第95話 今日も明日も戦うきみへⅡ

独身時代の丹羽のタイムスケジュールについては、特に言及した事がないのでわからないが、結婚して共同生活を送っている彼の朝はいつも早い。


始業の1時間前には必ず自席に着くように出勤している。


営業職なので、得意先のアポイントに合わせてスケジュールを組むと、事務仕事を捌く時間は、朝か夜にしか取れないのだ。


それに加えて定例会議に接待にミーティングへの出席を余儀なくされる。


亜季も1日が24時間では足りないと思うが、丹羽はもっと時間の不足を感じている筈だ。


結婚後も当然のように仕事を続けることを選んだ亜季なので、丹羽に対しても、仕事優先のスケジュールを組んでくれて構わないと思っている。


客先相手の仕事の大変さや過酷さは、同期の紘平や相良を見ているので、それなりに理解はしているつもりだ。


お互いが負担にならないペースで寄り添って、折り合いを付けていこうと結婚前に話をした。


家事が得意ではない事は付き合い始めてすぐに暴露していたし、丹羽も亜季に専業主婦並みの家事能力は期待していなかった。


出来る事を出来る方がやろう、というスタンスは今も変わっていない。


けれど、丹羽は極力朝のうちに仕事を片付けて、夜は早く家に帰れるように努力してくれている。


とはいっても、急なスケジュール変更が入る事もあるので、毎日夕飯を一緒に出来るわけでは無い。


せいぜい平日の半分食卓を囲む程度だ。


亜季にとっては、むしろその適度な距離感がちょうどいい。


家庭は大切だし、夫婦の時間は何ものにも代えがたいが、それでも社会に出て、自分の立ち位置を確認する作業は、亜季にとって必要不可欠なものだった。


だから、同じように外で戦う丹羽の足を引っ張るつもりはさらさらないし、むしろその背中を押してあげたい。


時々湧いて来る嫉妬や我儘の虫が、心をざわつかせることもあるけれど、それさえも新鮮に思える。


自分の知らなかった一面を知って、心の中に隠していた見たくなかったものも、沢山見た。


全部、丹羽が見つけて、亜季に教えてくれたものだ。


どんな亜季も、亜季自身だと。


相変わらずの意地っ張りで、丹羽に呆れ顔をされる事もままあるが、大好きな人との生活は、やっぱり楽しい。


新婚生活は順風満帆だ。


ところが、いつもいってらっしゃい、と見送るはずの丹羽が、今日はまだ自宅にいる。


しかも、のんびりコーヒーのお代わりをして、食器も俺が洗っておくよ、なんて言って来る。


思わず休日かと勘違いしてしまいそうになるが、今日は平日だ。


ご馳走様でした、と慌ただしく席を立った亜季は、思わず時計を見て変な顔になった。


「どうかした?」


「いや・・だって、この時間に岳明が家にいると、なんか・・」


「落ち着かない?」


新聞を置いて、頬杖をついた丹羽がちらりと亜季に視線を寄こす。


すらりと伸びた足を無造作に組むところが憎らしい。


って駄目だ、夫に見惚れている場合じゃない。


まだ急ぐ時間でもないが、朝の時間は不思議と早く過ぎていく。


ぼんやりしていると、あっという間に間に合わなくなる。


「そう、それ!変な感じするのよ!


いや、居てくれてう、嬉しんだけど!」


平日の朝、ちゃんと顔を合わせてゆっくり朝食を取るのなんていつ以来だろう?


多分、振替休日で岳明が休みを取った先月以来・・?


朝から妙にテンションが上がってしまった大人げない自分が恥ずかしい。


でも、言った矢先に丹羽が視線の先で柔らかく微笑んだから、後悔はない。


今日は駄目だ、なんか自分の気持ちを隠せない。


どうやら彼には結構バレバレらしいのだけれど・・・


「喜んでくれて嬉しいけど・・・亜季、ちょっと来て」


にこやかに答えた丹羽が、亜季に向かって手招きする。


何か用事があるのかと、洗面所に向かいかけた爪先を丹羽の元へ向けた。


亜季が目の前までやって来ると、丹羽が亜季の背中に向かって腕を伸ばした。


「へ!?」


抱きしめられるのかと身構えてしまったが、数秒後になぞは解けた。


しゅるりと音がして、丹羽が背中にあったエプロンのリボンをほどいたのだ。


朝食の支度をしてそのままだったエプロン。


「あ!忘れてた・・」


「だろうね。食器洗いは俺がするから、もうこれは要らないだろ?」


「・・ありがとう・・助かる」


彼を見下ろす事はあまりないので、下にある目線にドキドキする。


出来るだけ自然に言ったのに、丹羽は含み笑いを返してきた。


こういう所は相変わらずだ。


「どういたしまして・・・ん」


立ち上がった丹羽が、亜季の唇を奪った。


コーヒーの苦みが残る唇がイチゴジャムの甘さの残る亜季の唇の上を滑る。


「ん・・っ・・・っん」


掠めて離れた唇がまた戻って、舌が唇の端をぺろりと舐めた。


「うん・・・イチゴ」


なぞかけなんてしていないのに、丹羽が回答を口にする。


「し・・知ってるし・・」


「俺、この味好きだな。糖度低めでイチゴの味がちゃんと残ってる」


それは、果肉たっぷり本格イチゴジャムだからです。


さっき食べてたし、あんた目の前に座って見てたでしょうが!


なんて反論をする前に、もう一度唇が重なった。


今度は丹羽の指が顎を引いて、唇を開かせる。


亜季がすぐに応えない事を予想して、そうしたのだ。


いつものように、何度も唇を合わせて亜季の頑なな唇を解く時間は残念ながら今はない。


「っふ・・・ん・・・っ・・ぅ」


するりと入り込んで来た舌は、さっきよりもコーヒーの苦みが残っていた。


ついさっきまで丹羽が飲んでいたのだから当たり前だ。


この後、亜季は化粧をして、歯磨きもして口紅も塗る。


こんなキスが出来るのは今だけだ。


それが分かっているからか、丹羽の舌は少しも迷わず亜季の竦んだままの舌先を捕まえた。


引き寄せて絡めて擽る。


「ぁ・・・っん・・・っ」


柔らかく上顎をなぞって、歯列を舐めた後で、ゆっくりと上唇を啄んでから唇が離れた。


「っは・・・っ」


朝からするキスとしては結構、いや、かなり熱烈だ。


毎朝交わす、いってらっしゃいのキスが酷く幼く思える。


あれはあれで、新婚ぽくて好きだけど・・もちろん、岳明には言ってない。


長く唇を合わせていたので、酸素が足りない。


肩で息大きく吸うと、丹羽が背中を優しく撫でた。


抱き寄せるまでもいかないその仕草だけで、こてんと肩に甘えたくなる。


いやいや、これから仕事だ、仕事。


自分で踏ん切りをつけないと、気持ちが切り替わってくれない。


いつもの朝じゃないから、あたしの中身まですっかり緩んで溶けている。


旦那と過ごす朝の数十分で、見事に腑抜けになりました、なんて・・・


これじゃあ、暇が無くても無理やり作って佳織の顔を見に行っては鬱陶しがられている、佳織馬鹿全開でベタ惚れな紘平の事言えない・・・


恨めし気に丹羽を見上げると、目尻をきゅっと擦られた。


いつの間にか涙腺まで緩んでいたらしい。


こんな乙女回路どこに眠っていたの?


「ごめん、苦しかった?」


「・・・へ・・いき・・・」


「そう?ああ、でも、血色はかなり良くなったよ」


悪戯っぽく微笑んだ丹羽が、亜季の赤い頬にキスを落とす。


そりゃあ良くもなるでしょうよ!


心拍数だって急上昇だわよ!


「じゃあ、食器洗いは俺に任せて、仕度しておいで」


朝にピッタリな爽やかな笑顔を向けられると、悔しさはあれど文句何て出てくるわけもない。


「よ、よろしくお願いします」


キスは少しも嫌じゃない。


この後、離れるのが嫌なのだ。


いってらっしゃい、いってきます。


そんな当たり前のやり取りが、この後待っていると思うと支度をする手の動きが止まりそうになる。


あああ・・だめだ、ほんっとにだめだわ。


メイク用の鏡を覗いて、亜季はがっくり肩を落とした。


もう顔が、駄目になっている。


「しっかりしてよー・・朝ミーティングもあるし、報告会もあるのにー」


緩みまくった頬をペシペシ叩いて気合を入れる。


丹羽は至っていつも通りなのに、自分だけこんなに右往左往して情けない。


一緒に出勤出来て嬉しいわ、と余裕の笑顔を向けられる日はいつか来るのだろうか?


はるか遠くの未来より、目の前の現実だと気持ちを切り替えて馴染みのメイクグッズ片手に奮闘していると、食器洗いを終えた丹羽が戻って来た。


「亜季、いつもの時間まで後10分だから。戸締りは俺が見とくよ?」


「あ、はい!よろしく!今日は遅くなるんだよね?」


「直行だから、その分夜は22時は回ると思う。夕飯要らないよ」


「うん。分かった。あたしも残業だし、適当に済ませる、あの、岳明!」


亜季の答えに頷いた丹羽に、鏡越しに呼びかけた。


「うん?」


こんな事訊いて何になるっていうの?


馬鹿げてると思うのに、問いかけずにはいられない。


振り向いた亜季は、丹羽に向かって尋ねる。


「あたし、ちゃんと、戦う女の顔してる?」


妻の問いかけに、丹羽が一瞬瞠目した。


「・・・」


「えっと、その・・」


口ごもる亜季を見つめながら、丹羽が、ばつが悪そうに口元を押さえた。


「これはこれで、結構嬉しいな」


「え?」


呟きの意味が分からず首を傾げる亜季に、丹羽が鷹揚に微笑んで見せた。


「あ、いや・・家出た瞬間に、いつも戦う女になってるだろ?心配ないよ」


「・・ありがと」


その言葉があれば大丈夫だと、心から思った。

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