第37話 有給休暇
時刻は23時半。
こうして声を聞くのは二日ぶりだった。
残業を頑張った自分へのご褒美に買ったチューハイ片手にほろ酔いの亜季は心地よい酩酊状態の中を揺蕩っている。。
そんな彼女の耳に、随分馴染んだ優しい恋人の声が響く。
「亜季」
これが携帯越しでなければどんなに良いか。
すっかり恋愛脳になってしまった心は、こうして恋人に名前を呼ばれると途端武装を解いて、乙女心で埋め尽くされる。
「うん?なに?」
「俺、明後日、有休だから」
「え!そんな急に!?」
「そう、ちょっと急にスケジュール空いたから」
「急にって・・もうちょっと事前に調整出来なかったわけ?1週間あったら必死になって調整するのに」
ぶすっと不貞腐れた亜季に向かって丹羽が苦笑交じりに携帯に向かって答えた。
「ほんとゴメン、そんな余裕も無い位いきなり空いたんだよ、丸一日」
「ええええ!!」
「ほら、出張って言ってただろ?」
「日帰りで・・・四国だっけ?」
「そう、四国支社で会議だったんだけど。肝心の支社長の身内に不幸があったらしくて、急きょ延期になったんだよ」
「それで、1日空いたと?」
「まぁね」
「仕事、他のは大丈夫なの?」
「そこは翌日からリカバーする予定」
「週末の予定にずれこませないでよ?」
蛍が見えるという県北部の田舎町までドライブの予定を立てているのだ。
亜季にとっては20年ぶりの蛍観賞なので物凄く楽しみだった。
絶対に外せない予定なので念押ししておく。
「それは無いよ」
「ならいいけど・・」
「で、明日来てくれると嬉しいんだけどな」
「1人だけのんびりするとかズルくない?」
「休めない?」
これは、予定を上手く調整してという意味では無い。
亜季の抱える仕事の量を考えれば、1日や2日の調整でどうにか出来るわけがない。
つまり、仮病でいきなり休めない?
という意味だ。
「・・・」
たっぷり1分近くの沈黙。
丹羽が可笑しそうに問いかける。
「あれ?」
弾かれた様に亜季が答えた。
「無理」
「意外」
「何でよ!」
「違うって。もっと即座に無理!って答えると思ったんだよ。だから、悩んでくれた事が意外」
「だって・・」
ごにょごにょと言葉にならない言い訳を口にした亜季。
丹羽が携帯越しに笑う。
「ちょっと嬉しかったな」
「そんな事言っても無駄だから!打ち合わせもあるし、会議資料はまだ出来てないし。研修の講師も頼まれてるし・・・特注の上がりが溜まってるし」
「はいはい、分かってるよ」
嬉しいのか残念なのかよく分からない楽しげな口調で言われて、何だか面白くないまま電話を切った。
★★★★★★
1人が翌日休みとなると、色々とタイムスケジュールが違ってくる。
電車の時間を気にする事も無いし、そもそも時計を見ない。
見ているのは亜季だけだ。
デパ地下で買い込んだお惣菜とワインで休前日モードなお家デート。
すっかり寛いだ丹羽はお気に入りのDVDを流し見しながら、亜季の爪先をなぞっている。
こちらの意図に気づいているのか気づいていないのか、亜季は視線を揺らした後で口を開いた。
「じゃあ、あたし帰るからね」
多分、いま一番聞きたくなかった言葉だった。
「どうやって?」
すでに終電ギリギリの時間だ。
いくら駅前と言えども走って間に合うかは微妙。
かく言う亜季もすでに酔っていて、走れるわけがない。
「んー・・タクシー呼ぶ」
電車での帰宅を諦めた亜季が、おもむろに手を伸ばした。
携帯を探すためだ。
けれど、丹羽はわざと携帯をローテーブルの端においやってしれっと答える。
「どうやって?」
「遊んでないで、携帯取って」
「嫌だ」
「たけあき!」
真面目な顔をして名前を呼ばれても、舌足らずなので少しも怖くない。
むうと眉根を寄せて子供っぽくなった亜季の迷いを消し去るように、一押し。
「明日、帰れば?」
「何言ってんのよ!早起きすんの誰だと思ってんの。ただでさえ朝は忙しいってのに」
身を乗り出した亜季の手を浮かんで逆手に引き寄せる。
抱き締められる格好になった亜季が困った顔で次の言葉を口にしようとする前に先手を打った。
この部屋に招いた時からそのつもりだったのだ。
「俺も早起きするよ」
「・・・」
「着替えあるし、化粧ポーチ持ち歩いてるだろ?化粧水もこないだ置いてったし。何か問題ある?」
付き合い始めて、亜季が部屋に来るようになってから早々にお泊りセットを家に置いておくことにした。
何かと便利だし、と口にしたのは当然建前で。
下心と真心が半々といったところ。
そもそも平日のこの時間帯まで恋人の家に居てどうして帰宅する選択肢が出て来るのか。
どうせまた、仕事とプライベートの切り替えが上手く出来ないとかなんとか言うんだろうと予想をしつつ答えを待てば。
「色々問題は山積みだから」
深刻な顔で言って来た亜季に、丹羽は鷹揚に頷いてみせた。
まあ、そんな事だろうとは予想していた。
「じゃあ、どれから解決しようか?」
綺麗に前向きな提案で切り返して、微妙に開いていた隙間を埋めるように亜季の身体を抱き寄せる。
残り数センチを一瞬で詰めれば、ぎゅうっと分かりやすく眉根に皺が寄った。
本当にどこまでも頑なな彼女だ。
あともう一押しかな、と頬に唇を寄せれば、分かりやすく肩を震わせるから堪らない。
じれったい位時間を掛けて、顎のラインに、こめかみに、耳たぶにキスを落とす。
迷うように指先が何度か開いて閉じてを繰り返して。
「わかった!負けた!泊まるわよ!」
根負けした亜季が白旗降参を口にした。
待ち望んでいた答えが聞こえて、丹羽は瞳を甘やかに和ませる。
「よくできました」
★★★★★★
いつもより小さい鏡で(カバンに入れていた手鏡)アイメイクをチェックすると、いつもの顔を違って見えた。
同じ手順を踏んだつもりなのに。
自宅に居る時はライト付きの折り畳み式コンパクトミラーをテーブルに載せてメイクをするのだが、今朝は勝手が違う。
覗き込むようにマスカラの塗られたまつ毛を指先で押し上げる亜季の後では、丹羽が不思議そうにその様子を眺めていた。
「寝てていいのに」
「何で」
「落ち着かないから」
「そのうち慣れるよ」
「そんなしょっちゅう目の前で化粧しないし!」
これでも一応女の裏舞台は隠しておきたい性分なのだ。
ブラウンのアイシャドウを瞼に載せて指の腹でぼかす。
ちょっとした明かりの角度なんかで発色が違って見えるから、余計慎重になる。
すぐ傍に、この世界で一番意識している男がいるからなおの事。
ハイライトを入れて、化粧ポーチに手を伸ばしたら、丹羽がその手を押さえた。
「何?」
「口紅と香水はちょっと待って」
「え?」
「コーヒーなら飲むだろ?」
朝ご飯は何も要らないと言った亜季だけれど、その問いかけには素直に頷いた。
結局あのまま夜更かししたので、あまりお腹は空いていない。
会社前のコンビニでお菓子でも買って摘みつつ昼食までやり過ごすつもりだった。
目を閉じればまざまざと甦って来る夜更けの出来事が、チークが不要な位肌を熱くさせるから、やっぱり平日のお泊りデートは危険だ。
ちゃんと会社のいつもの自席に腰を下ろせば、山下亜季を装備出来るだろうか。
「ブラックで頂戴」
「了解」
飽きることなく恋人の身支度を眺めていた丹羽が、亜季の耳たぶにキスをして傍を離れる。
甘やかすような優しい唇の感触にさえ、肌が粟立ちそうになるから恐ろしい。
翌朝のコレも計算ずくで引き留められたのだろう。
分かっていたけれど、もう完全に掌の上だ。
見物人が居なくなった亜季はホッとしつつ前髪を整えた。
キッチンに戻って、最近愛用のコーヒーメーカーから熱々のブラックコーヒーを注いだ丹羽が戻って来る。
マグカップが差し出された。
「熱いよ」
「ん」
ゆっくり口元に運ぶとコーヒーの良い香りが漂った。
徐々に目が覚める。
一口飲んでほうっと息を吐く。
そろそろ出なくてはならない時間だ。
半分程飲み終えたそれをテーブルに戻すと、丹羽が屈みこんできた。
顎を捕えて唇を重ねる。
ああ、だから口紅は後で・・・
そんな風に思ったら、もう一つのセリフが浮かんだ。
香水も後で・・って何で?
離れた唇がもう一度触れてから今度こそ離れる。
と、ニットの襟ぐりを引っ張って丹羽が唇を寄せた。
高い体温と同時に焼けるような痛みが走る。
何をされたのか瞬時に分かった。
昨夜は付けないで、とお願いした情熱の痕。
「だから香水後って・・」
離れた丹羽がこめかみにキスをして笑う。
「苦いからさ」
何と言い返して良いか分からず困った視線を向ける亜季の髪を撫でて丹羽が行ってらっしゃい、と言った。
それから、思い出したように付け加える。
「今日は鏡見るたび俺の事思い出してよ」
鏡見なくても思い出すわよ!
とは言えなかった。
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