第92話 remedy

「ほんっと・・納得いかないわっ・・けほっけほっ」


思い切り顰め面で言った矢先に発作のような咳に襲われて、亜季は背中を曲げた。


咳き込む妻の背中を隣で撫でながら、丹羽がやんわりと窘める。


「はいはい、あんまり喋るとまた咳出るから・・」


もうさっきから何度も繰り返してきたやり取りだ。


「だ、だって・・っ」


さらに言い募ろうと口を開いた亜季の咳を寸止めするべく、先に丹羽が口を開いた。


さっきから亜季が必死に訴えたい事は痛い位に理解していた。


というのも、昨夜から何度も聞かされたからだ。


「まあ、確かに、佳織さんの旦那さんの風邪を、佳織さんじゃなく亜季が貰った事に納得できないってのはよーく分かる」


病み上がりの樋口と、佳織、亜季の三人で食事をした際にうつったらしいのだが、同じ空間にいる時間が亜季より数倍長いであろう佳織はケロリとしているのに、亜季だけがこの爆弾咳に見舞われてる事に、納得がいかないのだ。


体調とか、免疫力とかうつった原因は色々あるとは思うのだが・・


まあ、もっと言えば風邪がうつった事もあるけど、それ以上に樋口の口から嬉しそうに惚気話を聞かされたことの方が、気に食わないのだ。


「え!?やだ、あんたに風邪行っちゃったの?ごめん!」


「佳織、あんた何ともないの?」


「え?あー、うん、平気みたい」


「ええー・・まじで・・」


「まあ、もしうつってたとしたら、とっくに発病してるだろ。俺に抱きついてて良かっただろ?絶対免疫出来たんだよ」


「へー・・」


「っは?な、何言ってんのよ、紘平の馬鹿!」


「何って事実だ。俺はこーなる事を見込んで、お前の事ベッドに引っ張り込んだんだよ」


「はー・・」


「ちょっと、違うわよ、待ちなさいよ、そもそも抱きついてないし!」


「俺が寝たら家事するって言ったくせに、結局お前の方から抱きついたまま眠ってたんだぞ」


「ほー・・」


「や、だ、だからそれは、あれよ!湯たんぽ的な事でしょ!さ、寒かったからよ!」


「そうかそうか、いつもよりさらに体温高かったもんな、俺。そりゃあ寒がりな佳織には、ちょうどいい抱き枕になるよなぁ」


「嬉しそうに言わないでよ!馬鹿馬鹿!」


「とりあえずっ・・けほっ・・ムカつくから口閉じなさいよね、樋口っけほっ」


「あ、亜季落ち着いて、ほら、お茶飲みなさい、お茶」


というような事があったらしい。


元より三人は同期だし、亜季と佳織は公私ともに仲の良い親友だ。


親友の私生活が幸せなのは、勿論嬉しい事だし、樋口がどれ位佳織に惚れ込んでいるのかを、亜季は間近で見て来たのでよく知っている。


本人はそうでもないと言っているが、樋口の佳織依存の凄まじさは、少し離れている方がよく分かるのだ。


外回りと事務仕事、営業会議に他部門交渉。


社内に居ても、自席に居ることが殆どない樋口は、部署内でも一、二を誇る多忙さだ。


そんな彼が、山積みの仕事の合間を縫って、毎日佳織の顔を見に行く時間を作る事が、どれ位難しいのか、業務上関わりのある亜季は、佳織よりもずっと正確に理解していた。


会いに行っても、いつも何しに来たの?忙しいのに馬鹿じゃないの?早く仕事戻って、とばっさり切られるに決まっているのに、それでも会いに行かずにいられない。


あれはもう重度の佳織依存だ。


呆れ顔を向けられても、冷たい視線で邪魔者扱いされても、それでも、その裏側にある柔らかい感情を見抜いているから、樋口は毎日佳織の元へ向かう。


そして、佳織に何かあると誰よりも早くその異変に気付く。


そういう二人が羨ましいし、誇らしいし、少しだけ恨めしい。


今だって佳織は大抵の事を一人でこなすし、簡単にSOSを出したりしない。


万一出したとしても、それは樋口にではなかった。


夫婦だし、家族だし、頼る相手が変わってしまうのは仕方ない。


それは亜季だって同じだ。


同じだけれど、やっぱり少し・・・


「亜季は淋しいんだろ?」


咳が収まった亜季の身体を抱き寄せながら、紘平が答えを口にした。


昨日からぐるぐる回り続ける愚痴の連鎖は、結局のところ親友の夫への嫉妬、それに尽きる。


同じ立場に居た筈なのに、いつの間にかちゃんと甘える場所を見つけてしまった事に、淋しさを覚えているのだ。


こういう女同士の友情は、難しくて、男には理解しがたい。


同じような性格だからこそ、心配で、頼もしくて、大事だった事は、亜季の佳織に対する接し方を見ていればよく分かる。


どこか自分を重ねる部分があったのかもしれない。


「・・淋しい・・っていうか」


言葉を止めた亜季が、そこでようやく丹羽の顔を見た。


「ごめん・・・あたし、昨日からこんな事ばっかり言ってる・・あー・・・やだー・・・けほっ・・弱ってる・・」


普段はこんな事ないのにぃと弱弱しく呟いて、反対側に逃げた肩をもう一度抱き寄せる。


「弱ってる時には、弱音吐きなって。それと、一人になろうとしない事、いま、やっと俺がいる事思い出しただろ?」


さっき一瞬だけ瞠目したのを見逃さなかった。


言わないでおこうかと思ったけれど、つい口に出してしまったのは、亜季の親友への嫉妬だ。


多分、亜季は俺との事ではこんな風に、ならない・・・


丹羽の方へ引き寄せられた亜季が、両手に顔を埋めた。


こういう甘やかされ方に慣れてないんだろう。


安堵よりも戸惑いを覚える所が彼女らしい。


こういう時でないと、弱音も零せないくせに。


自他ともに認める姉御肌で、頼まれれば多少の無理もノーと言えないお人よし。


その癖上手く周りを頼る事も出来なくて、最終的には一人で抱え込んで右往左往する羽目になる。


任せた事はきちんとやり遂げるけれど、バランス感覚は良くない。


そういう所は、亜季の親友の方が上手く立ち回っているように思えた。


亜季は気を遣い過ぎる所があるから。


上手くこちらに流れて来るかと思ったけれど、頑なな鎧は簡単には剥がせない。


亜季が首を振ってみせた。


「ぜんぜん楽しくない話・・聞かせちゃったー・・・いいの、ちょっと一人にしてー・・・」


ああ、もう思考が回ってない。


とりあえず、状況整理も現状把握も出来ていない。


つまりはグダグダのボロボロって事。


それなら最初から泣きついて来りゃいいのに・・・まあ、そんな簡単に泣きついてくる女なら、もっと早く付き合ってたか・・


その場合、今もこうして一緒にいるか分からないけれど。


寸分の隙の無い武装で自分を律して守って、最前線に立ち続ける。


社会人としては、物凄く立派だと思う。


異性としては可愛げのかけらも感じないけど。


でも、それだけで立ち行かなくなって、ひび割れた鎧が弱い所晒すから、好きになったんだ。


そういう事を、たぶん、亜季は正確には理解していない。


そして、丹羽も正しく伝える術を完全には知らない。


「亜季、だから、ちょっとだけ俺の話聞こうか」


顔を覆う両手を掴んで自分の首に回すと、丹羽はそのまま亜季の身体を横抱きにした。


ソファから立ち上がってリビングを出て寝室に向かう。


これ以上わやくちゃになる前に、寝かせた方がいい。


亜季は、自分の駄目な所をや弱い所を見せる事を極端に嫌うから。


本音を引き出すならベッドの中が最適だ。


泣きつかれて眠らせてしまえるから。


「ごめん・・・起きたら・・ちゃんと」


一人にして、という願いが叶えられると思ったのだろう。


ベッドに下ろした亜季が、申し訳なさそうに丹羽を見上げた。


ご期待に添えられなくて申し訳ないけど、この状態で一人に出来るわけがない。


「横向いた方が、咳出にくいと思うよ。さっき飲んだ咳止めもそろそろ効いてくる頃だろ」


咳止めはとにかく眠気を誘う。


けれど、こういう場合にはうってつけだ。


「うん・・・え・・?」


亜季の横に身体を倒した丹羽に、亜季が伺うような視線を向ける。


「ん?咳出た時、一人じゃつらいだろ?」


「・・だ、大丈夫だから」


「あーきー、いい加減俺も怒っていい?いつまでおひとり様やってくつもりなんだよ。淋しいとか、辛いとか、しんどいとか、心細いとか・・・飲み込む前にちゃんと俺に言ってくれないと。一緒に暮らしてる意味ないだろ?俺は、自分の事は自分で出来ます、何でも一人でやってのけますっていう亜季を好きになったわけじゃない。全部とは言わないから、半分くらいは俺に預けてみてよ」


「・・・はい」


「それに、佳織さんを取られて淋しいって気持ちは、向こうも思ってると思うけど?むしろ、俺は思ってて欲しいけど・・・」


「・・そう・・かな」


「あのな、俺だって嫉妬するから。言っても仕方ないし、言ったから格好悪いから言わないだけ。一緒に居た時間を引き合いに出されたら、俺は絶対歯が立たないし」


「・・ありがとう」


目を伏せた亜季が、甘えるように丹羽の肩に額を押し付けた。


ここでお礼を言われる理由が分からないけれど、亜季の壁の内側には滑り込めたようだ。


胸に縋りついてくる掌を腰の後ろに引っ張って、熱っぽい身体をを抱きしめた。


ああ、そうか、俺がもっと格好悪くても本音を零せば、同じだけ、亜季の鎧も剥がれるのか。


ひとつヒントを手に入れたような気持ちになって、亜季の背中を優しく撫でる。


少し身動ぎした亜季が、ほっと息を吐いた。


「それ、安心する」


ほら、やっぱり正解だった。

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