第97話 毎日愛情注いでるだろ

お酒を飲める体質で良かったと思うのは、丹羽と晩酌を楽しんでいる時だ。


佳織と亜季は、入社当時から同期の紘平や相良に引けを取らない位に強かった。


同期の女の子達が、甘ったるいカクテルで乾杯して可愛らしく酔っているのを横目に、営業メンバーに交じって、日本酒やら、焼酎やらを飲んでいた時期が懐かしい。


今でこそ無茶な飲み方はしなくなったけれど、佳織とやけ酒をした回数は片手では足りない。


宅飲みは気楽だし、楽しい。


いつ寝ても構わないという気安さがある。


美味しい日本酒やワインを飲みながら、ふたりで適当に作ったおつまみを食べる休日は、夫婦の幸せそのものだ。


丹羽が独身時代からよく一人で飲みに行っていたという駅前の居酒屋は、料理をするのが面倒くさくなる日曜の夜によく利用している。


晩御飯どーする?と尋ねた亜季に、丹羽が店行く?と返せばすぐに決まりだ。


徒歩10分の距離にある、マンションの一階に入っている小さな店は、大将と学生バイトで切り盛りをしている。


カウンターと、座敷席が2つのこじんまりとした店は、いつも丹羽が亜季を連れて行くようなお洒落なお店では無くて、下町の雰囲気が漂う、昭和の居酒屋だ。


逆にそこが気に入っている。


丹羽が気負わずに亜季を案内してくれた事が嬉しかったし、迎えてくれた大将が、亜季を見て、丹羽が女性をここに連れて来るのは初めてだ!と言ったことが、もっと嬉しかった。


丹羽の内側に自分の居場所を見つけられた気がした。


彼女です、と紹介された時も恥ずかしかったけれど、それ以上に、奥さんになったんですよ、と丹羽が大将に話した事のほうが恥ずかしかった。


お似合いだよ!と強面の顔をくしゃくしゃにして笑ってくれた大将が、嘘の吐けない実直な人だと知ってから、少しだけ、丹羽亜季に自信が持てた。


会社での山下亜季を知らない人に認めて貰えるのは、別の意味で物凄く嬉しい。


席が空いている時は、いつもL字型のカウンターの、短い角に亜季が座る。


隣に丹羽が座って、手際よく注文を捌いていく大将の料理の腕に関心しながら、のんびりと酒と食事を楽しむ。


ここに来る時は、パウダーと叩いて眉毛を書く位しかしない。


格好も、大抵がデニムかマキシ丈のワンピースだ。


丹羽もデニムにシャツを合わせる事が多い。


お互い一番楽な格好で、気負わず一緒に出掛けられる場所はそんなに多くない。


買い物に行くとなれば、やっぱり化粧はきちんとするし、洋服ももう少し気にする。


けれど、この店に来る時だけは別だ。


届いた今日のお造り三種盛りと、定番の枝豆を摘まみながら、丹羽が選んだ日本酒を味わう。


明日からの仕事の事を思うと、気持ちが滅入って来そうになるが、丹羽の穏やかな横顔を見ると自然と頑張ろうと思える。


「これが大吟醸・・・」


ガラスのお猪口に入った日本酒をちょっと飲んで、亜季が目を閉じる。


「一番飲みやすいと思う。これまで意識して飲んだ事なかったっけ?」


「ないよ、いつも適当にお任せしてたし。後は、名前見て雰囲気で選んでた」


「そうか・・・知ってるとそれなりに面白いよ。大吟醸は、口当たりもいいし、ちょっとワインぽいだろ?」


「うん、フルーティな感じがする。女性受けのよさそうな味よね。でも、こっちの純米酒は・・・味が濃い・・」


丹羽の手元にあったお猪口の酒を舐める位の感覚で味わったが、大吟醸とか比べ物にならないほど味が濃い。


「米の酒って感じするだろ?」


「うん、まさにそんな感じね」


「大吟醸は、ワイングラスで飲んでも合うんだよ」


「ああ、確かに・・」


今日は、味見を兼ねているから、と敢えてグラスではなくお猪口を出して貰ったが、これならグイグイ飲めそうだ。


ビールやハイボールも美味しいが、日本酒の味を覚えると、一気に大人になった気がする。


いや、もう十分大人だしな・・・


「亜季の好きそうなやつ」


「・・・うん、これは好きかも」


「だろ?そうだと思ったよ」


満足げに頷いて、丹羽がマグロを口に運んだ。


「ワインみたいに、家で飲んでみたいな。ほら、結婚祝いで貰った青い細長のグラスあったでしょ?」


「お洒落過ぎて使えないって嘆いてたやつ?」


「そう、それよ。あれを使うと、一気に宅飲み上級者になる気がする」


「寝かせておくのも勿体ないしな。キッチンの一番上の棚だっけ?片付けたの」


「うん、殆ど使わないから、上にあげて貰ったはず」


「じゃあ、帰ったら出してみるよ。来週、ちょうど酒屋にアポがあるから、ついでに良さそうなの見とく」


「嬉しい。楽しみにしてるね」


もう一口日本酒を飲みながら、亜季が明るく答えた。


店は、古くからの常連客が多いらしく、日曜の夜でも結構にぎわっている。


今日は座敷席に客がいないので、大将も少し余裕があるらしく何度か話しかけに来てくれた。


日本酒の種類について、丹羽と楽しそうに話しているのを聞いているだけでも、亜季には十分居心地が良い。


料理が空になる頃には午後8時を過ぎていた。


「そろそろ帰ろうか?」


時計を見た丹羽の言葉に頷く。


「あ、ちょっとだけ待ってね」


席を立つ前に、ポケットに入れて来た色付きの薬用リップで最低限の色味だけ添える。


薄付きだけれど、顔色が良く見えるオレンジを愛用していた。


鏡を持って来るのは面倒なので、スマホカバーの鏡を使ってはみ出していないか確認する事にする。


化粧ポーチ位持って出ればとは思うのだが、ここに来る時は、亜季はスマホしか持たない。


スマホを持ち上げると同時に、先に立ち上がっていた丹羽が、亜季の顎に指を掛けた。


「!?」


くいと自分の方を向かせて、唇の端を親指できゅっと擦る。


ナチュラルすぎる仕草に、声を上げる暇も無かった。


「うん、綺麗に塗れてるよ。じゃあ、会計するから」


「っは・・はいっ」


あわあわと返事をして、カウンターの中に視線を向けたら、大将と学生バイトのふたりとばっちり目が合った。


何とも言えないにやけ顔を向けられて俯いてしまう。


丹羽は、こういうところが人たらしだと思う。


他所でやったら承知しないけど、あたしにだから・・・許す。


外食先での会計は丹羽が払うのが何となく決まりになっていた。


出先で女性に財布を出させるのを丹羽が嫌がったからだ。


部下もいるし、営業同士の付き合いもあるだろうから、と交際費は別に渡してあるので、心置きなく奢って貰う事にする。


「ごちそうさまでした」


「美味しかったです!大将、また来ますね!」


お腹も心も満たされる週末は、何より気持ちが楽になれる。


店を出て、すっかり夜の帳が降りた夜空を見上げて、明日から仕事かー!と伸びをしたら、丹羽がそれ毎週言ってるな、と笑った。


家に向かってゆっくり歩きながら、お互いの翌週のスケジュールを確認し合う。


この日は飲み会、とか、会議、とか、残業確定、といった具合に。


5日間の予定を確認し合うと、大抵半分以上がすれ違いの日々だ。


抱える得意先が増えた丹羽は、最近日帰りの出張も多くなっている。


出世株だと上司の緒方からお墨付きを頂いているので、亜季も出来るだけ協力してあげたいと思っている。


せめて家にいる時間はリラックスして、英気を養ってもらうようにしよう。


料理も、もうちょっと、かなり・・うん、頑張ろう。


見えて来る目標を胸に刻みつつ、来週も頑張ろうね、と話していたら、背後から大声で呼ばれた。


「亜季さーんっ!!」


二人揃って振り返ると、さっき見送ってくれた学生バイトがこちらに向かって走って来るところだった。


「スマホ!忘れてますよ!」


さっきの出来事のせいで、落ち着かないまま店を出たので忘れて来てしまったのだ。


「あ!ご、ごめんなさい!!」


「すぐに気づいてよかったです。まあ、平然とあんな事されたら、テンパって忘れ物しちゃいますよねー」


スマホを差し出す彼が苦笑を浮かべる。


物凄く申し訳ない気持ちになった。


「いや、その・・つい、うっかり」


しどろもどろの言い訳を口にする亜季の隣で、丹羽が平然とスマホを受け取った。


「走らせて悪かったな。助かったよ、ありがとう」


「ほんっとありがとう!」


何で平気なのよ!?と詰りたいが、無駄な事は目に見えている。


「いえいえ、どういたしまして。間に合ってよかったです」


愛想よく笑った彼が、まじまじと亜季の顔を見つめた。


その視線に気づいた丹羽が、訝し気な表情で口を出す。


「なに?」


「いやーほんっと亜季さん結婚してから女っぽくなりましたよね!何か、綺麗になったって大将も言ってましたよ!丹羽さんも綺麗な奥さんで鼻が高いでしょ」


「えええ!?いや、嘘でしょ」


「ほんとですよ。自分じゃわかりません?」


「全然、全く!」


あるわけない、だってそんな・・


亜季はぶんぶん首を振って否定する。


にやけ顔のバイトに向かって、丹羽がまんざらでも無さそうに笑った。


「ああ・・まあね。手塩に掛けてるから」


「ちょ、それって違わない!?」


「違わない。毎日愛情注いでるだろ」


しれっと言い切った丹羽を睨み付ける。


それを言われると痛い、物凄く。


だって自分でも愛されている事をひしひし感じているのだ。


唇を引き結んだ亜季の短い襟足をするりと撫でて、丹羽がもう一度ありがとうと言った。

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