第75話 葡萄  丹羽さん家

「今日はねぇ、凄いのよ!」


夕食の後、唐突に切り出した亜季が意気込んで席を立った。


全く意味が分からずに、妻の後姿を見送って丹羽は首を傾げる。


上機嫌の亜季を見ているのは楽しいので構わないが、意味も理由も一切が不明。


怒っているよりは良いかと思いつつ、空になった食器を重ねてみる。


「何か良い事あった?」


「良い事を、したのよ、あたしが」


意味深なセリフと共に、冷蔵庫からタッパーを取り出した亜季が、食器棚を振り返る。


夏場に大活躍したガラス細工の器を選んで、フォークを二つ一緒に持って戻ってくる。


「なに?」


「何だと思う?」


「食べ物ってこと以外、これじゃわからないでしょ」


「他にも分かる事はあるでしょ、さー考えて!」


テーブルにタッパーと食器を置いた亜季が、中身が見えないようにタッパーを手で押さえる。


手のひらサイズのそれをまじまじと見つめて、丹羽が思いつく答えを口にする。


「デザート」


「うん、それは正解ー。亜季が作った?」


「作ったっていうほどのものでもないけど、ちょっと手を加えたってとこ?」


「って事は、そのままでも食べられる?」


「あ、鋭い!」


亜季のヒントから導き出される答えを手繰り寄せながら、丹羽が微笑む。


「フルーツ」


「正解!さあ、なんのフルーツだ?」


「そこまで考えろって?」


「考えたらすぐに分かるから!この季節の果物は?」


「えーっと・・・柿・・・?」


「岳明好きじゃないでしょ、柿は」


「よく覚えてたね」


「干し柿買う?って前に訊いたら要らないって言ってたもん」


休日スーパーへ食材の買い出しに出かけた際に、久しぶりに食べたくなって、問いかけたら即座に拒否されたのだ。


あの食感が好きになれないと言っていた。


亜季の選ぶ食材には、殆ど口を挟まない丹羽の珍しい自己主張だったので、記憶に残っていたのだ。


それ以来、丹羽家では柿はタブーになっている。


亜季も、どうしても食べたいわけではないので困る事は無い。


「なら、栗?」


「んー、ほかにはー?」


「この季節の果物・・・あ、葡萄?」


丹羽がタッパーを指さして回答を口にした。


亜季が途端に破顔して頷く。


夫の答えを確かめるように、タッパーの蓋を開けた。


「大正解!」


「巨峰?」


「デラウェア」


タッパーの中を覗き込んだ丹羽に、亜季が帰り道しなに寄ったスーパーで、美味しそうなのを見つけたから、と告げる。


皮を剥いた実が、赤い液体の中で泳いでいる。


「そのままでもいいと思ったんだけど、ちょっと試したいことがあってね。あたしたち、大人だし?」


「まあ、大人だけど・・・?」


亜季の言った言葉の意味が分からずに、丹羽が不思議そうな顔をする。


勿論未成年ではないし、いい年をした大人だ。


が、それと、このデラウェアに何の関係があるのか?


結婚前から、亜季には”あたしの料理には期待しないで!”と言われている。


昔から、お菓子を作ったりするタイプではなかったし、料理も得意じゃない。


家事は必要に駆られて一通りはこなすけれど、それだけだ。


決して世間一般の主婦レベルではない。


アイロンかけも苦手だし、掃除はそこそこ、得意料理はと尋ねられれば、即座にカレーなら、と答えるレベル。


そんな亜季がやった、イイコト。


まあこれだけ見れば、食べやすいように皮を剥いておきました、というところか。


けれど、それだけでこれほど得意げにはならない、はず。


妻の行動を細やかに分析しつつ、新たな答えを模索する夫の口に、デラウェアをフォークで刺して、差し出す。


亜季の視線に促されて、丹羽が素直に口を開けた。


舌の上に柔らかい実が落下した途端、馴染みのある味を感じて、気づく。


それから、亜季の言った”オトナ”の意味を理解した。


なるほど、そういうことか。


「赤ワイン?」


待っていた答えを導き出した丹羽の頬にキスをして、亜季がそーよ、と答えた。


「簡単レシピ検索したら、見つけたの。クリームチーズにかけてもいいみたいだけど」


「ああ、いい摘まみになりそう」


「一気に大人の味になったでしょ?」


「先に味見した?」


「当然でしょう?」


「それで上機嫌なのか」


合点が行ったと頷く丹羽を見つめて、亜季が瞬きをする。


言外にほろ酔いなのかと指摘されて、慌てて首を振った。


「赤ワイン軽く一杯よ!」


酒豪ではないが、飲める亜季がワイン一杯で酔う訳がない。


では、この上機嫌の理由は思いの他上手に仕上がったデラウェアのワイン漬けのおかげか?


ちょっとしたひと手間が、思いのほか当たって嬉しかったらしい。


子供のようにはしゃぐ亜季を見つめて、丹羽が小さく笑う。


急に頬にキスする位にはテンションが高いという事だ。


「ケーキは焼けなくても、こういう工夫ならできるのよ、あたしも」


「亜季が、ちゃんと努力してくれてる事知ってるよ」


料理も家事も一通りはこなす丹羽なので、妻一人に家の雑事を押し付ける事は無い。


出来る時に、出来る方が、出来る事をやる、スタンスだ。


日によって残業が発生する亜季は、出来るだけ手早く作れる料理を夕飯に選ぶことが多い。


簡単で、すぐ出来て、後片付けも楽ちんなメニュー。


お互い平日の晩酌も少なくないので、摘まみと、簡単なサラダで済ませてしまう日もある。


休日は、平日の忙しさを取り返すように、出かけて外で食事をする事も多い。


そんな生活の中で、亜季がじっくり料理をするチャンスはそう多くはない。


バターを常温に戻して、砂糖と小麦粉測って、ふるいにかけて・・・そんな手間かける暇があるなら、別の事やる。


あくまで合理的に事を運ぼうとする彼女らしい選択。


そして、そんな妻を丹羽は気に入っているので、亜季の大雑把な家事にも口を出さない。


気になるところは、黙ってフォローするスタンスを守っている。


兼業主婦で、お世辞にも料理が得意とは言えない亜季が、機嫌よく台所に立っている事実が、一番喜ばしい。


丹羽は手放しで亜季の成果を褒めた。


「そのうち、もうちょっと成長するわ。だから、長い目で見てよね」


「いいよ」


あっさり頷いた丹羽が、笑みを浮かべたままで付け加える。


「奥さんの料理が上達していくのを見てるのも、旦那の特権だし」


鷹揚な夫の発言に気をよくした亜季が、もう一つデラウェアを丹羽の口に運ぶ。


嬉しいからどんどん食べろ、ということらしい。


「そういうところが、亜季の可愛いところだと思うよ」


自分も食べなさいと、差し出されたフォークを掴んで、逆に亜季の口元に運ぶ。


あーん、と口を開けた亜季が、小さく、そう?と尋ねた。


さっきのお返しの頬にキスを落として、丹羽が肯定する。


「俺の反応を伺ってくるトコがね」


「・・・だって家族の反応は気になるし、普通でしょ」


「そうやってずっと、俺の事気にかけててよ」


亜季の短い髪を指先で梳いて、丹羽が囁く。


新婚の時期だけじゃなくて、と付け加えれば、亜季が赤くなって黙り込んだ。

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