第113話 期待、裏腹、壁ドン!!!
脱衣所のドアを開けると、ひんやりとした空気に自分の纏うジャスミンの香りが広がって、亜季は思わず笑顔になった。
週末のご褒美にと買ったバスソルトは、人気商品なだけあって、香りも保湿力も申し分ない。
死海の塩とエッセンシャルオイルの発汗効果で、心なしかお肌も生き返った気がする。
何よりバスルームに充満するジャスミンの香りが、何とも贅沢な気分にさせてくれた。
一週間残業にも負けずに働いた自分を称えながらの入浴は、まさに命の洗濯だ。
これで湯上りに冷えたビールを飲んだら、もう最高に幸せだ。
後は眠るまで、おつまみと美味しいお酒のエンドレスループ。
半乾きの髪を手櫛で梳きながらキッチンに向かう。
適当に作っておくよ、と丹羽が言ってくれたのでおつまみはお任せにしてあった。
「岳明ーもう飲んでるー?」
「待ってたよ。あ、また髪乾かしてない」
キッチンで料理の仕上げ中の丹羽が、亜季の姿を見て顔を顰めた。
本当はもう少しドライヤーのお世話になろうかと思ったのだが、我慢できなかった。
リビングはエアコンで程よく暖められているし、短い髪なので問題ない。
こういう時は本当にショートカットで良かったと思う。
佳織のように長い髪にも憧れるが、手入れが面倒になる事間違いない。
「暖房効いてるから平気ー早くビール飲みたくて。
わーカルパッチョ!!サラダもあるー。ナッツも出していい?」
カウンターに並べられえたお洒落なおつまみを見て、亜季が目を輝かせた。
簡単な物しか作らないよ、というわりにいつも盛り付けまで完璧な夫だ。
ちーかまと、カルパスと、いかの燻製で豪華なおつまみだ!と満足していた独身時代の自分の姿は絶対に見せたくないと常々思う。
「もうテーブルに置いてあるよ。ほら、ビール」
丹羽が冷蔵庫から冷えた缶を差し出してくれる。
「ありがとう!!んー・・冷えてるー」
頬に付けると、湯上りの火照った頬が潤っていく。
化粧水を叩いただけの手抜きスキンケアだが、今日だけは許して、と何処に居るともしれない神様に祈っておく。
定位置に座ろうと、キッチンから出ると、付けっぱなしになっているテレビから、話題のスポットを紹介するVTRが流れて来た。
ふーん、と何の気なしに眺めていたが、次の瞬間、亜季は思わず声を上げて立ち尽くしてしまった。
「っはあ!?」
「なに?どうかした?」
料理をカウンターに並べ終えた丹羽が、後を追ってリビングに出て来る。
怪訝な顔をする丹羽に向かって、亜季は困惑顔でテレビを指差した。
「壁ドン体験コーナーって何・・・そんなのあんの?」
「なんだそれ・・・」
つられるようにして、丹羽もテレビに視線を向ける。
『えーこのように、今ドラマ等で度々話題になっている、胸キュンシチュエーション、壁ドンを体験出来るコーナーがこちらになっております!!』
興奮気味のレポーターがブースに入って、壁ドンマシーンの前に立つと、目の前に迫ったロボットの腕が両側から迫って、勢いよく壁に叩きつけられた。
『きゃっ!結構な迫力ですっ!ご覧のように、女性ばかりではなく、男性の方も多く並んでいらっしゃいますね!』
カメラが回ると、体験コーナーにずらりと男女の列が出来ていた。
面白半分で並んでいる男性客や、興味津々の様子で前方を伺う女性客のグループが映し出される。
「えええー・・なにそれ・・流行ってんの・・・?」
「亜季が見るドラマでは出て来た事ないけどなー・・」
「刑事ドラマと医療ドラマ好きで悪かったわね」
恋愛ドラマは昔から苦手なのだ。
感情移入すれするほど、ヒロインとは程遠い自分が惨めになるし、どうせ別次元の出来事よね、と憧れるよりはやけっぱちな気持ちになってしまうから。
見終わった後、すっきり出来る刑事ドラマや、感動系の医療ドラマの方がよっぽど明日も頑張ろうと思える。
つくづく女子力とは無縁の感性の持ち主だ。
亜季の言葉にくすりと笑って、丹羽が亜季の顔を覗き込んだ。
「拗ねなくてもいいのに」
「拗ねてませんー。開き直ってるんですー。
そういえば、うちの後輩達が、9時のドラマがどうこうって言ってたかも・・・
見てないから話題に入ろうともしなかったけど・・・知ってた?」
「いや。そもそも男はそんな話題会社でしないよ。
妻帯者なら尚の事」
返って来た言葉に含まれる単語に、にやっとしてしまうのはしょうがない。
「・・・妻帯者・・・それもそうか」
丹羽が会社で壁ドン云々を語る姿を想像してみたが、確かに違和感しかなかった。
この手の話題と自分たちは、世代がそもそも違うのだ。
耳にした事が無くてもしょうがない。
「気になる・・?」
隣から聞こえて来た質問に、まさかと肩を竦める。
「そんな歳でも無いわよー・・・っ!?」
答えて、いつもの定位置で美味しいお酒を飲もうとした亜季の前に、笑顔の丹羽が立ち止まった。
そのまま丹羽の腕が亜季の顔の真横に伸びて来る。
驚いて後ろ足を引いたら、背中が壁に当たった。
ドン、と丹羽が壁に手を突く。
すいと顔を近づけて、丹羽が微笑んだ。
「どう?」
「な、何!?」
「何って、壁ドン」
「た、頼んでない!」
「期待してるのかと思ったんだけど」
「なんであたしが期待すんのよっっ!」
有り得ないから!と首を振ると、短い襟足に鼻を押し当てて、丹羽が深呼吸した。
ついでのように首筋にキスが落ちて来る。
そのまま下がった唇が鎖骨の上にもキスをした。
その間も、丹羽の腕は壁から離れない。
何処にも逃げ場所が無いような錯覚に捕らわれる。
「・・・こんないい匂いさせてたら、近づきたくなるだろ。
これは知らないやつだな・・・何の香り?」
丹羽の問いかけも、耳の中を通り過ぎていく。
「・・・え・・?」
ぼんやりと問い返したら、丹羽が亜季の頬を優しく撫でた。
「あれ・・動揺してる?」
面白がるような表情が見えて、慌てて言い返す。
「っ!!だ、ってこういう状況想像してないからっ」
心臓が跳ねるのも仕方ない。
「ドキっとしたんだ?」
「そりゃするわよ!平然としてられるわけないでしょ!?」
「多分、皆そういう感覚を求めてるんだろうなー・・・日常に混ざる非日常に魅力を感じるんじゃない?」
「あ・・それは・・なんとなく、分かる」
こういうぶっ飛んだシチュエーションじゃなくても、不意に外で手を握られた時とか、胸が苦しくなって思考回路が停止する事がままある。
こくんと頷いた亜季に、丹羽がちょっと驚いたような顔になった。
「全否定するかと思ったのに・・・へえ、そっか。
じゃあ、たまにはこういう非日常も演出しないとな・・・」
反対の手も壁について、丹羽がゆっくりと顔を近づける。
「ちょっと・・・岳明・・・」
「ビール、落とさないでよ」
転がったビールがどんな悲惨な末路を辿るか、何度も経験している亜季は、冷たい缶をぎゅっと握りしめる。
その仕草を見て、丹羽がふっと表情を和らげた。
「心の準備は出来たみたいだな」
「え・・?・・・っん」
声を漏らしたら、その隙に唇が重なった。
視線を下げた亜季の唇を掬うようにキスが深くなる。
背中に壁があるのでこれ以上後ろに下がれないし、両脇に突かれた手のせいで、身動きも取れない。
ああ、この人に捕まってしまったのだと改めて実感する。
ニュースの音が少しずつ遠くなる。
耳に聞こえる鼓動が大きさを増す。
重なる呼吸がくぐもって、息苦しさが快感に繋がる。
空いている手で丹羽の腕を掴んだら、忍び込んで来た舌がご褒美を与えるように亜季の舌に絡んで来た。
ざらついた表面をなぞって、上顎を擽ってからゆっくりと口内を探って溶かしていく。
「っは・・・っん・・・ぅ」
壁に突いていた手が離れて、亜季の背中に回された。
反対の手は後ろ頭を捉えて擽る。
拳一つ分、壁から背中が離れて、そのおかげでさらに丹羽を見上げることになる。
湯上りの首筋をなぞる指先がするするとTシャツの隙間から背中を撫でた。
上唇と下唇を啄んで、そっと丹羽がキスをほどく。
背中の手はそのままで、亜季の握りしめていたビールの缶を指から外した。
「落とすかと思った」
「だって・・飲めなくなるから」
「呼吸平気?」
「・・・ちょっと苦しい・・」
大きく息を吸うと、丹羽が背中を宥めるように優しく撫でた。
「凭れていいよ・・・あー・・分かった・・・ジャスミンだ。
この匂いどっかで嗅いだことがあると思った」
額にキスを落とした丹羽が、正解?と首を傾げる。
「ほんっとに記憶力いいわねー。そうよ、リビングに置いてるボ
ディバターとおんなじ匂い」
「ああ、そっか。キッチンから戻って来た亜季が、この匂いさせてるから記憶に残ってたのかな」
水仕事の後に使う為にいつも置いてあるそれを、丹羽は無意識のうちに覚えていたのだろう。
「うん・・いつもの入浴剤の匂いも好きだけど、この匂いもいいね。落ち着く・・」
確かめるように鼻を近づける丹羽に、亜季が擽ったそうに身をよじる。
「いつものはラベンダーバニラ・・覚えてね・・ってもう、岳明、ちょっと、擽ったいってば!」
「ちゃんと匂い嗅いでおかないと覚えられないよ。もうちょっと我慢して」
亜季の非難にも、丹羽は笑って取り合わない。
ビールが温くなるまで、暫く丹羽と亜季の攻防戦は続いた。
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