第74話 焦ってくれる?

「へー・・そんな事あったんだ」


「あたしも、さっき佳織から電話で聞いたんだけど」


「あ、電話あったの?」


「うん、岳明がお風呂入ってる時ね」


まだ濡れたままの髪をタオルで無造作に拭いて、丹羽がそう、と相槌を打った。


亜季と親友の佳織の間柄は結婚前から知っている。


新居にも遊びに来てくれた事があるし、亜季の事をよく理解してくれている頼もしい友人でもある。


「突き指で慌てるって、もーなんていうか、相良らしいのよね」


「でも、金庫のドアって聞いたら、確かに慌てるでしょ、普通。どう考えても軽傷では済まないイメージだし」


半渇きの前髪をかき上げて、丹羽が亜季を見つめる。


無造作なその表情に、思わず心臓が撥ねて、亜季は慌てて目を逸らした。


男で色気があるって、ズルい。


しかも本人無自覚だからさらに難い。


思わず膝を抱えて、うちの旦那ってば無駄にフェロモン全開なんですっ!とか言いたい。


が、言えない。


ので、仕方なく視線を逸らすことになる。


丹羽はというと、亜季の心境などお構いなしで、タオルを椅子にかけると、亜季の隣に腰を下ろした。


当然のように抱きしめられて、亜季は一瞬息を飲む。


何度この腕に抱かれても、暴れる心臓を抑える術は見つからない。


翻弄されて、乱されて、満足させられて、終わる。


空っぽになった亜季を綺麗に満たして、ささくれた心を慰めてくれるたった一人の人。


「まーね。でも、走ってくとこが、らしいのよ。もー佳織と爆笑!!同期の間じゃアイツの恋愛事情筒抜けだったから、暮羽への溺愛モードも納得だけど。部署内じゃ知ってる人なんて、殆どいないだろうし。男どもは呆気に取られて、女子は目をハートにしてうっとりしてたみたい。想像できるわ」


未だかつてないほど、直純は暮羽を大切にしている。


年下だから、昔から知っているから。


そんな言い訳では済まされない位に。


昔から女性には優しいし、マメで面倒見も良かった直純。


そんな彼が、輪をかけて暮羽を気遣う姿は、同じ女性から見れば憧れの対象そのものだろう。


自分だけを誰よりも大切にしてくれる王子様。


女子の端くれの亜季だって、憧れた相手なのだ。


勿論、過去の話ではあるが・・・


直純のそういう優しさや思いやりは、今も昔も認めている。


先に入浴を済ませた亜季と入れ替わりで入った丹羽。


いつもなら、佳織と亜季の電話は10分20分では終わらない。


小一時間は話している。


「さっきかかって来たのに、もう切って良かったの?」


短い亜季の髪を撫でながら丹羽が訊いた。


美容室で勧められたという、オーガニック系のシャンプーは優しい香りがする。


毎日のシャンプーが楽しみになる匂い、と亜季は評価したが、丹羽としては、こうして抱き寄せるのが楽しみになる匂いだ。


まだ、ほのかに暖かい首筋に唇を寄せて返事を待つ。


夫の指先を捕まえた亜季が、擽ったそうに身を捩った。


「それが・・・こっちは喋る気満々だったのに、邪魔された」


「え?俺が上がったから?」


「違うから、そんなわけないでしょ。旦那よ、旦那。あいつが電話口変わって、後の話はそっちの旦那としろって言って、一方的に切られたのよ!」


ほんっとに身勝手なんだから!と亜季が憤然と言い放つ。


おおらかで、面倒見が良いと言われる樋口紘平は、実は妻の事になると、物凄く心が狭い。


特に、亜季には容赦がない。


我が物顔で”俺のだ返せ”と言ってくる。


しかも、佳織が怒りながらもそれを受け入れる事を知っているから、余計に腹が立つ。


「ああ、そういう事か」


合点が行った様子で丹羽が頷いた。


「佳織が絡むと、ほんっとに心が水たまり位の大きさになるんだから、あいつ!」


「水たまりって・・」


「事実よ、事実。有り得ない位我儘を押し通すのよ」


「旦那さんも、佳織さんを亜季に取られて悔しかったんだろ」


「取ってないわよ!悔しいけど、樋口のもんだって納得もしてるし」


目くじら立てて憤る亜季の目尻に、宥めるようなキスをして、丹羽が笑う。


「俺は、結構悔しいけどなぁ」


「何が?」


「会社で顔合わせてても、佳織さんとは暇さえあれば電話したいんだ?」


「暇さえっていうか、何だかんだ話すネタがあるっていうだけで」


こういう言い方をすれば、井戸端会議をするおばちゃんのようだが、実際そうだ。


会社でのちょっとした出来事や、小さな悩み。


なんでもすぐに打ち明けられるのは、後にも先にも佳織しかいない。


同性という気安さと、同期という頼もしさがあいまって、これ以上ない関係を築いてきたから。


「話し相手なら、俺もいるけど?」


首を傾げて尋ねる丹羽の物憂げな表情は、溜息が出る程魅惑的だ。


濡れた髪が作る陰影が、整った顔をより印象的に見せている。


自分の夫に見惚れてるというのもおかしな話だが、事実なので仕方ない。


「え、だから、それは、女同士の話っていうか・・・男には分かんない事もいっぱいあって・・」


亜季は、なんだかよくわからない言い訳を口にしつつ、丹羽の腕の中で固まった。


止めとばかりに丹羽が亜季との距離を詰める。


間近で見つめられて、自然と頬が火照る。


吐息が触れる距離で、丹羽が目を細めた。


優しい眼差しが亜季を捉える。


「知ってるよ。ちょっと困らせたかっただけ」


低い囁きに、一瞬亜季が固まった。


「女友達相手にイチイチ嫉妬しないって」


丹羽が鷹揚に笑う。


からかわれたと気づいた亜季は、丹羽の腕の中から逃げ出そうともがいた。


「何よ、もう!」


「あんまり楽しそうだったからさ。でも、あんまり佳織さんばっかり大事にしてると、俺も嫉妬するよ?」


「・・・あっそ・・」


肩に回された腕をペシンと叩いて、亜季がそっぽ向く。


丹羽は苦笑交じりにもう一度亜季を抱きしめた。


「ごめんって」


耳元で零れた甘い囁き。


思わず頷いて、気にしてない、と言ってしまいそうになるが、我慢する。


丹羽の声が、亜季にだけ特別に優しい事。


その声を聞いたら、何も考えられなくなる事。


物凄くこの状況が不利である事は分かる。


でも、負けていられない。


「・・・焦ってくれる?」


夫が広げた腕の中に体を預けながら、亜季が訊いた。


「何に?」


「あたしが、暮羽ちゃんみたいに怪我したって聞いたら、よ。あ、もちろん、社外だし、仕事柄、すぐ来れるとか、来れないとかそういうのは別に置いといて、よ」


亜季の真顔の質問に、丹羽は驚いたように言った。


「それ、わざわざ確認するとこじゃないだろ」


「だって・・・一応」


「連絡を受けて、焦らないような相手と結婚したつもりないけど」


「・・・」


満点の回答に思わず亜季が黙り込む。


丹羽が悪戯っぽく微笑んだ。


「で、俺の答えに納得して貰えたのかな?」


「あ、うん・・」


「なら、今度は俺を納得させて」


微笑んだ丹羽が、亜季の項を撫でて唇にキスをした。



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