第116話 野良猫ステップ特別仕様

「ご馳走様でしたー!美味しかったです。また来まーす」


「いつもありがとうございます!またお待ちしてます!お気をつけてー」


がらがらと煩い引き戸を閉めながら、愛想よく手を振るバイトと、無表情な店主に手を振って、馴染みの店を後にする。


先に出ていた丹羽が、亜季を待って歩き始める。


「徒歩圏にいつでも行ける店があるっていいよねー・・ご飯は美味しいし、お酒の種類は豊富だし、気を遣う必要も無いし・・後は帰ってお風呂入って寝るだけ・・・最高!」


これぞ最高の休日!と伸びをした亜季の隣で、丹羽がそうだなと頷く。


「まさかこんなに気に入ってくれると思わなかったよ。


もっと小奇麗な店がとか、雰囲気がお洒落な場所がーとか言われたら・・」


「あのさ、あたしがそういうこと求めると思う?」


ざっくばらんな性格で男勝りの姉御肌と言われる山下亜季が、ビールジョッキが似合う女と称される山下亜季が。


「・・・思わないけど・・お洒落な店も好きだろ?」


丹羽のといかけに、亜季は勿論ですよと頷いた。


女同士で飲むなら、半個室のお洒落なフレンチやイタリアンがいいし、気兼ねない内輪の集まりなら、創作料理の小料理屋がいい。


でも、夫婦水入らずで休日に好きなお酒と料理を楽しめる場所なら、すっぴんにデニムで行ける場所がいい。


平日戦う分、休日はとことん自分を甘やかしたい、甘やかすべきだ、というのが、長い独身時代を送って来た亜季のモットーだった。


だって、誰も自分を甘やかしてはくれないから。


今は、こうして手を伸ばせば指を絡めて、引き寄せてくれる人がいる。


「お洒落な店も好きだけど・・他の店にはこんな格好で行けないし」


明らか部屋着の延長となっている、着古したニットと緩くなったデニム。


冬なので化粧水の後に、UV効果のある乳液を塗って、あとは薬用リップで完成したどすっぴん。


煌々とライトで照らされる小洒落た店内には到底足を踏み入れられない格好だが、古い蛍光灯と、テレビの明かりだけの小さな店なら問題はない。


きっと、店主もバイトも、亜季がすっぴんかどうかなんて気にも留めていないだろうし。


時々、仕事帰りに立ち寄ると、今日は一段と綺麗ですね、とリップサービスを貰う程度だ。


「岳明は、ひとりで寛げる店があるほうがよかった・・?」


「二人で飲める方が楽しいよ」


「・・じゃあ、そこは素直に喜んで」


「うん・・そうする・・・」


目を細めて頷いた丹羽が、吐く息が白くなる夜空を見上げて冷えて来たな、と呟いた。


「コート着て来た方が良かったんじゃないのか?


俺の上着羽織って帰る?」


ボアパーカーを羽織っただけの亜季の背中を優しく撫でながら、丹羽が尋ねた。


「歩いてすぐだし平気。お酒飲んだせいか寒くないし・・」


「そう?ならいいけど・・・寒くなったら俺にくっつくように」


街灯の少ない通りで、人通りも少ないので人目を気にする心配もない。


普段なら、何言ってんのよ!と豪快に肩を叩く所だが、今日はそれも出来そうにない。


こんな日は、ほろ酔いに任せて、素直になるのが望ましい。


ちらっと肩越しに夫を見上げて、こくんと頷く。


ぎゅっと丹羽の腕に身体を寄せる。


こんな甘え方は外ではしない、絶対に。


こうなったら・・と開き直って、遠慮なく頬を腕に押し当てる。


すっぴんなので、丹羽の洋服を汚す心配もない。


スーツの時に躊躇ってしまう色んな事が、全部で来てしまうのが、お酒とすっぴんの力なのだ。


「ほんとに寒くないのか・・?」


前から回された掌が、短い襟足をするりと撫でる。


パーカーのフードから覗く首筋を指先で辿って、丹羽が耳たぶを軽く引っ張った。


「うん、平気・・」


「あれ・・・見た事無いピアスしてる・・・猫?」


「あー・・うん。可愛いかなと思って買ったんだけど、さすがに仕事にはねぇ・・・子供っぽいってか、あたしぽくないかなって・・・」


ウサギは無理でも猫ならいけるだろ!とアラサーの自分を奮い立たせて購入を決めた猫モチーフのピアス。


ブランドものでもなければ、自社製品でもない。


買い物に出かけたついでに、ふらっと立ち寄った雑貨屋で買った千円ちょっとのものだ。


ミルキーピンクで横向きの猫の全身が模られたデザインが可愛くて、迷わなかった。


が、いざ自宅に帰って包装を開けてみたら、耳に付ける事を躊躇ってしまったのだ。


可愛い、物凄く可愛い、けど、可愛すぎないか!?


一度迷ってから、付けるタイミングを逃したまま今日まで来てしまった。


休日だし、誰も見ないしいいだろう、と思ったのだが、甘かった。


亜季自身の事に関しては、誰よりも敏感な人間が一番近くにいたのだ。


無意識のうちに積み上げて来た強く勇ましい山下亜季のイメージは、あたしの心の一番深い所にずっしりと根を張って居座っている。


それがこれまでの自分を支える根底であり、誇りでもあった。


仕事で心折れそうな時、自分の事を嫌いになりそうな時、自分の知る一番強い山下亜季を思い描いて踏ん張って来た。


倒れるもんかと歯を食いしばって、堪えて来た。


だけど・・・岳明はそういうあたしの意識まるごと飲み込んで、包み込んでしまうから。


この人の前では、山下亜季はあっという間にいなくなる。


代わりに顔を出すのは、ただただ愛されたいと貪欲に望み続ける丹羽亜季。


そして、丹羽亜季は、丹羽岳明にめっぽう弱い。


する、と頬を覆う髪が掬われる。


丹羽の指の背が僅かに頬に触れただけで、びくんと肩が跳ねた。


丹羽は、亜季が自分でも気づいていないスイッチを見つけ出して、いとも簡単に押してしまう。


ぶわわっと瞬間湯沸かし器並みの早さで頬が朱を帯びていく。


結婚してどれだけ経つと思ってんのよ、あたし!!!


心の中にいる乙女な自分に思い切り激昂しつつ、ぎゅっと目を閉じる。


丹羽は掬った髪を耳の後ろに流して、亜季の耳たぶを飾るピアスがよく見えるように顎を捕まえると顔を傾けさせた。


「なんで?似合ってる、可愛いよ」


落ちた柔らかい声に、思わず息を飲む。


だから、ほんとにあんたは人の心臓をなんだと思ってんの!


そういう褒め殺しやめて!!!


「わ、分かってる、分かってるから!


山下亜季には似合わないし、歳考えろって感じだし、可愛いとか、イメージに無いし・・・


気を遣わないでいいからっ・・・」


丹羽の手を解いて、顔を戻すと同時に後ろに下がる。


と、丹羽がすかさず腕を伸ばしてきた。


もう一歩下がれば距離を持てると思ったのに、丹羽の腕が腰に回るほうが数秒早かった。


抱き寄せられたと理解した矢先に、丹羽が後ろ頭に手を回した。


「あーきー・・まーた一人相撲する気?」


ぎくり。


”どうせあたしは可愛いとは無縁の女なんですー!”


亜季が開き直る度に、丹羽が言う台詞だ。


空いている手が頬を包み込んで、軽く持ち上げて来る。


視線を上げたら丹羽が困ったような、呆れたような顔をしていた。


もう何度も見て来た表情だ。


「今のは、嬉しい、ありがとう、が正解だろ?


全否定してどうするの?


俺は亜季に嘘は吐かないよ。


それとも、俺以外の誰かに褒められた方が嬉しい?」


「そ、そんな訳ないでしょ!」


丹羽以外に、亜季を全力でべた褒めする男なんていない。


居たとしても、乙女な亜季が望むような褒め方ではなく、


”山下さん、かっこいいな!”


という仕事モードの亜季を崇めるような存在だ。


「だったら、素直に受け取ってよ。


ここには俺しかいないわけだし”可愛い”が似合う亜季を知ってるのは今のところ、俺だけだろ?」


「今のところじゃ、ないっ!」


ほかの誰かの前で、二度と素直になんかなれない。


そんなに器用な女じゃない。


挑むように視線を戻せば、丹羽が幸せそうに微笑んだ。


「それじゃあ、尚更ちゃんと受け止めて貰わないと・・・


なんでこういう変なところで意固地になるかな・・」


「変な所じゃないわよ・・あたしにとっては重要で・・」


「ほら、そこで理屈捏ねない。


やっぱり、俺が素直にさせるしかないかな・・・」


呟いた丹羽が、顎に指を引っ掛ける。


されるがままに視線を上げると、丹羽がゆっくりと目を伏せるところだった。


へ・・・嘘・・・


唖然としているうちに唇が重なる。


思い切り油断していたので、あっさりと唇を割られた。


「・・・っ・・・ぇ」


受け身を取る暇もなく舌の表面を舐められた。


「ふぁ・・・っん」


ぞくりと背筋を走った感覚に気を取られているうちに深く抱きしめられた。


ちょっと待ってとか、苦しいからとか、何も伝えられないまま口内を暴かれる。


上顎を擽った丹羽の舌先が唇の裏側をなぞって、ゆっくりと離れる。


上唇を軽く吸ってから、ちょんと啄んでから丹羽がキスを止めた。


「は・・んっ・・!」


キスが終わった瞬間にたたらを踏んだ亜季の背中を、丹羽はしっかりと支えてくれた。


「大丈夫?」


口の中が火傷しそうに熱い。


「・・ん」


回らない頭でこくんと頷く。


「ピアス可愛い、似合ってるよ」


時間を巻き戻したように丹羽がそう言って襟足を撫でた。


今度は間違えてはいけない。


ペットショップで売ってる可愛い仔猫にはなれなくても、丹羽のめには可愛いく映る野良猫でありたい。


「・・・ありがと」


小さく返せば、丹羽が頭のてっぺんにキスをして、満足げに微笑んだ。


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