の受け取りや、急ぎの特注品を預けに来ることはあるけれど、アクセサリーを手に亜季のもとに尋ねてきたことは一度もなかった。


お茶の時間をわずかに過ぎた午前11時。


午前と午後に一度ずつ出る社内便の、朝の締め時間も終わり、昼休憩まで少し余裕が出る時間帯だ。


「お疲れさま。暮羽ちゃんがこの時間にうちに来るなんて珍しいわねー・・・なにそれ、私物?」


「今日課長お休みで、選別無いんです。特注も和花ちゃんと二人でやったらあっという間にさばけちゃって、時間が出来たんで、久々にアクセサリー類を磨きに出そうかって事になって・・」


「なるほどねー、二人分が今日身に着けて来た貴金属ってわけ?」


指輪が3つ、時計が1つ、ブレスレットに、ネックレスが2つ。


華奢な指輪2つは、和花と暮羽の結婚指輪で、濁りのない見るからに高そうな石がはめ込まれた指輪は、和花の婚約指輪だそうだ。


順番に指差して説明をしながら、暮羽がうっとりと和花の指輪を見つめる。


「そうなんですー。ほら、見てください、和花ちゃんの指輪!


今日で入籍してから丸一か月なんですってー。


わざわざつけて出勤するなんて可愛いと思いませんか?


久々に婚約指輪嵌めたら、指が重たいって嘆いてましたけど」


「わー・・ほんっとに、東雲の本気が伺える輝きね。うちの会社のイケメン達は、どんなお姫様を捕まえるのかとハラハラしてたけど・・・二人ともきちんと見る目があったみたいでほっとしてるわ」


亜季がにやりと微笑む。


こんな風に茶化すみたいな軽口が叩けるようになるなんて、時の流れを感じる。


相良を思い続けていた頃は、暮羽と二人で仲睦まじく話し込む姿を遠目にするだけでも胸が痛んだのに。


今や、彼女は同僚の可愛い奥様だ。


そして、亜季にとっても心底可愛いと思える後輩でもある。


相良と結婚できるなんて思ってなかったけど、それ以上に自分が誰かの人妻になるなんて、想像もしてなかったわよね・・・


お局様と呼ばれるようになって数年経っていたし、実際に年下の後輩達を何人も寿退社で見送った。


花嫁のブーケを勇んで掴みに行くような年齢を過ぎて、このままお局として会社に君臨し続ける未来が、一番可能性のある将来だと思っていた。


実際、ついこの間までそうだったわけだけれど・・・


可愛いデザインのウェディングドレスは似合わないし、真っ白は気恥ずかしい。


繊細なレースが似合う”可憐”と呼ばれる時代はとうに過ぎていたから、最後までドレスには悩まされたけれど。


それでも、丹羽に押し切られる形で挙式を行ってよかったと思えた。


不思議な事に、とうの昔に胸の奥で死んで、土に返っていたと思っていた乙女心が、恋愛が始まると同時に再び息を吹き返したのだ。


誰かの視線を意識するだけで、毎日はずっと新鮮になる。


丹羽は、本当に良く出来た夫で、亜季の僅かな変化も決して見落としたりはしない。


美容室を予約した後には、必ずディナーに連れ出してくれる、思いやりと気遣いに溢れた男。


長年一人で培ってきた、強がりと、意地っ張りと、天邪鬼をうまくいなして、亜季を素直にさせてくれる天才だ。


彼の手にかかると、あっという間にカッコいい女の武装が剥がれる。


この年にもなって、一人で立っていられないのは惨めで情けないから、せめて強くありたいと、必死に踏ん張って前を向いた亜季の背中を優しく抱きしめて守ってくれた人。


彼が贈ってくれた結婚指輪は、亜季の好みに合わせた、主張しすぎないけれど、しっかりとした存在感のあるデザインだった。


この指輪を見る度、負けてしまわない様に、と胸を張れる。


”愛されている”と確信が持てたら、それだけで背筋が伸びるものだ。


大好きなあの人のために、俯いてなんていられない。


恋が、愛が、すべてのパワーの原動力になる。


”女の子”で良かったと、亜季は結婚してから何度も思った。


丹羽の隣で過ごす毎日は、亜季に、女性としての幸せをいくつも教えてくれた。


「二人って慧くんと、瞬くん、ですか?」


小首を傾げる暮羽に、亜季は違うわよと首を振る。


「結婚しちゃった人たちだけカウントしてんの。ちなみに、樋口は、優しすぎて意気地なしだったから、あたしの中ではノーカウントよ。ああいうのをヘタレっていうのよね、本命の前だといっつも肝心な時に押し切れないの。だから、この場合は東雲と相良ね」


「慧くんと和花ちゃんは・・・もうほんとに運命みたいなふたりだと思いますけど・・・あ、あたし達は違いますよ!!いまだに直純の審美眼疑っちゃいますもん。うっかりあたしと結婚しちゃったんじゃないかなって・・・失恋してあたしが思いっきり凹んでたから、放っとけなかっただけじゃないかなって」


みるみる声が萎んでいく暮羽は、まるで萎れた花のようだ。


最愛の妻が、こんなに自信を無くしてしまう位、愛情表現が下手くそなのかしら?と亜季はげんなりしかける。


相良の場合は、大切にし過ぎて言葉に出来ないタイプだ。


本当は暮羽の事をもっともっと砂糖漬けにして甘やかし放題やりたいけれど、あんまりしつこくして嫌われるのが怖いから、手探りで甘やかしている最中に違いない。


長年間近で見て来たからわかる。


一度相良の頭割って、中見せてやったらこの子は安心するからしら?


脳の髄まで、暮羽ちゃんの事しか考えてないって断言できるけど??


とは思うものの、さすがにそんな事は口にしない。


こういう場合、有効なのは確かな証拠だ。


「じゃあ、訊くけど・・・2日と開けずに真珠の上がり具合をわざわざ直接見に来る必要があると思う?商品部には北村さんっていう頼りになる課長も居て、工程管理には勝手知ったるあたしもいる。電話一本で事足りるし、何なら優秀な部下の東雲くんに行かせればいい話じゃない?東雲くんの仕事奪ってまで、無い時間割いて、朝会ったばかりの妻の顔を見に行くのはなぜでしょう?」


「それ・・・は」


全くもっておめでたい話だ。


慧と相良は、商品部に行く日を交代制にしているらしい。


家に帰れば嫌というほど顔を突き合わせるだろうに、彼女の様子がそこまで気になるなんて、これを溺愛と呼ばずになんと呼ぶだろう?


口ごもった暮羽が、俯いて赤くなる。


「あたしが聞いた話だと、どうしても外せない用事がある以外は、二人ともほかのメンバーに行かせないようにしてるらしいわよ。そんな立派な結婚指輪贈っておきながら、何をいまさら牽制してんのかと思うけど・・・それ位、暮羽ちゃんと、和花ちゃんの事が大事なのね。世の中には忙しい、を言い訳にして愛情表現を怠ける旦那様が五万といるらしいから、この恵まれ過ぎた状況は有り難いと思わなきゃだめよ。窓際族の夫ならともかく、これからの志堂を担うエース級のメンバーなんだから」


「・・・はいっ」


「まったく、愛されてないかも、同情かも、なんて、相良が訊いたら怒るどころか、ショックで寝込むわよ?相良はね、逆に暮羽ちゃんの失恋に付け込んだのよ。弱ってるところに砂糖突っ込んで、根こそぎ奪っちゃうの。それ位、暮羽ちゃんの事を好きだったんだと思うわ。同期のあたしから見ても、目も当てられない位、必死だったもの。まあ、相手がみんなのアイドル瞬くん、じゃあしょうがないと思うけどね。とにかく、言い年した男が、大人気もなく外堀埋めまくって、周り牽制しまくってあんたを手に入れたんだから。そこはもっと自信持ちなさいね。相良位の必死さが、樋口にもあれば、あっちのふたりは数年は早く結婚してた筈なのに、ほんとにあの時はイライラしたわ」


思い出しただけでも拳を握りしめたくなる。


誰よりも好きなのに、追いかけられない佳織と、強引に連れ去ることが出来ない紘平。


グダグダ言ってないで、責任取る覚悟あるなら、とっとと既成事実のひとつでも作りなさいよ!


焚きつけるように言ったけれど、半ば本気だった。


無茶言うな!と怒鳴り返した耕平に、さらに突っかかろうとした亜季を、宥めて止めたのは相良だった。


こうして、同期全員が、生涯の伴侶を得て、家庭を築いたなんて、不思議な気持ちだ。


「なんか・・愚痴零しちゃってすみません・・あたし、頑張ります」


亜季さんのおかげで自信持てました、なんて言われると嬉しくなってしまう。


「頑張らなくていいわよ、相良の前で、幸せそうにしてればいいの。それだけで、あの男は満足しちゃうんだから」


片目を瞑って見せた亜季に、暮羽が何度も頷いて、せっかくだから亜季の結婚指輪もぜひ、と勧められて、磨き工程に持ち込んで貰う事にする。


来た時よりも明るい表情で部屋を出ていく暮羽の背中を見送って、亜季は自分まで笑顔になっていることに気付いた。




★★★★★★★




午後から思いのほか仕事が増えて、スーパーのタイムセールに間に合うように急ぎで会社を飛び出したら、うっかり磨きに出した結婚指輪を取りに行くのを忘れた。


定時までには自分で引き取りに行くと話していたのに。


気付いたのはスーパーのレジで、財布を取り出した時だった。


照明を受けて艶を放つ指輪が存在しない。


思わず声を上げそうになって、必死に堪えた。


不幸中の幸いは、落としたわけじゃない事だ。


今頃、亜季の指輪は、仕上げ工程を終えて、引き取り待ちのBOXに収納されて、左手の薬指に帰る日を心待ちにしている。


大丈夫、わざとじゃないし、失くしてもない。


忘れただけ、忘れただけ・・・


上の空でレジを終えて、帰宅するも、やっぱりどうにも落ち着かない。


結婚してから、指輪を外すなんて一度もなかった。


ひと時でも”忘れた”という事実が自分の中に重く伸し掛かる。


たかが指輪よ、大丈夫よ、岳明も気付くはずない。


髪型が変わればすかさず気付いて褒めてくれる彼だけれど、さすがに手元までまじまじ見たりはしないだろう。


亜季が真横でネイルでも塗り直さない限りは。


よし、大丈夫、大丈夫!


気持ちを切り替えて、夕飯の支度に取り掛かる。


遅くなるから、先に食べておくようにと連絡してきた丹羽が、玄関のインターホンを鳴らしたのは、それから2時間半後の事だった。


すでに夕飯を終えて、食器も片付けた後だった。


「ただいまー・・遅くなってごめん」


いつものように玄関まで迎えに出た亜季を、丹羽がやんわりと抱きしめる。


「おかえりー。残業お疲れ様。お夕飯食べるよね?」


食べて帰るとか、ストックのラーメン食べる、という連絡も来なかったので、丹羽分は残しておいたのだ。


「うん、食べる。そのつもりで何も食べずに頑張ったんだ。夕飯なに?」


「トマトと鶏肉のチーズ焼き!ビール飲むでしょ?」


水菜のサラダと、白菜の煮物、いかのお刺身に、昨夜の残りのチンジャオロース、と今晩のメニューを告げる。


平日はいつにもまして適当にあり合わせになる。


休日は二人で台所に立つことも珍しくない。


丹羽が料理に拘らないタイプで本当に良かった。


手の込んだ料理が得意じゃない亜季の適当なメニューを文句言わず食べてくれる丹羽には、感謝しかない。


「いいね。亜季は、付き合わない?」


「え、どうしよ・・・じゃあ、1杯だけ。グラスに分けてくれる?」


荷物を置いて、洗面所から戻った丹羽が、冷蔵庫を開けてこちらを伺う。


「いいよ、1杯でいいの?」


「味見と称して結構おかず摘まんだし、ご飯もたくさん食べたから」


「お肉摘まめる?」


にやっと笑った丹羽が、背後から忍び寄って亜季を抱きすくめた。


「きゃあ!ちょっと脇腹やめてよっ・・やだって」


擽るように脇腹を撫でて、そのまま掌を胸へと滑らせる。


「まだまだ丸くなる予知はありそうだね・・この辺とか・・・全然物足りない」


するりとふくらみを撫でた掌を上から押さえつけて、真後ろを睨む。


「お夕飯、用意しないわよ!」


「それは困るな・・・あれ、亜季」


笑って振り向いた妻の唇にキスをした丹羽が、重なった亜季の掌を凝視した。


し、しまった!!!


「結婚指輪どうしたの?」


「え、あ・・そろそろ汚れて来たから、会社で磨きに出したの。明日には仕上がって返って来るから」


「そっか・・社内だと便利だよな」


「そうよー。ついでに、ピアスも預けちゃった」


嘘は言ってない。


しくしく痛む胸はこの際忘れることにする。


「それなら良かった・・・指輪、外すような何かがあったのかと思って・・心配した」


丹羽の指が、亜季の短い髪を救い上げる。


むき出しになった耳たぶを甘噛みして、そのまま吸い付いた。


「っ・・ん」


「たかが指輪一個無いだけで、一瞬にして色んな情けない事考えたよ、俺」


囁いた唇が項を通って肩口に落ちる。


頬にこすれる丹羽の短い髪がくすぐったい。


身を捩った亜季の身体を押さえつけるように、抱きしめる力を強くして、丹羽が息を吐いた。


「あるわけないでしょ・・・今も、いい旦那さんで幸せだなって思ったところよ」


「そう?それなら良かった・・ねえ。亜季」


「んー?」


「やっぱり薬指に何もないと不安だから、婚約指輪、嵌めててよ」


ぽつりと丹羽が呟く。


穏やかな中に、甘さを含んだ声音が響いて、心臓がぎゅっと掴まれた。


お腹の上で組まれた丹羽の腕に、自分の掌を重ねて頷く。


「いいけど・・・じゃあ、お風呂あがった後でつけてくれる?」


ちらりと背後を確認したら、丹羽が鷹揚に頷いた。


「もちろん。今夜は指輪、嵌めたまま寝ような」


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