第107話 全部ほどいて抱きしめて
奥さんの長所はどこですか?と訊かれたら、一番に、人当たりの良い所、と丹羽は答える。
責任感の強さと面倒見の良さは、仕事で関わっていくうちに気付いた事だが、出会いが出会いだったので、丹羽に向けて人当たりの良さは発揮される事が無かった。
だから、彼女を意識するようになってからその事に初めて気づいた自分を馬鹿だなと思った。
馴染みの店をどう表現するのが分かりやすいかと考えた時、女性を連れて行くには抵抗のある店だ、という結論に至った。
店構えも店内の雰囲気も何もかも。
デートのつもりで来た彼女を、こういう店に連れて行ったら百年の恋も冷めて振られる事請け合いだと思う。
勿論、店にも店主にも愛着を持っているし、こんなに長く通い続けている店は他にない。
けれど、あくまでそこは、一人でゆっくりと酒を楽しむ場所であって、誰かと共有する場所ではなかった。
気が向けば簡単な料理なら作る事もあるが、仕事が忙しいとそういう気持ちにもなれない。
食材の買い出しに行く事さえ面倒で、冷蔵庫は酒と水しか入っていない状態。
ちょっとした料理を摘まみつつ、何も考えずに一人で飲める場所を見つけようと、自宅近辺の店をあちこち発掘していく中で見つけたそこは、丹羽にとって隠れ家のような存在だった。
仕事の事は忘れて、誰に気兼ねすることなく気ままに過ごせる。
口数の少ない店長との相性も良かったし、一人飲みで来る客が多い所も気に入っていた。
多分、この店の事はこの先も誰にも言わないだろうと思っていたのだ。
自宅マンションの前を通り過ぎて、裏道をしばらく歩いた先にある看板も出ていない古びた居酒屋の前で立ち止まって、丹羽は苦笑いを浮かべた。
薄い曇りガラスの引き戸の奥から漏れ聞こえて来る楽しそうな話し声は、亜季のものだ。
こういう店に連れて来ても動じることなく、あっさりと馴染んでしまう順応性と、気難しい事で有名な店長の口許を綻ばせる人当たりの良さ。
自立した女性は扱いが難しいという意見もちらほらと聞くが、亜季のこういう所を丹羽はとても気に入っている。
亜季は一人にしておいても大丈夫な女性だ。
上手くその場の雰囲気に溶け込んでいける。
そこが誇らしくて、少し寂しくもある。
二律背反な気持ちは身勝手な夫の嫉妬だという事も承知のうえで、それでも彼女の楽しそうな様子を見ていると安心する。
彼女を選んだ自分の目に狂いはなかったと、確信が持てる。
ガラガラと立て付けの悪い引き戸を開けて、中を覗くと、カウンターのいつもの指定席でグラスを傾ける亜季が見えた。
丹羽に気付いてほわんと表情を一段柔らかくする。
ああ、結構酔ってるな・・・
その顔を見た瞬間に、彼女の本日のペース配分が理解出来るのは、夫として自慢出来る所だろう。
「いらっしゃい」
カウンターで調理中の大将がチラッと顔を上げた。
ビール瓶を大量に運んで来たバイトが人懐こい笑顔を向けて来る。
「いらっしゃいませー!丹羽さん、亜季さんお待ちですよー!すぐおしぼりお持ちしますね!」
愛想のよいバイトがビール瓶を置いておしぼりを取りに行っている間に、大将がお通しの胡麻豆腐をカウンター越しに差し出した。
「こんばんは。ごめん、遅くなった。帰り際に得意先から連絡が入っちゃってさ。亜季、何時から居た?」
スーツのボタンを外しながら尋ねると、お通しを受け取った亜季が椅子を引いてくれた。
「ありがとうございます。1時間くらい前かな?
うちも残業の予定だったんだけど、システムトラブルで会議がリスケになったの」
「え、システムトラブルって?」
仕事柄障害やエラー対応には敏感に反応してしまう。
亜季としては残業が無くなってラッキーだったのだろう。
ちらりと見ると、お気に入りの銘柄の小瓶が開いていた。
「なんか営業部門のシステムが動かない?とかなんとか。でも、システム部がすぐ対応してたから多分大丈夫なはず。外まだ蒸し暑い?」
ここ最近夏日が続いていて、ネクタイを締めるのも億劫な位だ。
仕事柄、ノーネクタイは許されないので帰宅すると真っ先に外すのが癖になっている。
「昼間程じゃないけど、あんまり気温は下がってない感じだな。
けど、さすがに帰りは上着無いと寒いんじゃないか?」
椅子に腰かけたままこちらを見上げる亜季の格好は、カーキの半袖シャツワンピースだ。
今朝は朝から気温も高かったのでその格好も頷けるが、9時を回ると一気に気温は下がって来る。
「ストール持ってきたから平気」
椅子に掛けてあるカバンを指差して笑う彼女に頷き返す。
「ならいいけど・・」
亜季は初夏から薄着を好む。
羽織もので調整するから、というが柔らかい二の腕がちらつくとなんだかなあ、と思ってしまう。
自己評価が物凄く低い彼女はさして気にもしていないようだが、触り心地を知っている丹羽としては、隠して置いて欲しいのが本音だ。
「亜季さん、寒いですか?冷房弱めます?」
「あーいいの、いいの。大丈夫よ、ちょうどいいから、ありがとー岸野君」
「いえいえ!遠慮せずに言ってくださいね!調理場と客席って結構温度差あるんで、わかんないんですよー。あ、丹羽さん、おしぼりでーす。亜季さんも、新しいのどうぞ」
「助かるわー。ほんっと気が利く!バイトの鑑ね!」
「まだまだ見習いですからー」
照れ笑いした彼が、大将の手伝いをするべく奥に戻って行く。
何とも誇らしげな後ろ姿だ。
若手を育てて来ただけあって、亜季は褒めるのが上手い。
人の良い所を見つけるのが上手いのだろう。
駄目な所が1なら、良い所はその3倍は褒めてあげよう、というのが長年新人教育に携わって来た彼女の持論らしい。
いかにも亜季らしい考え方だ。
後輩達がこぞって亜季について来たがる理由が分かる。
いつの間にか名前まで聞いてるし・・・
岸野が亜季さん、と呼び始めてから常連客まで亜季ちゃん、亜季さん、と呼ぶようになった。
今では丹羽よりも店に馴染んでいるのではと思う時さえある。
こういう所は凄く頼もしいんだけどな。
脱いだ上着の椅子の背に掛けていたら、亜季がカウンターに頬杖を突いて見上げて来た。
「ほんとに暑そうね・・ネクタイ窮屈じゃない?」
語尾がどこか舌っ足らずに聞こえるのは、彼女がいい具合に酔っているせいだ。
完全に酔っぱらってはいないが、いい気分である事に違いはない。
「窮屈だけど、もう慣れてるよ・・・ああ、そうだ・・亜季」
「ん?なに」
「ネクタイ、ほどいてくれる?」
結び目に引っ掛けていた指を外して、そのまま椅子に腰かける。
素面の彼女に尋ねたら、え!?と言って固まる事請け合いだ。
こういう新婚らしい展開には面白い位過剰反応してくれる。
「・・・こっち向いて」
頬杖をやめて身体を起こした亜季が、丹羽に向かって手を伸ばす。
「え、緩めるんじゃなくて、ほどくの?」
「面倒だから、外して帰るよ」
「・・あー・・そう・・ねえ、こういう事した事あったっけ?」
「多分、無かったと思うけど」
「そう・・よね、記憶にない・・・引っ張るよ?いい?」
「うん。いいよ」
不思議と亜季の指がネクタイに掛かるだけでこちらまで緊張してくる。
普段の彼女なら家じゃないのに、とか言いそうなものだが、そういう判断がつかない程度には酒が回っているらしい。
するすると結び目を引っ張ってネクタイを緩めていく。
息を詰めてネクタイを引き抜くと、亜季がほっと息を吐いた。
「なんかコレ、凄く緊張する」
「うん、顔赤くなってる」
「やれって言ったの岳明でしょ」
外したネクタイを丹羽の手に押し付けて、亜季が不貞腐れる。
こんな風に外で感情を露にするのは珍しい。
ちょっと子供っぽい亜季はかなり貴重だ。
急に先に連れて帰ればよかったと後悔が込み上げて来た。
こういう表情は、他の誰にも見せたくないのに。
「お待たせしました!ホッケ焼けましたよー。こっちは小松菜の和え物で・・あれ、亜季さんなんか怒ってます?」
先に頼んでおいたらしい料理を手にやって来た岸野が、亜季の顔を見てから丹羽の顔を見る。
「ちょっと聞いてよ、岸野君!あのね、岳明ってば」
「あーいいよ、言わなくていいよ。ただの痴話げんかだから放っておいて」
慌てて亜季の口を右手で塞ぐ。
今この瞬間に他人が割り込んで来た事に身勝手にもイライラしてしまう。
「あははー。わーご馳走様ですー。ごゆっくりー」
遠い目をして岸野が再び奥に戻って行く。
亜季がもがもがと暴れて、丹羽の手を外した。
眉根を寄せて思い切り剣呑な視線を丹羽向ける。
「んんー・・っちょっと!もう!反省してる?」
「反省はしてないけど、その話するのはやめよう。
亜季の拗ねた顔はあんまり見せたくないから」
頬杖を突いて亜季に顔を近づける。
真顔になった亜季が、残っていた自分のグラスを丹羽の前に押しやった。
「・・・飲んでっ」
「飲むよ」
口当たりの良いまろやかな冷酒だ。
亜季の好きな銘柄で、自宅の冷蔵庫にもストックがある。
空になったグラスを戻すと、次の言葉を探して戸惑う亜季と目が合った。
「照れ隠しの方法は、もうちょっと勉強しようか」
柔らかく微笑んだ丹羽を睨み付けて、亜季が次のお酒を頼んだ。
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