第29話 急性恋愛中毒
「亜季ぃー」
「あら樋口、お疲れー・・ってなーに。えらく疲れてるね」
珍しくズタボロで工程管理室に入って来た樋口の顔を見て亜季が驚いた顔をした。
営業部のエースは九州から戻って来た途端月間売上一位を叩き出し、部下の面倒も見つつ上司のサポートもしつつ、狙いを定めていた佳織を射止めて結婚してからはさらに上がり調子を続けているのだが、そろそろガソリン切れのようだ。
「納期詰まっててさ」
「大変ねー徹夜?」
「そう・・昨夜から会社泊まり込み」
「わー・・コーヒー入れよっか?」
「頼む・・んで・・・亜季ちゃんはー・・なんかお前最近幸せそうだな」
「・・・な・・なんのこと?」
「しーらばっくれてーえ」
課長がこっそり持ち込んだポットからお湯を注いでコーヒーの粉末を溶かす。
濃いめのブラックコーヒーの入ったマグカップを樋口の前に置いた。
「さあ召し上がれー」
「あーきーちゃん」
「はーあーい、嫌だからあんたら夫婦揃ってちゃん付けやめれってのよ」
「あのさ、ありがとな」
「・・・へ?」
何かお礼を言われるようなことをしただろうかと思う。
怪訝な顔でこちらを見てくる亜季に向かって樋口が穏やかな表情で応えた。
「お前が元気だと佳織が幸せだから嬉しいよ」
「・・あ・・あんったってば・・」
亜季が幸せそうで良かったよ、と来るかと思いきや、佳織が幸せになるとぬかした新婚ボケの同期を愕然と見つめ返す。
「なんだ?」
「ほんとに佳織のこと好きね」
何食わぬ顔でブラックコーヒーをすする樋口が珍しく無言を通した。
仕事でもプライベートでも相良の二倍は良く喋るこの男が、ふいに黙ると何だか心配になる。
「・・・」
「なによ?」
「好きですよ」
「そこまできっぱり言われるとちょっと妬けるわ。なんか悔しいからー・・・」
そこまで言って亜季が電話機を取る。
すっかり頭に叩き込まれている内線番号を押してから続けた。
ちょうど部屋には自分しかいない。
働き詰めの同期に少しくらい癒しをプレゼントしてやってもいいだろう。
『はい、樋口・・』
「おつかれー」
電話から聞こえてきた親友の声に佳織の口調が一気に砕けたものになった。。
『亜季。なによいま暇なの?』
「暇じゃないけど、ちょっと頼みがあってさ」
『彼氏と喧嘩でもした?』
「ご心配なくしてません」
というか仕事が忙しくて、喧嘩するほど会えていませんと言う方が正しいのだけれど。
『なら結構』
「そうじゃなくって。ちょっと来てよ」
『え?今から?』
「そうよー。ちょっと時間作って」
『あのね、忙しいのよ、そんなに時間取れないけど』
「10分でいいから。ほら、こないだの工程改善会議の資料取りに行くって言って抜けて来なさいよ」
『えらく強引ねーなんかあんの?』
お互い部署の要のポジションである事を認識しているので、余程の事が無い限りは強引に呼びつけたりはしない。
「なんかはあるけど、それは後で」
いいからとっとと来いと言い捨てて先に電話を切る。
何なのよもう、とプリプリ言いながら席を立つ佳織を想像して待つこと5分弱。
工程管理のドアを開けるなり1日ぶりの旦那の顔を見つけて、佳織は素っ頓狂な声を上げた。
「やだ、なんで紘平いんの?」
「ちょっとヤボヨウで」
「なに?亜季と浮気でもするつもり?」
可笑しそうに笑った佳織の腕を引いて樋口が真逆の不服そうな顔をする。
「浮気したら殺すんじゃなかったのかよ」
「当たり前でしょ。八つ裂きにしてあんたの事海に沈めるわよ」
べっと舌を出して顔を顰めた佳織の頬を撫でて樋口が漸く満足げに笑った。
「じゃあ、あたしはコーヒーでも買ってくるわ」
相変わらず仲の良いご夫婦で羨ましい限りだ。
お邪魔無視は退散とばかりに佳織の肩を叩いて部屋を出る。
「え、ちょっと・・亜季・・これってどういうことよ?」
慌てる佳織に手を振って亜季は颯爽とドアを閉めた。
★★★★★★
二人きりになった途端、一気に距離を縮めた樋口が、佳織の腰を引き寄せる。
「そーゆうことだよ」
佳織が反論する間もなく唇が重なった。
もうずいぶん慣れた煙草の味。
付き合い始めてから完全にやめたので、今となっては煙草の味を確かめるすべは夫のキスのみとなった。
ハーフアップにしていた髪を慣れた手つきで解かれて、髪留めのクリップを机に置く音がやけに大きく聞こえた。
顔を覆うように降りてきた髪のせいで一気に視界が暗くなる。
唇の感触が心地よい。
ずっとこのまま浸っていたい気もするが仕事に戻る時間は迫っている。
夫の背中を佳織の指が滑り落ちたのがキスの終了の合図になった。
離した唇を親指でなぞって佳織が問いかける。
口紅は後で塗り直さなくてはならない。
「今日は帰って来れるの?」
「帰る。日付変わるまでには」
「それ絶対?」
「なんとかする」
「ほんとにー?Yシャツの替え、一枚しか置いて無かったよね?持って来とこうか?」
「いらねーよ。尚更会社に居座りそうで怖いな」
呟いて2度目のキスの催促をしてくる甘ったるい笑顔を睨み返す。
「だめ、もう戻らないと」
「あと5分」
「さっさと仕事に戻るのよ、それで今日は絶対帰ってくること」
「それまでお預けかよ」
ぼやいた夫の頬にキスを落として佳織が笑った。
★★★★★★
たっぷり20分かけて部署に戻るとふたりの姿は無かった。
机に置かれたメモには佳織の字で”気を使わせてゴメン。ありがと”とある。
添えてある一口サイズのミニチョコは佳織が好きなショコラ専門店のもので糖分補給用にいつも彼女が持ち歩いているものだ。
「いーなー・・」
同じ社内ならこうやっていつでも会えるのに。
そんな風に思ったら、止まらなかった。
「やだな・・・中毒みたい」
苦笑交じりで呟いて席に座る。
ついこの間まで、こんな風に考える事なんて無かったのに。
仕事の合間にふと甦るのは、二人で会った時の柔らかい眼差しや声、別れ際に交わしたキスの感触。
それから、熱を分け合った後の肌の温度。
次に会えるまでの時間をどうやってやり過ごそうか考えるなんて、まるで恋を知ったばかりの少女のようだ。
システムの確認、という言い訳を用意して、丹羽の直通番号に電話をする。
転送電話が携帯に繋がって、すぐに声が聞こえた。
『会社にかけてくるの珍しいね?』
亜季からの連絡は基本携帯に行うので、会社の直通電話に連絡を入れる事はまずない。
「忙しい?」
『今日は一日内勤。あれ、言って無かったっけ?』
「お聞きしてました」
会えない日も二日に一度は連絡を取り合うようにしている。
丹羽からマメに連絡が来るので、それに折り返したり、返信する事に慣れていくうちに、二日に一度は声を聞かないと落ち着かなくなってしまった。
これも新しい変化だ。
丹羽はその週のスケジュールを大まかに亜季に伝えてくれる。
この日は終日外出、この日は出張、この日は内勤メイン、と言った具合に。
『そう。言い忘れてたのかと思った。良かった』
「あのね、ちょっとシステムの確認がしたくって・・」
『うん、なんか分からない所あった?メールで返答した方が良ければそうするけど?』
忙しいんじゃないの?と聞こえてきた問いかけはスルーする。
だから、声が聞きたかったんだってば。
素直に言えたらどれだけか楽だろう。
丹羽はマメなのに、こういうところはちょっとだけ鈍い。
「電話の方が早いかと思って・・・」
言い訳がましく言ったら、丹羽が笑った。
『あーそう』
「なに、やな言い方」
『ごめんごめん。だってちょっと分かりやす過ぎて』
「何がよ!」
受話器をグンと引っ張って背もたれに勢いよく凭れる。
『怒んないでよ、すぐに機嫌取りに行けないんだから』
「なによ!!すごい勇気いったのに!メールの返事待つ時間も嫌だから声聞きたくて電話したんでしょ!!」
本当なら付き合う前の過程で終わっているはずの感覚。
いきなり”お付き合い”から始まったから未だにメールの返事が来ないと不安になる。
これは丹羽には内緒だ。
どこまで子供なんだと呆れられたら困る。
勢い任せに言ってしまった!!
がっくり肩を落として、手から滑り落ちそうな受話器を必死に握る。
けれど、返答はナシ。
30秒待って、けれど堪え切れずに呼びかける。
「えっと・・・あのう・・・岳明・・?」
『うん』
「そこで黙んないでよ、何か言って。居たたまれないから!」
必死に言い返せば、沈黙の後に爆弾が投下された。
『・・・可愛いねー』
思わず条件反射で返していた。
「そういうの電話でやめてよ!!」
余計に恋しくなるでしょ!!
もういい!と勢いそのまま電話を切ったのは言うまでもない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます