第53話 もしも

「やけに難しい顔してるね」


どうかした?と問いかけてきた丹羽に向かって亜季が唇を尖らせる。


「会社で噂になってんの」


「誰が?」


「あ・た・し・が」


思いっきり不服そうに顔を顰めて、亜季が手元にグラスを持ち上げた。


ビールはまだ半分ほど残っている。


「噂ってなにの?」


そんな目立つことしたの?と問いかけてきた恋人、もとい婚約者に向かって亜季が左手を持ち上げて見せた。


まだ空っぽの指。


これからこの薬指に嵌まるであろう指輪を思い描いて、亜季はくすぐったいような、照れくさいような何とも言えない気持ちになる。


たぶん、これが幸せっていうやつなんだろう。


と、まるで他人事のように考えてみたり。


つい先日決まったばかりの結婚に浮き足立っている自分の現実を、まだ完全に把握しきれていない亜季。


彼女のその仕草で噂の原因を突き止めた丹羽は、苦笑した。


「結婚の事か」


「そーなの、あたしって自分で思ってるより有名人だったらしいわ」


たかがイチ女子社員の結婚で、食堂が自分の結婚話一色になるとは夢にも思っていなかった。


頬杖付いた亜季がグラスを煽る。


仕事柄、他部署との関わりが多いせいで、顔が広かった自覚はある。


けれど、同期でも目立つのは佳織や樋口達のほうだったし、これといって自分が話題になるような浮いた話は社内で持ち上がったことがなかった。


あ、だからか・・・


これまで一度とて、色気のある話が上がったことのない亜季が、いきなり結婚するなんて事になったから、こんなに話題なのか。


っていうか、あたしを何だと思ってんだあの会社。


胸の中でひとりごちてみる。


これじゃあ、デザイン相談で丹羽を伴って店舗になんて出向いた日には、噂に火が付く。


あの、山下亜季を引き受けた男。


噂話がどんなものかなんて、容易に想像がついた。


”工程管理の女帝ついに結婚!!”


仕事の根回しと、情報収集の一環で、各部署の主要人物とは、それなりの交流を続けている。


おそらく、それらの人物が発信源となってあっという間に社内全体に噂は広がるだろう。


素直に喜べないのが、ちょっと悔しい。


仕事上どうしても譲れない折衝時など、強引な駆け引きをしてきた経験もある。


これまでの実績が尾ひれをつけて噂を増長させるであろうことは、容易に想像できた。


「あー憂鬱」


「俺との結婚が?」


意地悪い笑みを浮かべて丹羽が自分のグラスを空けた。


瓶ビールを持ち上げて酌をしながら、亜季が即座に否定する。


「そんな訳ないでしょ!」


自分がどれ位心底お嫁に行きたかったなんて、きっと一生異性の丹羽にはわからないと思う。


お年頃、といわれる結婚適齢期を過ぎてしまった女性の複雑な感情なんて、理解できっこないのだ。


だから、亜季は大人げないと思いながらも頬を膨らませて、不服を訴えるに留めた。


ここで、結婚願望について熱く語っても仕方ない。


たぶん、丹羽は笑って聞いてくれるのだろうけれど、まだ、そこまで開けっ広げにはできない。


こういう話題は女子同士でするに限る。


佳織や後輩たちとの飲み会のネタだな、と頭の隅で考えつつ丹羽への返事を続けた。


「冗談でもそういう事言わないでよ」


「ごめんごめん」


小さく笑った丹羽が、ありがとう、とお礼を口にして綺麗な比率で入ったビールを飲む。


これが、これからの日常になるんだ、と改めて実感する。


「これから先、きっと喧嘩することもあると思うけど、絶対、岳明には忘れないでいて欲しいことがあるんだけど」


「うん、聞くよ」


頷いた丹羽がグラスをテーブルに戻す。


それから、亜季の顔をじっと見つめて、穏やかな雰囲気をさらに柔らかく見せる笑みを向けた。


視線の先にいるのが自分だと思い知って、胸の奥が痛くなる。


「ここでいいの?真面目な話でしょ」


週末のざわめく小料理屋。


二人にとっては馴染みの場所であるけれど、結婚に向けた話し合いを行うにふさわしい場所とは言い難い。


かといって、ワインとコース料理に舌鼓を打ちつつ語り合えるほど、婚約したばかりの自分に酔えてはいない。


もう少し若かったら、いろいろ勝手が違ったのかもな、とも思う。


それでも、亜季にとってはこちらが現実だ。


丹羽の申し出に右手を突き出すようにして否と告げる。


「いいの、大丈夫だから」


「そう?」


「むしろ、そんな畏まった場所で言えない。恥ずかしすぎるから、ちょっと酔ってる位でちょうどいいのよ」


佳織の後輩の友世や、自部署の後輩の庄野なら、きっと目を潤ませつつ可愛らしく告げるのだろう。


けれど、それは無理だ。


歳だけじゃなく、キャラ的にも。


だから、ここまで一人でいたんだし。


でも、今のあたしだったから、岳明に出会えた。


別のあたしだったなら、彼と出会えていないい。


今さら、運命論語ってときめく歳でもないけれど。


今日位いいだろう。


「なに?酔ってないと言えないくらい、恥ずかしいこと?」


楽しそうに目を細めて、丹羽が亜季と視線を合わせる。


伸びてきた指先が、テーブルの縁をつかんでいる亜季の指先を捕えた。


「恥ずかしいっていうか・・・」


普通の女の子なら、あっさり言えてしまうセリフかもしれない。


でも、自分はそういうタイプではない。


自分の恋心を認めるまでに右往左往して騒ぎまくった過去は記憶に新しい。


仕事場でどれだけ頼れるかっこいい女だと言われたって、会社を一歩出れば、自分はどこにでもいる普通の女性だ。


そして、そこらへんを歩いているOLより、仕事はできても、恋愛経験値は半分以下だという自覚がある。


恋する乙女が笑顔で告げる可愛いセリフを言うのに2時間かかる面倒くさい女だ。


それでも、亜季がいいよって言ってくれたから。


「岳明が、あたしと結婚したいって言ってくれたことが、これまで生きてきた中で、一番嬉しい言葉だったって事。もしも、喧嘩してあたしが素直になれなくても、忘れないで」


ぶつかったり、傷つけあう日が万が一来たとしても、最初に思いあった記憶があれば、何度でもやり直せると思うから。


丹羽を見つめて真っ直ぐ告げる。


亜季の手を握ったままで丹羽が小さく頷いた。


「分かったよ、覚えとく。ありがとう」


「え、なんでお礼なの?」


「亜季が嬉しかったのと同じ様に、俺も嬉しかったから」


呟いて丹羽が微笑んだ。


亜季を見つめたままで指先を強く握る。


彼女の事を、もっと安心させて、大事にしたいと強く思う。


「俺の目下の目標は、亜季と喧嘩しない事だね」


「喧嘩もいいのよ、それで分かり合えるならね」


「じゃあ、これも覚えておいて欲しいな」


「うん、なに?」


「俺は、絶対、亜季を傷つけたりしないよ」


「・・・うん。ありがとう」


指先だけ繋がれたままの手を確かめるように見つめて、亜季が頷いた。


このまま下を向いていると、泣き出しそうで、慌てて視線を戻す。


「だから、安心してお嫁においで」


丹羽が殊更優しく告げて、爪の先をそっと撫でた。


潤んできた涙腺はそのままで亜季がありがとう、と告げた。

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