第115話 妻を構うのは夫の権利です
曇りガラスのはめ込まれた古い木造りの引き戸を開ける。
一見すると、閉店中だと勘違いしてしまいそうな薄暗い店内では、いつものようにつけっぱなしのテレビが流れている。
狭い店内の一番奥、角席を真っ先に確かめて、丹羽はあれ、と声を漏らした。
驚いた丹羽に気付いた店主とアルバイトが揃っていらっしゃい、といつもより小声で告げる。
「寝ちゃったか」
年季の入ったカウンターに突っ伏している亜季の頭がちらりと見えた。
「ちょっと前まで饒舌に喋ってたんですけどね。お客さんの会計で外して、戻ってきたら船漕ぎしてて、そのまま」
「そうか・・」
脱いだ上着で薄い肩を包んで、新たな指定席となった亜季の隣の椅子を引く。
そっと腰を下ろしてみても、全く起きる気配がない。
聞こえる寝息に目を細める。
今朝は丹羽が起きるより早く目を覚まして、豪華な朝食を用意してくれていた。
昨夜夜更かししたにも拘わらずだ。
見送りは要らないから、ゆっくり寝ていていいよと眠る前に言ったのに。
今週は残業と飲み会が多かった為、朝食も一緒に食べられない日ばかりだった。
亜季が寝坊して挨拶もそこそこに飛び出した日もあった。
休日出勤する丹羽は翌日の早起き必須だが、休みの亜季は何時まででも寝ていられる。
だから、いつもより遅い時間になっていたけれど気にせず誘った。
亜季の体力を考えると、翌日は休みのほうが丹羽としても有難い。
遠慮や加減をしなくて済むのも勿論だが、翌日が休みの亜季は、普段より仕事モードからの切り替えが早い。
丹羽が落とした柔らかいキスだけでトロンと目を潤ませてくれる。
眠る直前まで翌日の仕事の事を考えている亜季を誘うのはなかなか骨が折れるのだ。
会社から一歩出れば仕事の事を忘れられる人間もいるが、亜季は本人も自覚している通り相当なワーカホリックだ。
一人で無言になる時は大抵仕事の事を考えている。
もう長年の習慣でこれだけは直せないと本人も言っているし、丹羽も無理に変えようとは思ってない。
同じ位仕事重視の生活を送って来た自覚があるからだ。
そんな亜季と忙しい一週間を終えて、漸く夫婦らしいひと時を過ごせた金曜の夜。
珍しく甘えるようにキスをして来たのは亜季の方だった。
ほぼすれ違いで過ごした1週間が堪えたらしい。
じれったい位に触れるだけのキスを返して、じわじわと亜季の体温を上げて行った。
大きな仕事がひとつ片付いたらしく、緊張が解けたのもあってすぐに立っていられなくなった彼女に乗っかる形で仕掛けた。
安堵と解放感で満たされたせいか、普段より敏感な肌は蕩けるように丹羽を誘った。
久しぶりに耳元で聞いた甘ったるい声に焦がれるように、何度も追い詰めて、日付が変わっても離さなかった。
もう寝かせてやろうと思うたび、理性が蕩けた蜂蜜みたいな眼差しを向けられて、止めとばかりに泣きそうな声で丹羽の名前を呼ぶ。
煽っているとしか思えない。
仕掛けたのに、やり込められた。
悔しくてやり返して、強請られて、降参した。
二人とも疲労困憊の状態でベッドに倒れ込んで、息が整うのももどかしく何処に続くか分からないキスをどちらからともなく繰り返した。
亜季のストレスの原因となっていた子会社からの視察役員は、丹羽の心配を他所に亜季にちょっかいを掛けてくる事はなかった。
亜季の大親友である佳織から、亜季が面倒事に巻き込まれているから一役買って欲しいと連絡を受けた時には、相手の男をどうしてやろうかと思ったが、色目を使ったり、気を引こうとしたわけでは無いと聞いて、心底安堵した。
亜季の仕事場での評価を認識する度、益々自分が見ている亜季が特別なものに思えて来る。
こんな風に人前で寝顔を晒すような女性だなんて、誰も想像すらしていないのだ。
”女っていうか、女帝なのよ、そういう対象じゃないの会社では”
亜季の宣言通り、視察役員は亜季の事を、仕事しか取り柄の無い負け犬女だと思っていたようだが、丹羽が直々に指に嵌めた左手の婚約指輪を見て、考えを改めたらしい。
送らなくていい!という亜季を宥めすかしてわざわざ会社前に車を停めて、目の前で恭しく薬指にキスまでして送り出した。
真っ赤になって狼狽えていた亜季には少々可哀想だったかもしれないが、俯いて戸惑う表情が間近で見られて丹羽としては幸せな朝だった。
他の誰にもそういう対象だなんて思われなくていい。
むしろ思われてなんて欲しくない。
女帝と真逆の表情は自分だけが知っていればいいのだ。
柔らかい寝顔も含めて。
丹羽の自己満足と独占欲が盛大に満たされたあの一件以降、亜季の眉間に固定されていた皺は跡形もなく消え去った。
穏やかな日常が漸く戻って来て、丹羽として嬉しい限りだ。
キスをしてもどこか上の空だったそれまでの日々を思い出して、だからこそ余計に丹羽に集中してくれる事が嬉しくて、普段より羽目を外してしまったのだ。
だから、絶対に朝は起きてこない自信があった。
なのに料理が苦手だと言っていた亜季が、朝からキッチンに立って、不慣れな腕を振るってサンドイッチを作ってくれた。
”色々心配かけたから”
コーヒーの入ったマグカップを差し出す柔らかい二の腕の内側にも唇の痕が見えて、昨夜の振る舞いを思い出して苦笑いしたのは内緒だ。
眠たくないの?と欠伸をしながら聞いてきた亜季に、行為の後は女性の方が眠気を感じるらしいよ、とどこかで見た知識を告げるとふーんと、頷いてから、慌てて丹羽の顔を二度見して、盛大に逸らして見せた眠気の残る横顔も好きだと思った。
こんな些細な会話ですら過剰反応する山下亜季は、間違いなく丹羽だけのものだ。
短い髪は亜季によく似合っているから、変えて欲しいとは思わないけれど、唇を寄せる度堪えるのに困る。
柔らかくて良い匂いのする肌に、強く吸い付きたいと思ってしまうのは自然の摂理だ。
味見するように舐めるだけで留めているけれど、長期休暇こそ思う存分赤い痕を残してやりたいと思う。
気付いた亜季の悲鳴と非難を想像して、ニヤニヤ緩む頬が抑えられない。
「亜季さん、来た時からずっと欠伸してて、寝不足ですか?って聞いたら、思いっきり視線逸らして、映画見てた!って言ってましたけど・・分かりやすいですよねぇ。なんかもう、中学生みたいな反応がすっげ可愛くて、俺まで赤くなっちゃいましたよ。ほんとにご馳走様です」
「妻を褒めてくれてありがとう。けど、それ以上の感情は持たない様に」
「持ちませんって、丹羽さんいるでしょー。それに、亜季さんめっちゃ鈍感だから、片思いする方が気の毒」
「分かってくれて嬉しいよ」
本日のおすすめの三種盛りを摘まみながら、料理に合わせて選ばれた日本酒を楽しむ。
いつものように美味しいね!と笑う亜季の顔が見られないのは残念だが、寝顔を肴にというのも悪くない。
いくら馴染みの店とはいえ、ちょっと油断しすぎじゃないかな?とは思うものの、この大らかさが亜季の長所でもある。
仕事の時とは打って変わって優しくなる視線や、テンポダウンする口調、こういう一面を見たら、亜季の魅力に惹かれる男は少なからず出て来ると丹羽は確信していた。
だからこそ、他所で見せたくない。
ここは勝手知ったる馴染みの店で、余計なちょっかいを出してくる馬鹿も、値踏みする馬鹿もいないので、亜季にとっては自宅同様に居心地が良いのだろう。
「あれ、やっぱり口説くの大変だったんですか?」
「楽に落とせると思う?」
勝ち誇った笑みで答えると、ですよね~と満面の笑みが返って来た。
大将も料理の手を止めずに無言のまま頷いている。
「亜季は、外だと肩肘張って全力で社会人全うしようとするからさ。
男が付け入る隙が無かったよ、最初は。
まあ、こじ開けて滑り込んだんだけど・・」
「丹羽さんそれ、武勇伝ですよ」
「亜季にも散々、あたしなんかの何処がいいんだって言われたなぁ」
「何て答えたんですか?」
「何処って、最初に出会った時から気になってたんだから、何処なんて言われてもすぐには答えられないだろ?
何て言うか、存在自体ちょっと異色っていうか、俺の周りにはいないタイプだったからさ。
営業なんてやってると大抵皆愛想よいし、媚び売って来るんだよ。
それが、初っ端から喧嘩ふっかけられて、面食らったなぁ」
「あれですね!嫌いから始まったのが一番強いってやつですね」
「嫌い・・・だったんだろうな。ほんとに避けられて相手にされなかったし」
「丹羽さんを相手にしないとか、確かに普通の女の人じゃ有り得ないですよね・・引く手あまたでしたもんねぇ。ここに居る時でもしょっちゅう電話鳴ってたし」
「付き合う前に番号替えてるから亜季には内緒で。余計な心配かけたくないし」
「本気で追いかけたんですね」
「本気だから追いかけたんだよ・・しょっちゅう自身失くして半信半疑になってるけど・・」
「だから、見せつけるみたいにでっかいダイヤ付けさせたんですかー?キラッキラして眩しかったですよー。よく買えましたね、こんな指輪」
「目立つ方が牽制になるし、亜季の自信にも繋がるかと思って・・・そうか、付けて来たんだ」
ちらりと横に目をやると、カウンターに投げ出されている左手には結婚指輪と重ねて婚約指輪が嵌めてある。
「綺麗ですねって言ったら、すっごく喜んでましたよ」
丹羽が口角を持ち上げて亜季の短い髪を撫でた。
「へえ・・・それ、起きたらもう一度亜季に言って欲しいな。どんな顔するのか俺も見てみたいよ」
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