第85話 向けた背中は拒絶じゃなくて

「なんで今帰ってくるのよぉおおお!?」


玄関を開けるなり、最愛の妻の口から飛び出した暴言に、丹羽は一瞬帰る家を間違えたのかと疑った。


が、どう見ても目の前に広がるのは見慣れた我が家の廊下だ。


玄関脇に置かれたキーケースも、タイルの床に並んだ靴も、紛れもなく自分のもので。


亜季の機嫌を損ねる事でもしたかな?


今朝の出来事を瞬時に振り返るが思い当たる節がない。


土曜出勤の丹羽の為に、早起きしてサンドイッチを作ってくれた亜季は、笑顔で手を振っていた。


俺が帰って来てはいけないような事態が起こったってことか・・?


「何かあった?」


リビングのドアを僅かに開いて、顔を覗かせる亜季は明らかに動揺しまくっている。


帰って来るなと言われても、ここは丹羽の家なのだから、失礼しましたと出て行く訳に行かない。


足早にリビングのドアノブに手をかける。


と、拒む様に亜季がドアを押し返した。


「ちょ、ちょっと待って!」


「入ったらダメな何ががあるの?」


「駄目じゃないけど、ちょっと待ってっ」


「着替えてたとか?」


付き合い始めならともかく、夫婦になった今、別段恥ずかしがる事も無い。


時には一緒に入浴する事もあるので、亜季がそこまで抵抗するわけもない。


「違うけどっ」


そう言った亜季が、片手をドアノブから外して背中に回した。


「ちょ、ちょっとだけ待ってってば!」


「だから何で?」


その隙に丹羽がドアを強引に押し開ける。


途端亜季が、ドアに縋る様にしゃがみこんだ。


「え、何?」


リビングに何かあるのかと思ったが、見渡した所朝と変わった様子はない。


となると、”帰って来るな”の原因は亜季本人ということになる。


膝を抱える様に丸くなった亜季を見下ろして、丹羽が探る様に目を凝らした。


洋服はいつも通りだし・・・


「あれ・・・」


俯いた亜季の両肩で揺れる真っ白のフリルを見つける。


普段の亜季から想像もつかない位の、ごてごてのフリルだ。


シンプルな洋服を好む亜季のクローゼットに、フリルの洋服は一着も存在しない。


フレアスカートすら抵抗がある彼女は、細身の体に似合うパンツか、タイトスカートが殆どだ。


妻の服装に口を出すつもりは毛頭ないし、亜季の選ぶ服は彼女に良く似合っているので、変えて欲しいとも思わない。


強いて言えば、足が綺麗なんだからもっと出せばいいのに、というくらいだ。


もちろん、自分が一緒の時に限ってだが。


そんなワードローブの亜季の肩を彩る、珍しい白いフリルの正体に気づいた丹羽は、人の悪い笑みを浮かべた。


確かにコレなら、亜季のこの反応も納得できる。


しゃがみ込んで視線を合わせようかと思ったが、勿体無いので引っ張り起こすほうを選んだ。


ドアノブを握りしめる亜季の手を掴んで、強引に引き上げる。


「きゃあ!やだ!!」


「今さらでしょ。ちゃんと見せてよ」


有無を言わさず立たされた亜季の顔が羞恥で真っ赤に染まる。


その様子を間近で見つめながら、丹羽は楽しそうに目を細めた。


「可愛いエプロンだね」


いかにも新婚といった、白地に豪奢なフリルが施されたエプロン。


クラシカルなメイド服に合わせたらもっとしっくり来そうなデザインだ。


膝丈のそれを握りしめて、亜季が大慌てで口を開いた。


「言い訳させて!!」


「なんの?」


「このエプロンの言い訳よ!」


「別に必要なくない?ちょっと・・色々倒錯的だけど・・似合ってるよ」


開いたニットの襟元から覗く、赤くなった鎖骨と白いフリルのコントラストが誘うように視線を呼ぶ。


素直に、そそられるけど、と言えば、全力で否定される事は分かっていた。


「似合ってない!」


丹羽の賛辞をものともせず、ぶんぶん首を振って全否定した亜季が、今度は両手を背中に回す。


その腕を引き戻して、丹羽が待ったをかけた。


「外すことないだろ?」


「いやよ!もう用事済んだの!こういうの、あたしのキャラじゃないから!」


可愛いよりは綺麗。


レースやフリル、リボンとは縁遠いタイプ。


亜季は自分をそんな風に認識している。


そりゃあ、さすがにゴスロリされると止めるけど・・・


こんなに大騒ぎするような代物でもない。


作りはしっかりしているし、安っぽさも無い。


デザインも上品で、亜季によく似合っている。


フリルは肩ひもと、裾にだけ付けられていて、派手ということもなかった。


亜季が自分で選んだとは思えないから、これを贈ってくれた人物は、亜季の魅力を良く理解しているんだろう。


その事に、僅かの嫉妬を覚える。


「いつもよりずっと人妻っぽいよ」


自分で口にして”人妻”という響きが思いのほか扇情的で焦る。


人の妻、じゃなくて、俺の奥さんなんだけど。


丹羽の腕を振りほどいた亜季が、背中のリボンを強引に引っ張る。


が、解けない。


さっきから何度も解こうとしているのに。


亜季の焦りに気づいた丹羽が、肩ごしに亜季の腰の位置にあるエプロンのリボンを確かめた。


「解いてぇ・・」


困り切った表情で亜季が丹羽に訴える。


無理やり引っ張ったせいで絡まったリボンは片結びになってしまったようだ。


簡単に解けないなら、願ったり叶ったりだ。


穏和な視線を妻に向けて、丹羽が亜季の両手を今度は包み込んだ。


指先を握ると、亜季が少しだけ握り返してきた。


「もうちょっと俺の目を愉しませてからでもいいんじゃない?」


「もう見たでしょ!?」


「別に服脱げって言ってるわけじゃないんだから・・」


そんなに嫌がる事でもあるまい、と告げると、亜季が目くじらを立てて睨み返してきた。


目元まで真っ赤になっている。


「な、何考えてんのよ!!するわけないでしょ!ばか!」


男なら誰でも一度はするであろう超べたな妄想。


半ば冗談で言ってみたのだが、亜季には刺激が強すぎたらしい。


勝気なくせに、こういうところは可愛いんだよなぁ・・・


「馬鹿でもいーよ・・・」


イイもの見れたしね、と呟いて亜季の眦にキスを落とす。


「全然よくないわよ!」


「おかえりなさい、あなた、とか、言ってみない?」


折角奥様っぽい格好してるんだし、と提案してみたが、案の定亜季は顔を伏せて首を振った。


「も、もう、本気でばかじゃないの!?」


耳まで赤くして吐き捨てた彼女の背中を慰めるように軽く叩く。


正直、ここまで過剰反応すると思わなかったな・・・


別にこの格好で色々させようというわけじゃないのに・・・


そりゃあ、まあ・・・してくれるなら勿論大歓迎だけど。


むくむくと湧き上がる煩悩を、何とか振り払って、丹羽は亜季の頬にキスをした。


ごくごく普通の、可愛らしいキスだ。


挨拶代わりのそれに、亜季の身体がびくんと震えた。


「っ・・」


顔を背ける様に肩に頭を預けた亜季の耳元で、丹羽が囁く。


「えらく敏感になってるね」


腕の中に閉じ込めてから殆ど時間は経っていないのに。


もうずっと前から触れていたような反応だ。


安心させる為ではなく、亜季の気持ちを探る為にそっと指で喉元を擽った。


「っゃ・・ん・・っ」


仰のいた亜季の唇を塞ぐ。


縋る様に丹羽の腕を掴んだ華奢な腕が震えていた。


重ねた唇はしっとりと熱を帯びていた。


啄んで、下唇を吸う。


「っ・・っふ・・」


堪え切れずに、亜季が吐息を漏らした。


舌先で突いて、歯列を擽る。


緩んだ唇に割入って、上顎を擽った。


傾く背中をしっかりと抱きしめて、腰を支える腕に力を込める。


絡めた舌は、唇の数倍熱くて甘かった。


「蕩けそうに熱いけど・・・」


「ん・・・」


艶めいた唇をペロリと撫でて、短い髪をくしゃりと撫でる。


「このエプロン、誰がくれたの?」


「・・・佳織が無理やり送りつけて来たのよ・・・写メしてこいって指令付きでっ」


彼女の口から飛び出した贈り主の名前にホッとしつつ、大親友の彼女の悪戯心に深く感謝する。


「なんでまた・・?」


「佳織が、親戚のおばさんに貰ったフリフリのエプロンの処分に困ってるっていうから・・・捨てる前に着せた方がいいんじゃないかって、樋口に助言してやったのよ・・・そしたら、仕返しって・・」


「あー・・・それで」


「死ぬほど恥ずかしかったんだから、あんたもちょっとは痛い目見なさいって・・・」


「で、俺がいない間に写真だけ撮ろうと思ったら、タイミング悪く帰って来たと・・」


要約してまとめた丹羽に、亜季がげっそりと頷く。


「自業自得だけど・・・俺としては役得、かな」


「何言ってんのよ・・もういいでしょ、早くリボン解いて」


丹羽の肩を叩いた亜季が、くるりと背中を向ける。


目の前に来た片結びのままのリボン。


「俺も写真撮らせてくれる?」


「っは!?」


「佳織さんには送って、旦那の俺が写真撮れないっておかしいだろ?


折角だし・・・ほら、記念だよ、記念」


「嫌よ!絶対!」


「俺しか見ないよ?」


「それでも嫌なものは嫌なの!」


「・・・んー・・・じゃあ、今晩、亜季の寝顔撮っていい?」


「はああ!?なんでそうなんのよ!!」


お腹に回した腕をぴしゃりと叩いて亜季が叫ぶ。


実はもうすでに何枚も撮っている事は勿論内緒だ。


「無防備な寝顔を撮られるほうがいい?」


「・・・い、一枚だけだからね!」


「分かったよ。そのかわり、ちゃんと笑うこと」


これ以上ごねて機嫌を損ねるとマズイので納得する事にして、亜季の額にキスをする。


「努力はする」


思い切り眉根を寄せた亜季が固い声で返事をした。

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