第46話 唇
「最近、亜季の口紅ベージュ系多いわよね」
佳織と”ふたり女子会(定期的に行われる飲み会のコト)”ついでに百貨店の化粧品フロアを覗いたら、ついつい、馴染み色のグロスや口紅ばかりに目が行ってしまった。
佳織からの指摘に思わず顔が赤くなる亜季。
そんな親友の態度に、佳織が怪訝な顔をする。
「なんでそこで照れるのよ?私、なんかヘンな事聞いたー?」
「え、違う!全然変じゃないから」
むしろ、変なのはワタクシの頭の中身でございます・・・
穴があったら、入るというより勢いに任せて飛びこんでしまいたい。
慌てて手にしていたベージュのグロスをディスプレイに戻す。
「何よ?ひとりで百面相しちゃってー。なになに、赤くなる様なコト、考えてたわけー?吐け、吐き出しちゃえー」
遠慮なく脇腹を突いてくる佳織の腕を払って亜季がブンブン首を振る。
つい先日、工程管理に丹羽が尋ねて来たトキの事を思い出してました、なんて言えない。
仕事の話をした事じゃなくって、その後。
2人きりで仕事場の片隅で・・・
耳たぶを撫でる彼の指が項へと回って、やがて背中に下りた。
どこまでも緩くて、亜季任せな彼の掌。
逃げられない事を知っていて、それでも、最終審判は亜季に委ねてしまう、何処までもズルイ男。
けれど、不自然なほどに優しい掌とは裏腹に、重ねた唇は、どこまで強引に亜季を欲しがった。
触れるだけの優しいキスは最初の数秒で、亜季が抵抗しない事を知ると、途端に深くなった。
絡めた指先が顎を捕えて唇を割って舌が捩じ込まれる。
そこまでの予想はしていなかった。
といえば、嘘になるけれど。
まさか、自分が職場で隠れてリップ音がすうような濃密なキスをするとは夢にも思わなかった。
亜季の唇を彩っていた、淡いピンクはすっかり禿げて、丹羽の唇を汚した。
2人が離れた直後に、彼の唇に移ったそれを見て、どうしようもなく恥ずかしかった事を思い出したのだ。
慣れた手つきで指先で口紅を拭った彼の仕草をまともに見る事が出来なかった。
いつも触れている、多分今、一番亜季の身体を知っている彼の一部。
今更これ位で動揺するような関係でも無いのに。
何故だか、恥ずかしくて仕方なかった。
長い指が綺麗に口紅を落として、丹羽の目が、まるで悪戯がばれた時の子供のように無邪気に細められた。
放心状態の亜季の頬を緩く撫でた後で、ネクタイひとつ乱さない、完璧な姿で。
「亜季、ちゃんと仕事に戻れる?」
なんて尋ねて来て。
卑怯者!!と叫ばなかった自分を、亜季は盛大に褒め称えたものだ。
勿論心の中で。
丹羽の指先に残ったピンクをティッシュで綺麗に拭き取ってやりながら、亜季が思った事。
”もうちょっと目立たない口紅に変えなくちゃ”
だった。
そんな事を、思った自分に驚いて、すぐさま無かった事にした。
咄嗟の思いつきで、恥ずかしさの余り死にたくなる。
口紅じゃなくって、口紅塗ったままでキスする状況を変えようと思えよ!自分!
思いっきり突っ込んで、それから、そんな事を考えた自分にパニックを起こした。
恋愛が日常に復活してから、さまざまな変化が起こった。
携帯の使用頻度が急に上がった事。
お肌の手入れに気を使うようになった事。
休日の予定が増えた事。
・・・触れ合う時間が増えた事。
自分で自分を抱き締める事しか出来なかった頃とは違う。
安っぽい言い方だけど”温もりを分かち合う”って一番の充電になると思う。
身体も心も活性化する。
今の自分には”キスしない”って選択肢は浮かばない。
それが、何より不思議で可笑しかった。
ふいに、隣りで返事を待つ佳織に訊いてみたくなる。
「ねえ、口紅塗ったままで樋口とキスする?」
「はぁ!?」
「ちょっと気になって・・」
「キスって・・・もう結婚してるんだし、そうそうないわよ。家に帰るとまずリップ落とすようにしてるし。ほら、食器とかに付くと厄介だから。紘平あの味が嫌だっていうし」
「あー口紅とかグロスの合成っぽい味ね」
「変な事言わせないでよね」
「ベージュだと、移っても目立たなくていいかと思ったんだけどね」
亜季の発言に佳織があんぐりと口を開けて立ち止まる。
「あたしらしくない?」
問い返されて、佳織が笑う。
「そんな事ナイ。いいよ。そういうあんたが、私は好きよー」
抱きつかれた亜季が今度は声を上げて笑った。
「イイ歳した大人が何やってんだって話よねー」
佳織の背中を叩いて亜季が呟く。
「大人だって恋するわよ。私は今も紘平に恋してるけど?」
「わー・・・尊敬するわ」
「どっちを?」
「佳織を夢中にさせる樋口」
亜季の言葉に佳織が照れくさそうに笑った。
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