第103話 朱夏佳人
地下鉄の改札を抜けて、ビルのエントランス前に一番近い出口の長い階段を上って、蒸し暑い地上に出ると、丹羽は最早腕の一部のようになっているなじみ深い腕時計で時間を確かめた。
これまでも打ち合わせで何度か訪れているし、プライベートでも、何度も、当時はまだ恋人だった彼女を迎えに来た。
勿論、結婚した今も時間が合えばこうして迎えに来て夕飯を外で済ませる事もある。
別段珍しい事ではない。
が、お互いの仕事の繁忙期がずれていた為、ここ最近志堂本社のビルを尋ねる事は殆どなかった。
亜季の仕事は宝飾品の製造工程を管理する部門なので、一番忙しいのは浜揚げされた真珠が加工に回される冬から春にかけてのシーズンだ。
それとは異なり、丹羽の仕事はシステム開発の為、得意先の発注が入った途端目が回る忙しさになる。
大口取引が続けば永遠に繁忙期は終わらない。
営業職なので、当然のことながら売り上げが伸びるのは有り難いし業績アップは給料にも賞与にも影響するのだが、得意先からの発注が増えれば増える程、帰宅時間は遅くなり、自宅で過ごす時間は削られていく。
”定時退社日”という会社規定はあってないようなものだ。
休日返上でデスクワークに耽る同僚が、家族との時間が取れないとぼやくのを横目にしながら、いつも通りのサバサバした表情で見送ってくれる理解ある妻の対応には、いつも感謝が絶えない。
社会人経験が長い分、丹羽の苦労も努力も手に取るように分かるのだろう。
社内の花見の席で初めて亜季を紹介した際にも、持ち前の適応力を遺憾なく発揮してその場に溶け込んでくれていた。
良い奥さん貰ったな、と同僚たちに肩を叩かれた時には、そうだな、と控えめに応えはしたが、内心は胸を張って大きく頷いていたのだ。
自己評価の低い妻がどこまで理解しているのかは定かではないが、丹羽は自分の妻に常日頃から満点を付けている。
家事が苦手である事も、男勝りな気質も、誰にでも愛想が良すぎるところも含めて、だ。
漸く太陽が翳り始めた午後6時過ぎ。
地下鉄に乗る前に、亜季に何時頃仕事が終わるかSNSで確認しておいた。
”今日は課長が会議→飲み会で決済下りないから6時半までには会社を出る!”
と返事が来たので恐らくまだ仕事中、もしくは帰宅準備中といった所だろう。
得意先から直帰で帰れるのは久しぶりだし、今日は金曜だ。
エントランスで待ち伏せした亜季を驚かせた後は、久しぶりにふたりで夕食デートをしようと思っていた。
いつものラフな格好では行けない店で、且つ酒も楽しめる店を何件かピックアップしておいたので、亜季を捕まえてから意向を確かめる。
明日が休みだと思うと時間にも気持ちにも余裕が出て来る。
梅雨明けと同時にやって来たうだるような暑さには気が滅入るが、楽しみが待っていると思えば、こうしてエントランスから出て来る人を確かめるのも苦痛ではない。
そんな丹羽の隣を、同じように地下鉄から続く階段を上って来た人々が追い抜いていく。
屋根の下で日除けをしながらスマホを操作していると、真横を通り過ぎた人物がいた。
普段から様々な人間と相対しているので、芸能人でもない限り気にも留めない丹羽だが、なぜかその人物を目で追ってしまった。
すらりと伸びた細身の身体。
着ている白いシャツの後ろ姿から放たれるオーラが一般人とは明らかに異なっていた。
長めの襟足が僅かに風に揺れて、彼の周りだけ涼しい風でも吹いているようだ。
雑誌でよく見るイケメンモデルだろうかと、彼の後ろ姿をぼんやりと眺めていると、エントランスから小走りで亜季が出て来た。
ところが、呼び掛けようとした丹羽が声を発するより先に、彼女が視線をキョロキョロとさせて、目の前のイケメンに向かって駆け寄った。
「あ・・!?」
丹羽は思わず自分の口元を手で覆った。
亜季、と上げかけた手が行き場を失くしている間に、あろうことか彼女は自分から彼に抱きついたのだ。
この距離では話し声までは聞こえてこないが、明らかに亜季が浮かれているのは遠目からでもその表情で分かる。
亜季が時折丹羽に甘えた時に見せる表情とも違う、全く見た事のない顔だ。
結婚式とその前の親族顔合わせで紹介された山下家の親戚にあんな男はいなかった。
しかも、彼はラフな白シャツにデニムという格好。
恐らく亜季の会社の同期ではありえない。
じゃあ大学の時のサークル仲間?高校の?それとも幼馴染?
いや、そんな話は聞いたことが無い。
丹羽の知る限り、社会人になってからの亜季は同僚の相良直純に長い片思いをしていた筈だ。
じゃあ、彼は一体誰なんだろう?
さまざまな疑惑と不安が渦巻く中、丹羽の見ている前で亜季が頬を染めてイケメンのサングラスを外しにかかった。
亜季に限って不倫なんて絶対に有り得ない。
昔の恋人だったとしたら、それはもう過去の事で、丹羽にだって胸に残る思い出の一つや二つ当然ある。
けれど、この距離はあまりにも近すぎるだろ!?
亜季とサングラスのイケメンがどんな関係であったとしても、今亜季は、丹羽亜季で、自分のたった一人の妻だ。
この状況を黙って見守る義理何てどこにもない。
いくら気安い亜季でも、異性の男友達に抱きついたりはしない、はずだ・・恐らく。
何とも言えない気持ちのままエントランスに足早に向かう。
サングラスを手にした亜季は、彼の顔を至近距離から覗き込んでさらに頬を紅潮させた。
・・昔好きだった相手・・とか?
ぎりぎりで浮かんだ勝手な妄想を振り払うべく、真横から割り込んで、サングラスを掴んだままの亜季の手首を無言で掴んだ。
「!?」
ぎょっとなった亜季が丹羽の顔も見て目を丸くする。
手荒いナンパと勘違いしたのか、亜季の腕を掴んだ丹羽の腕を即座に掴んだイケメンが、亜季の表情を見てから口を開く。
奇しくも丹羽の声と綺麗に重なった。
「「亜季、こちらは?」」
「岳明!?なんで!?どうしたの!?」
「「知り合い?」」
再びふたりの声が重なる。
丹羽の耳に聞こえて来たイケメンの声が、想像よりも高くて、その事に違和感を覚えると同時に、丹羽の腕を掴んでいた力が緩んだ。
亜季が驚きを隠せない表情のままで、丹羽の事を手で示した。
「ええーっと・・涼子先輩、紹介します、うちの・・旦那です」
「ああ・・噂の旦那さん・・それは失礼しました」
亜季の言葉に納得したのか、涼子と呼ばれた人物が丹羽に向かって軽く頭を下げた。
真正面から見ると、男性にしては確かに骨格が華奢だ。
切れ長の目元と泣き黒子が印象的なまさにその名にぴったりのモデル並みの美人がそこに居た。
状況を正しく理解した丹羽の中に唐突に押し寄せて来たのは罪悪感だ。
不躾で非常識な男と思われたに違いない。
「いえ・・その・・こちらこそ、いきなり割り込むような真似をしてすみません・・初めまして丹羽と申します」
「初めまして、木寅です。亜季からメールで結婚報告を受けていたので、いつかご挨拶したいと思っていました」
「涼子先輩は、あたしのバレー部時代の憧れの先輩なのよ!」
亜季がキラキラと瞳を輝かせて涼子を見上げる。
なるほど、この視線は好意というより崇拝に近い眼差しだ。
自分自身に覚えが無かった事も頷ける。
亜季が丹羽対して抱いているのは紛れもない愛情であり、崇拝ではない。
「ああ・・そうだろうな」
投げやりな気持ち半分で苦笑いをする丹羽を見て、涼子が苦笑を漏らした。
「幸せそうで安心した。こんな所であんたの大好きな旦那さんに会えるとも思わなかったし」
「ちょ!先輩っ!」
慌てたように亜季が涼子を睨み付ける。
そこの所をもっと詳しく、と意気込みたい気持ちの丹羽に向かって彼女が唇を開いた。
「今は海外で生活をしているんです。たまたま日本で仕事があったので、ついでに遅ればせながら結婚祝いを渡そうと思って、会社の前で待ち合わせしていたんです」
「モデルさん・・とかですか?」
さっきの歩き姿といい、独特のオーラといい、そうとしか思えない。
彼女の纏う中性的な魅力はここ最近日本ではお目に掛からないタイプの美人だ。
「そうなのよ!オーラがもう全然違うでしょう!?学生時代はファンクラブとかあったんだから!」
恐らく亜季もそこに加入していたのだろうと、確認しなくても分かる言い方だった。
まるで女子高生に戻ったようなはしゃぎっぷりは、丹羽も初めて見るもので、嬉しいような、悔しいような、ごちゃ混ぜの気持ちが胸に渦巻く。
妻の過去をとやかくいうような器の小さい男のつもりは無い。
まして相手は女性だ。
けれど、だからこそ入り込めない雰囲気がそこにはあった。
「恥ずかしいから言わないで」
目を細めて亜季を見つめる涼子と、それを見つめ返す亜季の何とも言えない雰囲気に、さっきは消えた嫉妬心が湧き上がって来る。
「・・本当にさっきから通行人の目が痛いですよ」
ぐるりと周囲に顔を巡らせれば、道行く女性たちがこぞってこちらを二度見している。
「じゃあ、これ以上注目を集めないうちに行きます。丹羽さん、どうか可愛い後輩をよろしく。末永くお幸せに」
「お祝いありがとうございます!次はもっとゆっくり帰国して下さいね!ちゃんと事前に連絡もして下さい、仕事無理やり休みますから!」
涼やかな笑顔を亜季から返されたサングラスで隠して、去り際まで寸分の隙も無い完璧な後ろ姿で歩いていく。
タクシーに乗り込んだ彼女を見えなくなるまで見送って、亜季がほうっと息を吐いた。
無意識だろうが、さっきから亜季の両手は祈るように組み合わされたままだ。
この調子で女の子たちから群がられていたのだとしたら、かなり賑やかな学生時代を彼女は送った事だろう。
「俺が聞いたこともないような可愛い声出してたけど・・・」
恨めしい気持ちと、意地悪な気持ち半々で言ってみる。
丹羽の言葉に、亜季がびくりと肩を震わせた。
ぐるん、と隣を振り向いた亜季は、丹羽のよく知るいつもの亜季で、少しだけ溜飲が下がる。
「そんな声出してた!?」
年頃の女の子がテレビで歌い踊るアイドルに向かってキャーキャー騒ぐような感じ。
と言いかけて、留まる。
「ハートが飛んでたけど・・確かに、何ていうかカッコイイ女性だったね」
恐らく社内で相当カッコイイ女だと言われているであろう自分の妻とは、また違ったタイプの女性だ。
「かっこよくてね、スパイクがキレッキレでね!ここぞって時には必ず点数取ってくれるのよ!凛々しくて、爽やかで、優しくって・・チームメイト皆から好かれてて・・勿論成績も優秀で、試合に行くと、他校の生徒がザワザワすんのがまあ心地よくって・・・ほんっとに自慢の先輩で・・」
放っておけば朝まで続きそうな伝説の数々だ。
丹羽はコホンと咳ばらいを一つして、亜季の手元を指差した。
木寅涼子が届けてくれた結婚祝いの紙袋だ。
「お祝い何を貰ったの?」
「バスタオルだって言ってた。使えるものが良いってリクエストしたから」
見れば有名ブランドのロゴが入っている。
「へえ・・良かったね」
バスタオルなら間違いなく使えるし、と続けた丹羽を見上げて、漸く亜季があれ?と声を上げた。
「そういえば、岳明なんでいるの?」
「・・そういえばって・・仕事が早く終わったから驚かせようと思って来たんだよ。
そうしたら目の前でイケメンに抱きつくし・・」
これ以上続けるとみっともない頭の中の妄想を漏らしてしまいそうで口を噤む。
格好付けと言われても、あんな完璧イケメンもどきに遭遇した後で、嫉妬したなんて言えるわけもない。
「最初っから見てたの!?」
「見てたよ・・・」
「涼子先輩に会ったのは4年ぶり位で、結婚式にも来てもらいたかったんだけど、その為だけに帰国して貰うのも申し訳ないし、だから、その、会えて嬉しくってね・・・つい、年甲斐もなくはしゃいでしまったと言うか・・」
「元カレに再会した言い訳を聞かされてるみたいだけど?」
「だって、岳明が拗ねたみたいな言い方するから!」
唇を尖らせて反撃してきた亜季の言葉に、思わず不意を突かれた。
思い切り不機嫌が声に出ていたらしい。
どんどん見栄張れなくなってるな・・俺・・・
夕焼けに染まった空を見上げて、ゆっくりと深呼吸をひとつ。
ここでこれ以上良い格好しようとしても無駄という事がよーくわかった。
ならば、後は自分の気持ちに素直に従うまでの事だ。
丹羽は再び亜季に視線を戻すと、彼女の手からお祝いの入った紙袋を取り上げて、その手をしっかりと捕まえた。
「で、仕事は終わった?」
指を絡めながら尋ねると、即座に亜季が頷く。
「勿論、終わらせましたとも!」
「夕飯外で食べようと思って来たんだけど・・」
「あ、そうなの?賛成だけど・・えーっと、岳明。あのね」
「なに?」
穏やかに尋ね返した丹羽の視線から逃げるように、亜季が繋がれた指先を見つめる。
「あの、ここあたしの職場の目の前なのよね、だから、その、手を・・」
「夫が妻の手を握るのに場所とか時間て関係ある?」
「いや、今はほら帰宅ラッシュの時間でね、知り合いにも会うかもだし」
「だったら尚更繋いでおいた方が良くないか?」
「だけど、ここではあたしは山下亜季で」
「俺といる時は丹羽亜季だろ?」
「・・・」
黙り込んだ亜季が次の言葉を探す間に、丹羽は亜季の指を軽く引っ張った。
「それより奥さん。俺は今物凄くキスがしたいんだけど」
「っは!?」
「どこでなら、許してくれる?」
胸に渦巻く感情含めて綺麗に腹の中に収めるには、亜季の唇がどうしても必要不可欠だ。
「はああ!?」
「だから、キ」
「い、言わなくていいわよ馬鹿!何考えてんのよ!何処とか、外は駄目に決まってんでしょ!」
目くじらを立てて言い返した亜季に、丹羽が言質取ったと意地悪く微笑む。
「なら、すぐに帰ろう。外食は無しで」
「え、でも冷蔵庫空っぽで」
「デリバリー頼めばいいよ。何時に食べるか分からないから、冷めても大丈夫なやつにしよう」
「は?え?ちょっと?」
目を白黒させる亜季を半ば強引に引っ張って、地下鉄の入り口を素通りして、タクシーを止める。
今は一刻も早く二人きりになる事が最優先事項だと、丹羽は思った。
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