第93話 ブラックアウトⅡ

当時の亜季の頑なさと可愛げのなさと言ったらなかった。


普通あの状況で、暗闇の中駆け出すかな?


いや、そういう女だってわかってたんだけど。


あの時の庄野さんを助けに行く必死な姿を見ていたら、なんだかもう、堪らなくなった。


俺の予想通り、数分後戻って来た時には、亜季はまるで映画のヒーローみたいに誇らしげな顔で、終始目尻を押さえる後悔の頭を優しく撫でていて、そこには、さっき悲鳴を上げた等身大の山下亜季はどこにも見当たらなかった。


頼ってきた後輩は全力で守ってみせる、まさにヒーローみたいな先輩なんだな。


最初の飲み会の立ち位置的にも、何となく亜季の職場での扱われ方は分かっていたけれど、こうも完璧な先輩らしい姿を目の当たりにすると、自分が出会った山下亜季が、本物なのかと疑いたくなる。


俺の些細な一言に全力で噛みついて、必死に自分を守ろうとしていた、鎧の向こうが透けて見えそうな彼女は、いったいどこにいったのだろうと。


”女はひとりが長くなると、強くなるのよ!”


いつだったかそんな風に言っていたけれど、それは違う。


自分を騙すのが上手くなるのだ、たぶん。


痛みを無かった事にして、理想と違う現実を受け入れる為に。


だから、あの時の亜季は、きっと必死に自分を騙していたに違いない。


あの時触れられなかった亜季の手は、きっと震えていたと思うから。


後輩から慕われて、同期からも一目置かれる、上司からの信頼も厚い、出来る女が、山下亜季。


寸分の隙もなく、多少の妬みや嫌味は聞き流して、常に前を向いている事。


よくもまあ強がって意地張って、それを押し通したものだと思うが、それが、丹羽の惚れた女なのだから仕方ない。


向かい風にも負けずに挑む強さは賞賛に値すると思うし、まだまだ男女差別の残る日本社会において、第一線を守り続けているその努力は褒められて当然だ。


けなすどころか尊敬の念すら抱きそうになる。


それがここまで必死に自分を守って来た亜季の軌跡だ。


少しだけもどかしいのは、亜季がその軌跡のせいで、今も時々”ふたり”である事を忘れてしまう事だ。


限界までひとりで踏ん張ろうとする亜季の姿は、社会人として見れば誇らしく頼もしいのだろうが、夫して見れば、かなり心配で危なっかしい。


いつ折れるだろうかとハラハラしながら見守っている事を、亜季は知ってか知らずが、倒れるまで自分を曲げない。


差し伸べた手が突っぱねられる事を承知で、それでも手を出さずにいられない複雑な心境は、きっと生涯亜季には理解できないだろう。


自分の事以上に相手の事を気に掛けて、思いやるのが夫婦の心髄なのだとしたら、とうの昔に丹羽は仙人の域に達している。


出会った時に”変な女”と思った時点から、ずっと亜季の事が気になっているのだ。


それは結婚した今も変わらない。


あの頃よりは幾分か柔らかくなって、自分から甘える事も覚えて来た妻だが、それでも一歩家の外に出ると、途端、丹羽の庇護下から飛び出してしまう。


彼女が作る小さな傷が、大きくなる前に塞いで癒すのが丹羽の夫としての一番大きな役割でもある。


絆創膏貼る前に、拳を握ってしまうような妻だが。


それでも、どこの家の奥さんよりも、うちの奥さんが可愛いし、うちの奥さんが一番だと思うのは、もう惚れた弱みとしか言いようがない。


結局のところ、自分の傷を顧みずに前線に立とうとする亜季の事が、好きなのだ。


平気よ、と意地を張る彼女が、時折見せる涙を知っているのは自分だけで、疲れた羽根を癒す場所が、自分の側である事を丹羽は嫌と言う程実感している。


さすがに強がりが過ぎると苦言を呈すが、それでも亜季の姿勢を曲げないのは、そういう山下亜季の強さに惹かれたから。


そう、丹羽の知る山下亜季は、とことん強く、いや、強くあろうとする女だった。


☆☆☆


「降水確率40%だったっけ?」


「勝負に負けた感じね」


昼前から降り出した雨に、丹羽と亜季は顔を見合わせた。


丹羽家のリビングである。


「洗濯明日にして正解だったろ?」


「大物と二回回さなきゃ駄目だけどね」


週末にリネン類を洗濯するのは恒例になっていた。


ベランダが埋まってしまうので、前日に衣類の洗濯は済ませておくのが定番なのだが、この雨ではしかたない。


「面倒ならコインランドリー走ってもいいよ?


ついでにドライブでもする?」


明日は日曜日でお互い完全にフリーなので融通が利く。


「ほんと!?」


身を乗り出した亜季の表情が明るくて、丹羽の表情もつられて柔らかくなる。


「どっちが嬉しいの?」


「どっちもよ」


「じゃあ決定。行きたいところある?明日の天気が微妙だから、屋内のほうが確実だと思うけど」


「夕飯までに考える」


「ところで奥さん?」


明日の予定が大まかに決まったところで、丹羽が亜季の方に身を寄せた。


ソファに横並びで座っていたので、あっという間に距離が詰まる。


ピクリと亜季が肩を震わせた。


”丹羽亜季”になったのだから”奥さん”という呼称は誤りではない。


けれど、夫である丹羽が呼ぶたびに、亜季は面白い位緊張する。


「はい?なにか?」


いきなり臨戦態勢になった妻のピリリとした表情をつぶさに見つめながら、丹羽は指を窓の外に向けた。


僅かに顔を巡らせれば、ベランダに雨が降りこむ様子がよく見える。


洗濯物を干していたら、大急ぎで取り込まなくてはならないところだ。


「雷も鳴りそうだけど?」


「あーそうね、この天気だしね」


あっさりと頷いた亜季が再びつけっぱなしのテレビに視線を戻した。


非常に面白くない。


こんな天気のたびに、あの日の会議室でのやり取りを思い出すのは俺だけなのか?


亜季にしたら些細な事でも、丹羽にしてみればかなり衝撃を受けた出来事だった。


あれからますます亜季から目が離せなくなったからだ。


顔を合わせる度、必死になって彼女の脆い箇所を探す自分が居た。


綻びでも見つけなくては近づけない位に、亜季は綺麗に武装していて、その癖、着込んだ鎧は驚くほどに脆い。


力加減を間違えて手を出せば、最初のあの痴話げんか事件が再発しかねないと思った。


なんとも手のかかる女を好きになったものだ。


複雑な思いのまま、亜季の横顔をじっと見つめていたら、視線に気づいた亜季が、胡乱な表情でちらっと丹羽を流し見た。


「なによ・・・?」


「停電するかもよ、また」


「別に平気でしょ、家にいるんだし・・・あ!」


心配する必要はなし!と受け流そうとした亜季が、勢いよく丹羽に向き直った。


やっと思い出したらしい。


「やだ!なに、あの時の事思い出してたわけ!?結構前の事でしょ!忘れてよ!今すぐ!はい!忘れる!」


真っ赤になった亜季が必死に訴えてきたが、頷けるはずもない。


多分、これからも繰り返し思い出しては噛みしめる。


「そんな簡単に忘れられたら、今こうなってないと思うけど?今度は悲鳴上げてもいいよ、この距離ならさすがに掴み損ねる事ないだろうし」


伸ばした手で亜季の手首を掴む。


あっさり指が回るこの感じ、うん、確かに亜季の手首だ。


力加減を間違えれば手折ってしまいそうなのに、あの日の亜季は、やけに頼もしく見えた。


彼女がそう見せていたのだと今なら分かるが、庄野の前にいた亜季は、頼れる先輩そのものだった。


「何でそんなどうでもいい事覚えてるかなぁ・・もう・・・え?」


頭を抱えていた亜季が、丹羽の一言に顔を上げる。


「どうでもいい事じゃないから」


「そうじゃなくて、掴もうとしたの?あの時?」


「・・したよ。わざわざその為に隣まで行ったのに、見事に逃げられた。暗闇なら少しは素直になるかと思って期待したのに、見事に裏切られたよ」


僅かでも亜季に触れたなら、きっと気付いただろうから、完全にこの手は暗闇をすり抜けただけだったのだ。


あの時は、届かなかった。


感慨深げに呟く丹羽に、亜季がしゅんと項垂れた。


「あー・・そう、それは・・申し訳ない」


まだちゃんと告白する前だし、付き合ってもいなかったのだから謝る必要はないのに、丹羽を傷つけたと思う所が義理堅い亜季らしい。


「俺の予想だと、あの時、この手は震えてた筈なんだけど?」


するりと手首を撫でた指を肘まで滑らせて、丹羽が首を傾げる。


あの悲鳴は、相手の気を引く為の駆け引きで発せられたものでは決してない。


だから、少なからず亜季の心は不安でいっぱいだった筈なのだ。


その癖平気な振りをして、庄野を迎えに暗闇の中飛び出して行った。


逞しすぎる背中に張り付いていたのは、意地とプライド。


それに気づいてしまったから、どっぷりハマった。


答えを求めて顔を近づけると、亜季が背中を反らせて視線を外した。


狼狽える表情に殆ど答えは出ている。


「さ・・あ?どうだったかな・・・」


「何でここでも意地張るんだよ・・・今更だろ?」


「覚えてないの、まじで、ほんとに、全力で」


「必死になるとこが胡散臭いよ」


仰のいた喉元を擽ると、亜季が可愛らしく鳴いた。


「ひゃんっ・・・んっ・・・ぁ・・っ」


首を竦めた亜季の額に甘やかすようにキスをして、丹羽が頬を撫でた。


息継ぎの合間に舌を絡めて抵抗を解くと、亜季がゆるゆると舌先で応えた。


暫く柔らかい口内を味わってから離れると、すでに亜季の目は潤んでいた。


震える肩を優しく抱きしめて揺らす。


ほうっと息を吐いた亜季の耳元で囁いた。


「そういう顔、俺には隠さずに見せてよ」


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