第73話 もしかして

大人だし、分別も常識もある。


自分の責任は自分で取れる人だし。


どこから見ても、きちんとした大人の女性だと誰もがいうだろう。


勿論、その意見には諸手を上げて賛成だし、そうだろう、と胸を張って言いたい。


彼女が自分の妻であることを誇りに思うし、心から愛している。


でも・・・たまーに、試されてるのかと、思う事があるんだよな・・・


丹羽はそんな事はおくびにも出さずに、目の前の妻に微笑みかけた。


土曜の夜23時。


駅前に新しく出来たというバーは、盛況で、小さなテーブル席は全て埋まっており、カウンターの空席も残りわずかという状態だ。


いつもは、二人で飲むなら馴染みの店か、宅飲みが多い。


最近は宅飲みばかりしていた気がする。


やはり、結婚して一番大きかった点は、出かけなくても二人で楽しめるところだ。


お互いの電車の終電を気にする事も無い。


忙しい平日の埋め合わせは、土日たっぷりすればいい。


待ち合わせをして出かけるのも楽しかったが、まだ明るいうちから、のんびり夫婦で、晩酌というのもなかなかいい。


結婚したから出来る事、という特別な感じがする。


家で飲めば、亜季がどれだけ酔っても問題ない。


これまでなら、外で飲むと帰りの心配がついて回った。


更に、亜季は丹羽と飲むときは遠慮なく飲む。


自分の限界ぎりぎりまで飲むので、盛大に酔っぱらう。


それだけならまだしも、酔うと結構な確率で外であろうが構わずに甘えてくるのだ。


家の中なら手放しで喜べるが、外だとそうもいかない。


そういう顔は、家の中でだけ見せてくれよ、と思った事も2度や3度ではない。


佳織と飲みに行っても、そんなに酔う事はない、と聞かされて以来、さらにそういう亜季を見るのは自分だけの特権のような気がしていた。


亜季が、時も場所も考えずに、無条件に甘えてくるのは俺にだけ。


あの親友の樋口さんにも見せない、特別な顔を、見せてくれる。


つまり、それだけ亜季が丹羽を信用している、というわけで。


さらにそれを、亜季からではなく、佳織から聞かされたという点でも、丹羽はかなり有頂天になっていた。


「あの亜季が、外で歩けなくなる位まで飲むなんて、ありえませんよ!


凄いです、それだけ、亜季がご主人に頼ってるってことですよ」


あのセリフは一生忘れられそうにない。


頼れるのは自分だけ。


誰かを庇ったり、守ったりすることはあっても、庇護対象が自分になる事は、絶対にありえない。


出会ったばかりの頃の亜季は、自分を強く見せようと武装して、肩で風を切って必死に前を向いている感じがした。


実際、彼女の年齢や立場を考えても、そうあるべきであった事に違いは無い。


けれど、終始一徹して亜季は、強くあろうとした。


少しでも誰かに甘えたら、立っていられなくなるのではないか。


そんな懸念を抱いていた、と結婚した後に話していたが、実際に丹羽の目に彼女はそう映った。


でも、こうして夫婦になって、亜季が素直に体を預けてくれるようになった。


自分を預けられる=信頼している証。


出来ない事を、人に頼ること、それも強さ。


そう思えるようになった、と亜季が語った時、そのきっかけが自分であった事が、心底嬉しかった。


ほんの小さな出来事をきっかけに、運命が回り始めて、そうして、丹羽と亜季は結婚した。


二人が出会ったことで、亜季の頑なな心が緩んで、亜季本来の持つ、柔軟でしなやかな志が、彼女の中に戻ってきたのなら、それだけで、亜季と結婚した価値があると、思える。


それくらい、丹羽にとって、亜季は特別で、大切な家族になっていた。


なので、そんな彼女の言葉は、どんな些細なことでも適当に返したりすることは無い。


が、今回ばかりは返答に困った。


一瞬黙り込んで、淡く微笑む夫を前に、亜季が頬杖を突いた。


「しないの?」


「・・・亜季」


窘めるように丹羽が名前を呼ぶ。


亜季は、けろりと残りのカクテルを飲み乾した。


これで最後と、夏っぽいカクテルを、とオーダーしたら、オレンジと黄色のグラデーションが鮮やかなカクテルが届いた。


一口飲んだ亜季に、感想を尋ねたら亜季が黙って目を閉じたのだ。


軽く唇を尖らせた彼女に、丹羽は一瞬狼狽して、けれどすぐに亜季の手を握った。


バーにしては明るい照明だし、人も多い。


さすがにここでキスするのは、と思ったのだ。


が、亜季はこの反応。


丹羽は苦笑いして肩を竦める。


こんな時に甘えるなんて、反則技過ぎる。


「もしかして、誘ってる?」


悔し紛れに意地悪な質問を投げてみる。


てっきり黙り込むだろうと思ったら、亜季が唇を持ち上げて微笑んだ。


「そうよ、知らなかったの?」


丹羽が降参、と呟いた。

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